安芸教会史
自明治21年(1888年)
至昭和50年(1975年)
序
安芸教会創立以来80余年の経過をものがたる資料は少ないとは言えない。第一次的なものとしては、教会日誌・役員会記録・会計簿・週報などが相当多数残されているし、訪問日誌・勤怠表・家賃通帳・書簡などもいくらかある。第二次的なものとしては、清岡玄之助氏による『安芸教会史』がまとまった労作であり、長崎太郎氏による『宣教者森勝四郎先生とその書簡』も、側面的な立場からではあるが無視することのできない記事を含んでいる(ただしこれは、安芸教会のことについては清岡氏の記録をかなり利用している)。また篠宮孝子牧師のノートにも貴重なメモがある。
ただ、信仰の内面をうかがわしめるような資料は、牧師の説教も信徒の証言も、第一次的な信頼に足るものはまず皆無といっていい。したがって、わずかの間に二度までも与えられた分裂の試みについても、その深い事情を記述することはできない。それぞれの立場にそれぞれの主張があったはずであるので、もしもそれらが正しい姿で示され、教会史の流れの中で反省されるならば、ただに安芸教会にとってのみならず、すべてのキリストの教会にとって少なからず意義をもたらすことであろうが。
時代区分をするとすれば、二度の教会分裂をもって区分するのが適当であろう。そうすれば、第一期は明治21年の創立より41年の森派分裂までの20年であり、第二期はそれから満40年、昭和23年の改革派分裂までとなる。
- 安芸講議所設置
- 安芸講義所事務取扱仮規則制定まで
- 仮規則制定
- 規約制定まで
- 教会建設願提出まで
- 教会建設願
- 高知県下集中大挙伝道
- 明治26年から27年へ
- 会堂新築
- 明治28年
- 明治29年
- 明治30年
- 明治31年
- 明治32年
- 明治33年
- 明治34年
- 明治35年
- 明治36年
- 明治37年
- 明治38年
- 明治39年
- 明治40年
- 森派分裂
- 明治42年 ー 45年
- 大正2年、3年
- マキルエン師の手紙
- 教会独立の前後
- 大正12年 ― 昭和3年
- 特別伝道の功罪(昭和3年 ― 8年)
- 牧者を求む(昭和9年 ―11年)
- 戦時体制の中ヘ(昭和12年−16年)
- 森派信徒拘引留置
- 太平洋戦争の中で(昭和17年−20年)
- 週報より
- 終戦後(昭和20年−24年)
- 改革派分裂
- 退潮の時(昭和25年―29年)
- 会堂移築と牧師館建築(昭和30年−33年)
- 昭和34年から38年
- 都市計画による移転
- 昭和39年から46年
- 昭和47年から昭和50年まで
- 訂正と補遺
1、安芸講議所設置
明治17年11月に伝道がはじめられた高知では、翌18年5月に高知教会の誕生を見、片岡健吉・武市安哉・細川義昌(弟の孫が田所大作兄)・坂本直寛・原房太郎・西森拙三などの会員が、フルベツキ氏・グリナン氏などの宣教師を補佐して、県内各地に伝道活動を展開した。その安芸への発展は、清岡氏の安芸教会史によると、早くもその翌年明治19年に始められた。
明治32年10月1日の教会日誌に「日本基督教会安芸講議所既設届」を写してあるが、その冒頭に「当日本基督教会安芸講議所は明治21年9月1日より設立致し来りたるものに有之候。依左記之事項を具し及御届候也。1、設立を要したる理由、明治21年春以来高知基督教会信徒細川瀏、安芸地方の伝道に着手せし所数名の求道者起り来りたるが為に一個の講議所を設立するの必要を生したるに由る」とある。
清岡教会史によると、安芸村の伝道は明治19年頃から始められ、宣教師フルベッキ、グリナン、大谷虞(安芸出身、明治学院在学中)などの活躍に負うものである。
また篠宮牧師のノートには、「キリスト新聞」と但し書をして、21年2月25日グリナン氏、細川氏によって愛宕席(現在の妙山寺の西側にあった劇場)で演説会が催されたこと、同年7月に講議所が設置されたこと、10月11日には男子4名女子6名の受洗者があったと記されている。
教会現存の最古の資料としては講義所家賃受取通がある。その第一行目に「明治21年9月2日より」として、その月から25年7月まで毎月1円、のちに1円50銭、西沢広之助氏に支払われている。場所は二十五番屋敷である。
安芸への伝道経路について一つの憶測が可能である。それは、土佐勤皇党ゆかりの者たちが縁になっているのではないかということである。
まず、高知からたびたび伝道に来た坂本直寛は坂本竜馬の姉の子で安芸郡安田村高松家より竜馬の兄権兵の養子となった者、また武市安哉は26才で安芸郡書記となったがもと大埇村(南国市)の郷士であるので瑞山との何らかの関係を想像しないではいられない。
一方安芸の受入れ側で言えば、菅和は二十三士の一人須賀恒次の弟、須賀信吉は恒次の養子、寺尾準興は二十三士の寺尾権兵の弟、清岡玄之助は清岡道之肋の一門である。
時から言っても、二十三士の事件のあった元治元年(1864年)から明治19年(1886年)までわずか20余年であり、これは身近に経験した者にとってほんの昨日のことと思えるほどのへだたりにすぎない。
2、安芸講義所事務取扱仮規則制定まで
教会日誌第1号は23年暮までは至極簡単である。24年正月に過去をふり返って主なる事柄を記録したものらしい。最初の受洗者が記録されていたと想像される第一枚目が欠損していてその洗礼者名のみ第二枚目の最初に残っている。米国宣教師グリナン氏と高知教会長老細川瀏氏である。後の記録から逆算して、少くとも宇田猛児氏と菅和氏が最初の受洗者の中に含まれていたと考えられる。さらにおそらく、菅栄・岩井美代喜・有光麟馬・勝賀瀬滝・新居寿々女・広松増稲・新居春恵などが含まれていたであろう。
日誌の最初の日付は22年2月10日である。この年には野村二三・並村喜七・小松庫太郎など9名、翌23年には須賀信吉・須賀竹五郎など21名、および須賀寛助・須賀久寿一(建材)など小児10名の受洗者があった。基督新聞の記事のとおり21年に10名の受洗者があったとすると、講議所開設以来2年4ケ月にして信徒数50名に達したわけである。その中、成人男子16名、多くは働き盛りでしかも地域の各方面で重要な地位にあった。
ちなみに、清岡教会史によると、宇田氏は「元医師であり典医をも勤めた人で漢学の造詣も深かった」、菅氏は「フランス法律を修めたインテリで後年安芸・幡多・高岡等の郡長を歴任したが到る所教会のために重きをなしていた」。その他、並村喜七はのち並村製糸社長、小松庫太郎はのち安芸町長、須賀信吉は須賀醤油店主で安芸村長、須賀竹五郎は須賀わた屋店主であった。
この間来援されたのは、グリナン師、細川氏のほかに、宣教師プライス、女教師スターリング、ダウド女史、高知教会牧師吉岡弘毅、同長老原房太郎、同じく坂本直寛、高知英和女学校教師吉川季次郎、明治学院神学生津久井新三郎の諸氏である。
22年10月、伝道師手塚新氏赴任。
3、仮規則制定
24年1月から記録は急に詳細になる。1月4日の日誌に、安芸講議所事務取扱仮規則を決議した旨記している。内容は第一に、安芸講議所は高知教会に属するゆえに高知教会に倣って事務を取扱うこと、第二に委員を定めて事務を分担すること、第三に事務の種類として訪問・伝道・会計・庶務の委員を置くこと、第四にそれぞれの事務の内容を規定し、さらに選挙によって決定した委員名を挙げている。それは、
訪問委員― 須賀信吉・小松庫太郎・野村二三・須賀亀治・岩井美代喜・菅栄
伝道委員 ― 並村喜七・弘松楠蔵
会計委員 ― 宇田猛児・並村喜七
庶務委員 ― 菅和・小松庫太郎・菅栄
安息日学校長 ― 菅和
であって、ここにはじめて教会の体制が整ったわけである。これらの委員がどのような活動をはじめたかは、その直後から記録しはじめられている資料によってうかがうことができる。
訪問日誌はこの日より筆をおこし、断続的に明治32年1月まで書き続けられている。はじめの2、3年は主として川北・伊尾木の信徒や、安田講義所への訪問が記されている。
教会員勤怠表第1号も24年1月からはじまっている。1ケ月ごとにまとめ、各週3個の欄があるのは、朝拝・夕拝・祈禱会を意味するものであろう。ちなみに1月第1朝拝は43名中23名、翌25年1月第1朝拝は57名中29名出席となっている。いかにも信徒互いに励まし合い競い合って集会していた様がうかがわれる。25年9月からは婦人部の勤怠表が独立し、はじめ25名がつらねられ、同じ時に小児の勤怠表もはじめられ、17名の名前が最初に記されている。
会計簿も、25年以降のものに第二号と書いた紙片をはさんであるところを見ると、おそらくこの24年から記録されはじめたと思われる。25年の総収入は79円17銭5厘、総支出は75円48銭8厘であり、月定献金額は10銭乃至2円、支出では最高が家賃で月1円50銭(のちに2円)である。牧師への謝儀支出が全くないところを見ると全額外部からの援助によっていたであろうか。牧師への手渡しは、伝道費として月50銭(のち1円)、 外に旅費として10円支出されている。
24年5月から9月まで、小児の部の慈善寄付金の控えが残されていて、10余名の者が(菅如梅・菅千秋など)毎週1厘乃至5厘(時に2銭余りのこともある)を捧げ、高知貧民学校・岡山孤児院・東京業生院などにそれぞれ20銭乃至33銭寄付されていることがわかる。
4、規約制定まで
日誌から主なものを拾ってみると、 24年3月22日、杉浦義一 (土佐教会初代牧師)・坂本直寛・吉川季次郎(高知教会)来芸、「愛宕席において大演説会、聴衆3-400」。
4月19日、高知教会よりの照会によって同教会長老候補16名に対し、安芸講議所より菅和・宇田猛児の2名の候補を選挙。
6月10日、横浜住吉町指路教会牧師山本秀煌氏愛宕席で説教会、信徒以外5−60名。
7月5日、総会を開き講議所規約を制定。内容はおおむね仮規則に倣っているが、委員長を置いたこと、訪問委員の代りに組合委員を置いたことが主な相違である。これは地区を四つに分け、第一組は庄兵衛町以西および井ノロ村、第二組は次良左衛門町以東で知義礼町以西、第三組は本町三丁目以東上町まで、第四組は川北村および伊尾木村とし、それぞれ委員を置くものである。委員長には菅和氏が選ばれた。
5、教会建設願提出まで
24年10月3日、細川氏・ブラオン氏講義所で説教会、約100名。
12月25日、クリスマス祝会、150名。
この年礼拝平均出席はおよそ40乃至50名、祈禱会は20乃至30名である。
25年4月、明治学院神学生安芸講義所員大谷虞氏(土居)来援、1ケ月間説教担当。
4月19日、グリナン氏・プードホール氏の説教会、7−80名。
7月6日、「明治学院教授東京一番町教会牧師植村正久氏来芸、同日午后と7日午后、当所において説教会を開く、集り人員100名位宛、また6−7日午前質問会を相開く、8日安田村へ出張、9日帰高す」。
7月17日より9月1日まで、同志社神学生馬場正毅氏夏期伝道に来芸。
7月29日、「五十二番屋敷講議所を84番地に移転す、当所芸村中央に位す、しかれどもすこぶる不潔不義の集合町なり、全能の神の御恩降臨あらんことを切祈す」。
8月3日、婦人伝道のため小倉レイ女史来芸、およそ1ケ月間滞在、近隣各地で度々集会を持ち、特に同月30日黒鳥村にて女40名、男30名、小児20名集る。
9月23日、宣教師モーワキ説教会、7−80名。
9月28日より4日間、連夜祈禱会、細川瀏氏奨励、毎夜20数名の出席。
10月16日、宣教師マキルエン説教会、8−90名。
10月26日、「神学法律博士フルベッキ氏ならびに細川瀏氏来芸、同夕本村愛宕席において大演説会を開く、集り人員およそ5−600名。フルベッキ氏演題『基督教に関する誤解を正す』、細川氏演題『一大欠点』。聴衆非常に感ず、殊に快弁老練なるフルベッキ氏の演説は一層の注意を与え、誤解を正して余りなし。27日日曜朝、集り人員およそ8−90名。当所においてフルベッキ氏説教『永生』と題し信者に注意を促せり」。
24年から25年にかけて、手塚伝道士は少なくとも三度本山地方へ伝道出張をなし、25年11月には2ケ月間も滞在している。清岡教会史には、手塚伝道士はこの「期間終了後も時々伝道のため同地方に出張し、教勢振張、遂に講義所を創設し、今日の嶺北教会の基を開いた」とある。
そのほか、この間に来芸応援された方々には、伝道士武久某(高知教会?)、高知教会の武市安哉(後免、政治家、代議士。後に北海道へ)と中島留吉、土佐教会の川本友吉と小笠某、安田講義所の黒岩某、長岡講議所の西内某、その他、森某氏などがある。
6、教会建設願
教会建設願は2部残っている。一つは、24年9月4日付で、宇田猛児・菅和以下20名の男子、菅栄・岩井美代喜以下21名の女子、須賀寛助・須賀久寿一以下8名の小児、大谷虞以下10名の不在会員、計59名が名をつらね捺印して、中会議長坂野嘉一氏に宛てられている。他方は25年10月20日付で、不在会員名が男女いずれかの名列に加えられ、かつ数名の増員があり、男27名、女27名、小児11名、計65名、中会書記青木仲英氏に宛てられているが、草稿もしくは控えらしく、捺印もない。
これら二つが何を意味するか明らかでないが、26年1月1日の日誌に「仮教会建設報道式施行」と記されていることと関係があるであろう。この日、坂本直寛氏が説教をなし、マキルエン師によって須賀寛郎・氏原巴が受洗している。
7、高知県下集中大挙伝道
明治26年1月から1年間、大挙伝道のための特別献金がなされ、51円余の収入あり、内50円を高知教会々計に納入している。
また同年1月、伝道委員(兼訪問委員)として須賀信吉・小松庫太郎・弘松楠蔵・野村二三・菅栄・田村峯・並村富を選び、大挙伝道をはじめた。日誌によれば、この年伝道活動は最も活発であり、大小の特別の集会の延回数は、1月から10月まで各月、17・17・30・28・23・24・11・22・10・13とおどろくべき数字を示しているが、途中から明らかに疲労の色が見えはじめ、5月には手塚伝道士病臥、7月頃から出席者が著しく減少し、8月頃から特に安芸村内における予定集会がしばしば流会になり、訪問日誌は11月以降30年4月まで空白となる。
これらの集会の会場は、安田・伊尾本・川北・土居・井ノ口・黒鳥・穴内の諸村、安芸村の各地区、その他信徒の家庭である。
教会日誌から主なる事件を拾うと、 1月10日、「愛宕席において公開演説会を開く、弁士神学哲学博士ナックス氏は『基督教の救に付て』、明治女学校教頭巌本善治氏は『求道者に告ぐ』、明治学院教授植村正久氏・宣教師グリナン氏等熱心に演説せり、来会員600余名熱心に謹聴せり」。
2月18日、「愛宕席において公開演説、弁士片岡健吉・坂本直寛・楠目玄氏、聴衆400余名」。
6月21日、東京貴山幸次郎・浜田珍重氏来芸、「教会において説教、聴衆百名余。同22日、聴衆同上」。 この年1月から4月まで田島賢蔵氏(後の山田賢三)、7月から翌1月まで青木澄十郎氏が長期滞在し応援。小倉女史、大谷虞氏の名もしばしば日誌に見られる。その他応援者には、グリナン・グリハム・マキルエン・多田素・細川瀏・東京聖書の友会員山形某・隅谷美三郎・小倉修吉・国沢篤美・松田順平・伊藤某があり、信徒では菅和氏が最も活躍している。
8、明治26年から27年へ
26年3月に、女子1名教会放逐、男子2名晩餐停止の処置を受けているが、理由も経過もその後の影響もわからない。また8月には1人の姉妹が信仰のゆえに家庭問題をおこし離別したことが記されている。
教勢は4月の月平均が、朝拝38名、夕拝49名、祈禱会19名。勤怠表に名をつらねる者、老若男女合わせて162名。
年間収入は121円余、支出は111円余。
12月、手塚伝道士(第一代)は後免教会へ転出。
27年1月より5月まで無牧(2回目)。
1月14日、「教会のため委員会を開き、高知教会牧師多田素氏へまで回答すること左のごとし、ミッションヘ3円の補助出金のこと到底払出難き旨を答す。よって将来孤立の儀決す」。詳しい事情はわからないが、ミッションヘの献金の申出を拒んだために援助も受けられなくなることを覚悟したものであろうか。ところがその6月に、牧師を迎えてから、毎月12円の補助をミッションから受けることとなる。
4月20日、「安田・田野・奈半利各兄弟姉妹連合春期親睦会を東大山海岸に開く、来会者大人小児35名」。
5月26日、大石憲英牧師(第二代)着任。
6月25目より6日間、毎朝4時より30分、連朝祈禱会、20乃至27名。
7月24日には、「本夜祈禱会3名、時間を余す20分、会員信仰の冷かなること以て知るべし、ねがわくは神の愛により聖霊を以て熱心ならしめんことを噫」とある。
8月1日、日清戦争が始まる。
8月5日、「毎週月曜日午前4時より30分間、我帝国のため海外派遣兵士のため神の祝福を得んため祈禱会を催すこと決議す、県下教会へも照会せり」。この祈禱会は、第1回目21名出席、途中4名にまで威少したが、戦役終了の翌28年5月20日までなんとか続けられた。
11月3日(土曜日)、「天長節を祝し午前10時集会の上、祝文朗読演説あり」。
12月9日、「長岡教会において故武市安哉氏の追悼会を催すにつき、教会を代表し菅和氏を出張せしめたり。同日征清従軍者清岡玄之助氏に対し慰問状を発せり」。
この年、和田米蔵・近藤桑植・福留澄吉永眠、大谷虞・隅田伝蔵転出、受洗者なし、朝拝出席20乃至30名、祈禱会出席10乃至20名に激減。10月以降の勤怠表では、男30女33、女子青年60、小児102の名がある。
年度の会計は総額約270円、内ミッションよりの援助108円、支出のうち198円は教師謝儀である。
応援者としては、大谷氏が最も多く、その他、グリナン・マキルエン・ムーア・坂本直寛・青木澄十郎の諸氏があり、特に無牧時期の説教は信徒の菅和・宮地茂・野村二三・岩井長治・宇田猛児・弘松楠蔵・一円太吉郎・清岡玄之助の諸氏が受持っている。
この年、田野でも集会が持たれた。
9、会堂新築
すでに明治26年1月22日に教会堂建設について総会があり、建築委員として菅和・宇田猛児・並打喜七・須賀竹五郎、寄付金募集委員として須賀信吉・小松庫太郎・並村喜七が選ばれ、直ちに寄付金募集が始められ29年5月まで続けられた。団体では、外国人組合からの150円を最高に、高知教会・長岡教会・本山講議所、個人では宣教師スターリング・ウードホール・グリナン・グリハム・田島賢蔵、信徒では菅和と須賀信吉の77円を筆頭に25口、総計は34口で565円10銭である。支出は、建築請負額として須賀竹五郎に支払われた492円、奉堂式費の20円31銭7厘、その他で、計552円21銭7厘である。
建築は27年内に完成し、28年1月3日に献堂式が行われた。日誌によると、「本会堂建築落成につき捧堂式執行、大石教師の開会並びに捧堂祈禱、菅氏の安芸教会の略歴、並村氏建築委員総代を以て建築始末報告、引続いて谷昌方氏秋山講議所より祝文並びに祝電朗読、来賓諸氏の祝詞演説あり、大石教師の祝禱を以て閉会せり。その日来賓は、裁判所長・諸学校教員・村会議員・郡会議員・県会議員・有志者等数十名なりし。殊に後免教会・土佐教会・高知教会より総代及び有志信徒来芸せり。実にこれ午前10時開会せり。同日午後6時新会堂において大説教会を催せり。弁者高知教会牧師星野又吉氏・本山講議所伝道士田島賢蔵氏の説教あり、聴衆凡7−80名。これ実に新会堂第一着の集会にして好結果を奏せり。豈に神に感謝せずして可ならんや」。
10、明治28年
日清戦争が終って年度の後半になると、教勢は好転しほぼ26年のそれにかえった。安息日学校の名簿の上では総計180名になっているが、受洗者は2名、永眠者1名(岩井長治)であるので、教勢は26年以来横這いの状態である。
9月14日、片岡健吉氏説教会、120名。
その他この年の来援者は、細川・マキルエン・ムーア・松永文雄(高知教会伝道士) ・信太寿之(札幌教会牧師)・ 溝口悦次(伝道士) ・川添増恵(高知教会派出伝道士) ・柏井園・馬場正毅の諸氏である。
28年4月から12月までの会計は、収入が222円余、内ミッションよりの援助108円、支出は216円余、内教師謝儀は1ケ月20円で計180円である。
12月25日午後、クリスマス祝会に百余名の出席、 「同夜須賀氏宅に親睦会の催しあり盛会なりし」。須賀信吉氏にとってこれが最後のクリスマスとなった。
11、明治29年
5月16日、「フルベッキ氏・マキルエン氏(父)来芸、同夜会堂において説教会を開き、フルベッキ氏『人神を拝むべき理由』と言える題にて2時間余の長演説をなす、聴衆160余名、始終謹聴せり」。
5月17日、「午後説教フルベッキ氏、聴衆154名、『永生の話』と言える題にて2時間演説をなす、一同謹聴せり。フルベッキ氏・マキルエン氏は18日安田村へ行かる」。
11月20日、デビス博士説教集会人堂に溢る」。
12月23日須賀信吉氏永眠。大石憲英牧師の報告によると、「会員須賀信吉氏は去る22日の夜俄然急性脳卒中症に羅り、翌日午前10時溘焉として遠逝す、氏は性温良以て業を執り、家に在りては良主人たり、世に立ては良国民たり、教会においては良信徒たり、曽て学務委員となり教育の功労少なからざるが故を以て文部省より賞典を辱うし、続いて村長となり、衛生委員となり、土佐貯蓄銀行の名誉役員となり、郡会議員となり、現に土佐鉄道会社発企者の一人として計画奔走中遂にここに及ぶ。氏は教会において或は安息日学校長となり、或は会計委員となり、或は訪問委員となり、現に伝道委員なり。而して遂に逝く。年僅かに四十有一。今や幽明処を異にす。嗚呼悲哉。25日午後1時葬儀を安芸教会堂において執行す。会するもの無慮250名許(教会日誌には500余名とあり)。余式を司る。同3時出棺、郊外共有地に埋葬す」。のち遺族から教会へ記念としてオルガンが贈られた。
この年、8月から9月へかけて石阪亀治教師滞在、8月9日の集会130名、並村製糸・黒鳥・春日・土居の四ケ所で説教会、各80名ばかり。
教勢は回復の様子で、日誌で拾っても6名の受洗者あり、安息日学校在籍老若男女計252名、平均出席84、青年以上が41、礼拝出席平均38、祈禱会17、教会会計は年間収入支出共284円余、ミッションよりの補助は後半になって月額12円から10円に減じ、集計126円、教師謝儀は月額20円で集計220円である。12月以降ミッションからの援助もなく教師謝儀の支出もない。翌30年1月8日付の大石牧師の報告(篠宮牧師のノートより)によると、教会はいよいよ自給独立の地位に進み、大石牧師は任を辞して赤岡に移っていた(29年11月末と思われる)。
この年の来援者は、前述の諸氏のほかに、ダウド・坂本直(直寛の兄、高松太郎、龍馬の養子)・川本友吉・大谷虞・多田素・ムーア・溝口悦次・萩原金太郎・渡瀬某(片地伝道士)がある。この頃まで役員として活躍したのぱ、菅和・宇田猛児・須賀信吉・並村喜七・野村二三・小松庫太郎・弘松楠蔵・須賀竹五郎・中村寅治・一円太吉郎などである。
12、 明治30年
3月末、大石牧師のための送別会。同牧師は31年にもまだ赤岡にいて時々安芸で説教している。
4月22日、千磐武雄牧師(第三代)着任。
4月、「ダウド嬢、および村井・永吉両女史来訪、至6月まで伝道を助けられ、特に井ノ口・土居・春日には公開演説会を開き百余名の集りあり」。
6月28日より7月10日まで大挙連夜説教会。近隣5ケ村と安芸村内5ケ所で延13回、2週間の未信者聴衆総計540名。これには川本友告・坂本直両氏の来援を得て信徒多数が交替して当った。それは前述の役員諸氏のほかに、佐藤丑告・寺尾庫吉・氏原宗吉・西山精一などである。
7月から11月へかけて、特に井ノロ村、次には土居村への進出が目立ち、井ノロの山崎勢太宅・小松氏宅、土居の大坪氏宅、春日の小松紺屋宅などでも集会が持たれている。
11月21日、植村正久・貴山幸次郎氏「日本基督創立25年記念伝道巡回」のため来芸、23日の説教会集り100名。
そのほか、この年の来援者は、マキルエン・多田素・ムーア・溝口悦次・野村直彦(高知教会伝道士) ・井手義文(名古屋教会牧師)がある。
教勢は、受洗者5名が記録されているが、在籍数はなぜか男子4名女子14名、小児を入れて百余名の減で、約200名となり、礼拝出席平均は26年頃から横這いの38名、夕拝はおよそ20名減の31名、祈禱会は3名減の16名である。
会計は、ミッションの援助なしの217円余であるから、前年よりは実質的60円の成長を見せているが、教師謝儀は月額5円減の15円となり、集計135円であり、独立直後の苦しさをもの語っている。
13、明治31年
1月3日より1週間連夜祈禱会で平均18名の出席を見たほかはこの年に特別な活動はない。受洗者3、永眠1、出席平均は減少し、礼拝が34、伝道説教(夕拝)が22、祈禱会が15となる。ある意味では落着いたのかもしれない。
7月16日に田野村伝道師本川次郎氏の小児溺死の記事があるところを見ると、田野にも講議所ができていたのであろうか。
12月29日、菅氏宅でクリスマス親睦、大人30、小児40。
この年の来援者は、溝口・大石・大谷・多田・モーアの諸氏のほか、新しい顔ぶれとしては京都教会牧師石橋重則氏がある。
年間予算は240円、内180円が教師謝儀であるから月額15円である。
役員は、小松庫太郎・弘松楠蔵・佐藤丑吉・島崎竜馬・氏原宗吉・野村二三で、この後数年この顔ぶれはほとんど変らない。
14、明治32年
初週祈禱会出席平均14、礼拝出席は20名台の日が多い。
3月26日、名古屋教会牧師笹倉弥吉氏伝道説教、40名。同氏の中会派遣の宣言的報告あり、ただし内容の記載なし。
10月1日、内務省令四十一号宗教取締規定に関する教会管理を従来宇田猛児氏1名のところ2名とし、野村二三氏を加える。日本基督教会安芸講議所既設届提出。
この年、来援者は原房太郎と大石憲英、会計の記録はない。訪問日誌の最後に、1月に2回続けさまに、一ノ宮紺屋小松銀次宅で説教会、集り40余名および10余名とある。
15、明治33年
5月21日、浪華中会巡回伝道師フルトン・貴山幸次郎来芸、60名出席。
6月24日、珍しく説教題の記録あり、「南亜戦争の意義を論じて我国キリスト教将来に及ぶとの千磐氏説教あり」。
来援者はほかに本川次郎氏のみ。
年間支出373円、内240円が教師謝儀、つまり月額20円になっている。
礼拝出席平均は28名である。
16、明治34年
初週祈禱会出席平均10。
2月より8月まで全国的大挙伝道。
3月22日、支那伝道者米国人宣教師ガリット氏来芸、出席80名。
4月29日、千磐牧師(第三代)信州佐久教会に転出。
5月以降無牧(4回目)のため、マキルエン・多田・大谷・本川の諸氏にたびたび来援を受ける。この頃、県立安芸中学校教師浜本利三郎氏が転入し、子息浩氏(作家)や長崎次郎氏(新教出版社社長)が小児の部に名をつらねている。
礼拝出席はさらに減じて、平均25名である。
17、明治35年
初週祈禱会出席平均九名。
6月2日、津久井新三郎牧師(第四代)着任。
10月16日より3日間連夜演説会、それぞれ3ー40名の出席者。
来援者は、上田愛之助・升ノ内虎世(本山村伝道士)・多田素・伊藤嘉吉(高知教会伝道師)・本川次郎・溝口悦二(須崎伝道師)・マキルエン師などである。
礼拝出席平均28名。
年間支出240円、内184円余が謝儀である。
18、明治36年
2月24日より連夜祈禱会、出席平均12名。
11月3日(火)天長節祝賀祈禱会。
11月8日、日本基督教伝道局総裁片岡健吉氏葬儀(10月31日逝去)、津久井牧師教会を代表して出席。
12月25日、須賀寛助宅にてクリスマス祝宴会、大人小児共に約75名。
年収269円、ミッションより108円の援助、支出 の記録なし。
来援者は、マキルエンと池内勝世(安田出身、神戸生田教会伝道師)。
19、明治37年
2月、日露開戦。
9月、教会管理者改選し、菅和・大谷宜三の二氏と定める。
12月、委員改選。日曜学校長新居益吉、副校長高広信政、庶務委員は佐藤丑吉・松本徳三郎、会計委員が大谷・菅、他の委員会は廃止された。
礼拝出席記録が不充分であるが、およそ平均25名、戦争のせいか明らかに低調である。
年収は222円余。
来援者は、大谷・安田(須崎)・溝口(須崎伝道師)・大井(工学士、種崎)。
20、明治38年
6月18日、征露軍人に日曜学校生徒が所感を記した扇子を20本送る。
8月末より1ケ月、大平伝道師(須崎)と津久井氏交替。
9月、日露戦役終結。
10月22日、在須崎伝道師森勝四郎氏はじめて安芸教会で説教、朝33名、夜37名。続いて12月17日および24日にも朝夕説教をなし、46、33、42、26の出席あり。
その他の来援者は、服部某・池内勝世・ダウド・マキルエン・本川次郎。
年収は236円。
教務は好転し、礼拝出席平均30名。特に秋以降、戦争終結のせいか、それとも森氏の魅力のせいか、およそ40名の平均出席となっている。
21、明治39年
1月、役員改選。川島晟耕・小松庫太郎が庶務に、新居益吉が基本金委員に加わり、日曜学校長に貞広信政、副校長に浜本利三郎。
初週祈禱会、出席平均10名。
3月18日、森勝四郎師説教、朝48名、夕28名。
3月20日より3日開、県下教役者会を安芸教会で開く。森・大手・本川・津久井の四氏が集まり、21日と23日説教会、集会者60名。
9月17日、多田素・青木仲英(中村町教会牧師)説教会、集会者80名。
12月、伝道委員復活、野村二三・佐藤丑吉当選。
会計の詳細不明。
教勢はさらにのび、礼拝平均出席38名、受洗9名、信仰告白2名。
22、明治40年
初週祈禱会、出席平均12名。
3月で補助金打ち切り。
4月、会計補欠選挙に川島晟耕当選。
4月30日・31日、多川大吉郎・皆田篤実氏説教会、両日とも集会者130名。
役員会記録によると、会員の1名が放逐、1名が陪餐禁止処分になっているが、詳細不明。
会計の詳細不明。
教勢は最高頂に達し、年間礼拝出席平均43名。夕拝出席平均が30名以上、祈禱会が20名以上。受洗者4名、信仰告白1名。
12月末、津久井新三郎牧師(第四代)辞任。在任期間5年半。教勢伸張のこの時期にあえて五度目の無牧の時を招いたのがいかなる事情によるものか詳細不明。
この年、来援者の中にアッキンソン宣教師の名前が見える。
23、森派分裂
明治41年1月から10月まで無牧。
教勢は急激に低下し、1月末の日誌には早くも、「近時すべての集会寂寥の感あり」とある。日曜学校の出席は90名程あったが、礼拝出席平均はこの年35名に減じた。
11月1日、百島操牧師(第五代)着任。この前後にかけて森派分裂の事件が起きるが、このことについての教会の直接的記録は全くない。
教会日誌から拾うと、当時高岡にいた森勝四郎師は明治38年に数回安芸教会で説教し、40年には五回来芸して朝夕あわせて10回説教し、41年に百島牧師赴任の直前には連続三度説教している。
41年7月16日から3日間、牧師問題につき連夜祈禱会、集会者12−3名。おそらく森師のことが問題になってのことであろう。清岡教会史をかりると、「教会は無牧であったから、一部の人々は森氏を当教会の牧師として招聘したい希望を有していたが、その一方では森師は日基の教師でないから森氏を招聘して教会が日基を脱するは不可であるという人たちがあり、教会はこのことのためにしばしば協議をしたが遂には投票をもって森氏招聘の可否を決定しようとした。投票の結果多数は森氏招聘を不可としたので森氏招聘派の重立った人々は当教会を離脱して森氏を推戴し一派を立てて教会を組織した」。
菅和氏と森師との関係については、長崎太郎氏による『宣教者森勝四郎先生とその書簡』に次のように書かれている。「森先生を深く尊敬し、安芸で最初にその教を聞いた菅和氏は……しばしば森先生を自宅に招いてその教を受け、“私は聖書の中で、疑問とする箇所があり、植村正久、内村鑑三両先生について、その解明を求めたが、終に得られず、森先生に関いてはじめて釈然としてその疑問が氷解した”と語っていた。同氏の一族は、後に悉く森派に走った」。教会日誌に菅氏の名前が見られるのは、41年1月5日の委員会出席者としてである。明治21年安芸教会創立以来常に物心両面における柱石であった同氏を失うことは残された教会にとって大きい痛手であったにちがいない。
長崎氏の文をさらに引用すると、「安芸教会の歴史を一見してもわかるように、安芸教会の信徒は、短い年月の間に数度牧師を変え、ある意味の教会ずれがしていたと、言わば言われよう。牧し難い教会であったに相違ない。しかるに、そこにあらわれた森先生が、教会の有力な信者達を、たちまちその信仰にひきつけた事は驚くべきことである。
津久井牧師の後任について、信者違は協議を重ねたが、森先生を後任に迎える話が有力で、先生の内諾まで得たので、小松庫太郎、佐藤丑吉等は、高知教会牧師、多田素氏を訪ね、その由を報告した。そのとき多田氏は、すでに浪華中会で、安芸教会の牧師として、植村正久氏の気息のかかった東京の百嶋操氏を決定している由を述べ、かつ、高岡でも森氏の伝道によって、教会が分裂している例もあるので、その轍を踏まぬようにと、注意するところがあった。
両氏は、安芸教会では、一応森先生を迎えることになったので、百嶋氏をことわってもらいたい、と依頼して安芸に帰ったが、浪華中会ではすでに百嶋氏に交渉ずみで、同氏の来任は動かすことができなかった。
それでもなお教会では、牧師招聘について両論が激しく対立したために、終に、その決定を会員一同の票決に問うたが、その結果、森先生の招聘は否決せられた。そこで先生の招聘を主張した信者は、安芸教会を離脱して、先生を推戴して一派を立て、明治45年1月9日安芸基督教講議所を開いたが、これは後にイエス・キリスト教会と改称せられた。高知、大阪、神戸、名古屋、東京、姫路等のこの派の伝道所も、後には皆この名称で呼ばれた。かくして先生は高岡、安芸を兼牧して、牧会伝道にいそしんだ。安芸におけるこの派の有力な信者は、川島晟耕、須賀寛助、寺尾喜七、並村喜七、氏原宗吉、松浦卯太郎、浜川嘉久馬等の諸氏であった。
一方、日本基督安芸教会は、東京から百嶋操牧師を迎えた。同氏は早稲田大学、文学部の出身者で、トルストイ研究に造詣が深く、植村正久先生の推薦もあって、新進気鋭、よく奮闘したが、文人肌の同氏は、安芸の信者の充分な理解と信頼とを受けることができず、それに牧会の経験も乏しかった。たまたま、同氏の説教中、ベテスダの他の奇蹟の解明につまずいた安芸教会の信者が、森派に走ったのを始めとして、日本基督安芸教会の形勢は次第に非となり、森派に走る者の数はいよいよ増加し、百嶋氏は明治43年4月、安芸教会を辞して、大阪に去った」。
さて、この問題の「ベテスダの他の奇蹟の解明」とは、百嶋牧師がこの奇蹟を間欠温泉によるものであると説明したことであると言われている。そしてそれは、日誌から推測して、41年11月15日の夕拝の折と思われるが、そうとすれば同牧師着任後わずか2週間、3度目の聖日の出来事である。
日誌では、41年12月4日に須賀寛助、42年1月8日には並村喜七、44年12月15日に氏原宗吉、がまだ在籍している模様である。
24、明治42年 ー 45年
明治42年、初週祈禱会出席平均12名。
5月12日、明治学院総理井深梶之助、富士見町教会副牧師大谷虞の説教会、出席80名。翌13日出席100名。その他来援者は松尾年太(高知教会副牧師)・岡村某(大学生)・野田某。
礼拝出席平均32名。
明治43年、初週祈禱会出席平均11名。
4月24日、百島操牧師(第五代)転出。
来援者は松尾・外村某。無牧になってからは信徒が説教を担当したが、その大部分は安田稔の担当で、寺尾庫吉・佐藤丑吉・清岡玄之助が時に援助している。
礼拝出席平均31名。
明治44年、初週祈禱会出席平均18名。
10月28日、日高善一牧師(京都)特別伝道、出席43名。
この年、大谷牧師に長期援助を受け、松尾・マキルエン・野本の諸氏にたびたび、その他、多田・吉川亀(阪神方面で伝道) ・服部綾雄の来援を受けている。信者では寺尾・安田・清岡・氏原宗吉がそれぞれ数回説教を担当している。
教勢はもりかえし、礼拝出席平均42名、受洗12名。来援諸氏の努力に負うものであろう。
明治45年(大正元年)の説教はほとんどすべて大谷牧師が担当している。氏はその前年の9月からこの年の末まで保養のため帰省していた。
4月10日、大谷・多田氏による特伝、出席170ー80名。
その他の来援者はマキルエンと外村氏。信者では氏原氏が数回説教担当している。
礼拝出席平均32名。日基40周年の統計によると、安芸教会の日曜学校生徒数259で全国第2位であった。
25、大正2年、3年
日本基督教会の計画による高知県下3ケ月間(1月より3月まで)の集中伝道が行なわれ、安芸伝道教会では8名の受洗者が与えられたと『日本基督教会史』に記されている。教会日誌に、2月2日以降山田賢蔵氏の長期派遣を見たこと、3月13日の東京伝道局貴山幸次郎氏の特伝のこと、3月18日の東北学院長笠尾米太郎博士の特伝(聴衆150名)のことなどが記録されているのは、おそらくこの集中伝道計画によるものであろう。
『日本基督教会史』によれば、「安芸伝道教会においては、この伝道の結果特に300円の寄付者も起り、1ケ年主任者を迎えてなおその伝道を継続するに至れり」とあるが、これについては清岡教会史にも言及があり、「当時教会は経済的に甚だ貧弱で牧師招聘など思いもよらないことであったが、土居村新居楠次郎氏特別の献金をせられ、満1ケ年間の牧師の謝礼にあてて山田牧師を迎えた。満1ケ年経て後も、教会員の希望もあって、大谷宣三氏の斡旋により借金して更に山田牧師の留任を請うた」とある。新居氏は土居村出身で明治22年富土見町教会で植村正久牧師より洗礼を受け、大正9年に安芸教会に転籍している。
大正2年の礼拝出席平均38名。
大正3年3月から8年まで記録が欠けているが、大正4年1月には山田賢蔵牧師(第六代)は若松に転出。「山田牧師辞去して後は、教会はいよいよ困苦を嘗めねばならぬこととなった。経済上から言えば借金も支払わねばならず、教勢上ではいよいよ不振に陥り、森派に脱出する者も後を絶つに至らず、夜の集会などは説教者と共に僅々3名という時が多かった」 (清岡教会史)。
その後22年間にわたる無牧の間(7度目)、もっぱら長老諸氏の協力のもとに教会は維持されることとなる。おおむね分担が決められ、小松庫太郎が会計、安田稔が日曜学校、清岡玄之助が礼拝説教、寺尾庫吉・安出稔が夕拝説教を担当するのが大体の姿であり、寺尾氏逝去の後は佐藤勇吉・丸岡勝一などが加勢した。
なおこの間の教会の苦悩をもの語るものとして、清岡教会史に記されているところによると、元教会役員で病臥中の大谷宣三老人が2度にわたって清岡氏に対し、安芸教会が日本基督教会を脱してミッションの管轄に入ることをすすめている。そうすればマキルエン氏の出張とミッションからの財政上の援助をも得ることができるというものであったが、当時の役員会には支持する者がなかった。
マキルエン師の手紙
明治24年以来25年間絶えず来援されたマキルエン師が帰米の前日、大正5年5月17日付で、安芸教会宛長文の手紙を巻き紙に書き取らせている。内容は、安芸教会に神の第七の誡律にもとる者あるをきき、同教会からの 餞別を返納し、教会に悔改めときよき生活をすすめ、苦衷と祈りに満ちたものである。それが本人ならびに教会員一同にいかに福音的に受け取られ処理されたかを、もし今日知ることができたとすれば、教会の内面的進歩を証する最も恰好の例となったであろうが、幸か不幸か、このことの詳細についてはもちろん、この前後数年間の教会記録そのものが全くない。
27、教会独立の前後
大正8年、2月より月1回高知教会から教師派遣を受けることとなる。毎水曜の家庭集会もこの頃から始まる。
2月21日、井ノロ村で多田素・安田稔両氏による社会改良講話、来会者300名。
4月3日、伊尾木海浜運動会、参加約100名。
9月頃から目立って諸集会の参加者減少。礼拝出席平均26名、夕拝18名。
須賀俊彦氏は9月に高知教会に転出したが、同教会内に安芸教会高知支部会を作り、11月より毎月第2日曜午後、安芸教会のための激励と祈りの集まりを持ちはじめた。
大正9年は礼拝出席平均22名に減少。
2月6日小松庫太郎宅で親睦会、来会者40名、すこぶる盛会。
12月29日、クリスマス祝会、出席300名。
大正8年10月の日本基督教会第33回大会に清岡玄之助長老出席、伝道教会の代表者に大会議決権を与えることの是非が問題となる。その後安芸教会において急激に独立の必要性が痛感され、翌大正9年5月19日付で教会独立の願書を中会に提出、5月30日に許可を受け、大正10年2月13日独立式を挙行した。その喜びは格別であったと清岡氏は記している。このとき中会派遣委員として百島操・多田素の両氏を迎え、百島氏説教、洗礼を受ける者6名あり、また長老任職式も同時に行なわれた。このとき任職された6名の長老、小松庫太郎・清岡玄之助・寺尾庫吉・安田稔・坂本政之・佐藤丑吉は、大正13年寺尾氏逝去後その夫人喜佐姉に交替したほかは全く変りなく、昭和17年まで22年間続く。
大正10年9月、神戸市神港教会において第35回大会、佐藤勇吉兄出席。
大正11年4月3日、独立式記念礼拝、金森通倫氏来援、修養会参加者70名。翌4日の来会者堂に満ち外に溢る。内にあるもので未信者200、決心者62。同氏は日本基督教会創立50年記念として伝道局より全国各地に派遣せられたものであった。
4月8日、多田牧師によって、右の決心者のための修養会。
この頃、宮崎幸三・川崎義敏両牧師が2、3度来援された。
8月7日、安田稔氏宅でキリスト教青年会創立され、20名出席。
同13日、青年会創立記念特別伝道説教会、佐藤勇吉・安田稔両氏の説教、出席40名。
同14日、須藤重喜・清岡玄之助両氏の説教、出席30名。帰省中の青年男女5名あり、この前後教会は賑った模様である。この青年会については大正13年9月13日大山岬親睦会以後しばらく記録がない。
高知教会から多田牧師・飯沼基・阿部鞆音の両副牧師が度々来援された。
大正11年には礼拝出席平均34名にまで挽回した。
28、大正12年 ― 昭和3年
大正12年、初週祈禱会出席平均12名。7月、佐藤勇吉氏東山荘修養会に出席。
10月、関東大震災のため、55円50銭と衣類50点 その他を献納。
12月10日、日本基督教会創立50年記念特別伝道、大森教会牧師佐波亘氏説教、130名出席、大盛会。
この年青山学院神学部橋本幸太郎氏来援。
大正13年、初週祈禱会出席平均8名。
受難週連夜祈禱会平均10名。
5月23日、大野直周・亀谷陵雲両氏の特伝、聴衆130名。
8月24日、寺尾庫吉長老永眠、「永年無牧教会にあって説教を受け持ち、森派分裂後の教会を復興強化した功労者の一人であった」 (清岡教会史)。
9月13日、大山岬で青年会の親睦会。
11月29日、横浜メソジスト杉原成義・東京バプテスト渡辺元両氏による特伝。出席20名。
12月27日、安田稔氏宅でクリスマス親睦会、出席40余名。
大正14年、高知教会の正副牧師、多田・飯沼・小関小一郎のほかに、神戸聖書会社服部象二郎・松本美実・福田正俊の諸氏が来援された。
大正15年(昭和元年)、教勢は13年以降ほとんど変りがない。
5月22日より3日間、川俣義一氏特伝、80乃至90名参集、決心者25名。
9月30日、小野村林蔵氏特伝、70名。
昭和2年2月17日、日高善一牧師特伝、90名。
5月中、田中剛二先生を伝道主任者として迎える、謝礼として100円支出。
5月18日、賀川豊彦氏特伝、祇園座において参集者1100名、決心者37名。
同19日、教会において修養会、参集70名。午後安芸高等女学校において賀川氏講演。
5月30日、多田牧師特伝、85名。
7月より清岡玄之助長老が礼拝説教主任者となる。
8月19日、小学校の落成式に多田牧師の記念講演。
10月14日、救世軍梅津フジ姉来訪。
この年の礼拝出席平均41名を最高として、これ以後昭和20年前半の5名まで、18年間にわたっておおむね減少の一途をたどる。
29、特別伝道の功罪(昭和3年 ― 8年)
昭和3年3月16日、大阪北教会牧師桑田繁太郎氏による浪華中会創立50年記念特伝、参集90名。
5月17日、松山教会牧師鈴木伝助氏による特伝、参集58名。
この頃、会堂修繕と西隣電気局との境界設置の記事あり。
8月、小松庫太郎氏の令弟松本徳三郎牧師18年ぶりに帰省。その他、野町良夫・ブレーデー・麻生某来援。
昭和4年、2月、寺尾喜佐姉(庫吉氏の未亡人)長老に就任。
2月25日、多田牧師安芸高等女学校で講演。
同27日、明治学院神学部、室戸町出身島村亀鶴氏来訪。
4月21日、ブレーデー氏女学校で講演。
5月16日、名古屋教会牧師吉川逸之助氏特伝、参集71名。
10月18日夜、賀川豊彦氏特伝。祇園座において「現代文明と宗教生活」について講演、聴衆1200、決心者118名。田中剛二(高知教会元副牧師、後、神戸改革派神学校長)・黒田四郎・香美教会中沢寅吉の諸氏随伴。
翌19日、午前は女学校で、午後は小学校で、賀川氏の講演。
10月24日より3日間、賀川伝道の引継ぎとして女学校・中学校・並村製糸工場(現在の市役所辺り)などで集会を持つ。
昭和5年、1月早々会堂修繕のことが小会で議せられている。
1月19日、軍縮会議のための祈禱会。
2月25日、和歌山教会牧師石川四郎氏特伝、参集60名。
3月5日より6日間、外村義郎氏滞在され、諸集会・講演会・女学校での講演・小学校職員のための講演などあり。
5月10日、年度内に教会史の編纂をなすことを小会が決議。
10月10日、神戸神港教会における日本基督教大会に安田長老出席。
10月16日、日本神学校教授村田四郎氏(高知出身)特伝、参集62名。
12月より1月へかけて受洗者7名。
この年、草川牧師・関西大学神学部安養寺鹿馬氏来援。
昭和6年、初週祈禱会出席平均8名。
12月以降、水曜集会を宅廻りとする。大阪東教会牧師霜越四郎氏が一度来援。
昭和7年、初週祈禱会出席平均16名。
同月17日、賀川豊彦氏の神の国運動のための集会、参集122名。昼間、中学校で講演。同運動のため教会より10円献金。
5月3日、並村工場で安田長老の講演会。
5月20日、松山教会牧師鈴木伝助氏特伝、参集30名。女学校でも講演をした。
7月18日から1週間、外村義郎氏特伝、教会に50名参集、その他家庭集会・並村工場・女学校・実践女学校・小学校などで集会。
10月19日、森永太一郎氏特伝、参集40名。
小会記録によると、特伝の引継ぎ活動として骨折っていることもうかがわれる。例えば神の国運勤のあと、決心者修養のための受け持ちを決め、祈禱会を開き、田野町求道者指導のため9月以降月1回教会員を出張せしめ、伊尾木・土居では11月以降隔月1回集会を開くことなどを決めているが、どのようにいつまで実行されたか、その後のことは不明である。
このようにして永年にわたって度々伝道特別集会を持ち続けているが、それについて清岡教会史の中に次のような反省が記されている、「特別伝道、特に金森・賀川等の集会において大量入信決心者を得るも、どうした事か収穫が得られない。研究考慮すべきことがらでなかろうか」
昭和8年、初週祈禱会出席平均14名。五旬節祈禱会出席平均12名。
30、牧者を求む(昭和9年 ―11年)
昭和9年、小会では、教会主任者招聘が協議され、そのための年間予算300円が論議されはじめた。
5月、高知教会50周年記念運動のため20円献金。
杉山某来援。
礼拝出席平均ついに20名を割って16名弱。
昭和10年、8月青年伝道会のため竹森満佐一氏来訪、出席40名。
田中牧師・中央神学校3年黒沢久男来援。
礼拝出席平均17名。
昭和11年、2月14日、教会設立15周年記念集会をなし、須賀俊彦(建材)・吉川季次郎両氏の説教、出席平均38名。
翌15日、同趣旨で三浦千代記氏説教、出席30名。
5月11日、安芸講議所を安芸教会と名称改正の件につき県知事より許可される。
7月13日より8月30日、日本神学校矢野修二郎氏夏期伝道に来芸。
8月、会堂天井修繕、予算130円。
11月、牧師招聘の件につき苦慮。祈禱会を持ち、人選を多田牧師に依頼。
この年、ブレーデー氏来援。
31、戦時体制の中ヘ(昭和12年−16年)
昭和12年、2月16日、丸22年の無牧(7回目)の後にようやく秦四郎牧師(七代目)の赴任を見たが、その説教を一姉妹が批判したことからいざこざが生じ、ついに解決に至らず、6月末には早くも辞任されて神戸に帰られた。7月8月の小会記録から、役員会にも多少の動揺があったらしいことがうかがわれるが、このことに関係があるかもしれない。
3月21日、外村義郎氏特伝、参集42名。翌22日、同じく42名。小学校教師のための集会、出席25名。その他家庭集会を持つ。
3月の小会で、玉造に日曜学校分校を設置することが決められているが内容不明。
4月12日、ダウド女史帰米のため離高。
4月29日、日曜学校青年大山へ遠足、30名。
6月15日、大森教会牧師佐波亘氏特伝、演題「キリスト教人生観」、参集50名。
7月7日、支那事変はじまる。
7月12日より8月31日まで、日本神学校生小川武満、夏期伝道に来芸。
8月、寺尾行一・讃野仁平両兄召集。
9月、小会は教会発展のため高知教会に田中牧師の来芸(長期滞在の意味か赴任の意味か不明)を求めたが、結局実現しなかった模様。
11月13日、矢野修二郎氏主任者として赴任(第八代)。礼拝出席平均18名。
昭和13年、3月3日、堺中央教会斎藤敏夫氏特伝、参集42名。
10月31日、矢野修二郎氏丸1年の牧会ののち上海へ赴任。9回目の無牧。
12月1日、小野村林蔵牧師講演会、参集70名。
この頃からときどき防空訓練が行なわれ、夜の集会が午前5時とか午後3時とかに持たれている。
昭和14年、1月、会堂に2000円の火災保険を付す。
4月23日、田所正春氏第九代の教師として来芸。
昭和15年、1月21日、田所牧師入営のため離芸。在任9ケ月。
4月14日、中山年道氏第十代の教師として来芸。
8月、牧師謝儀5円増の55円とする。
9月5日、津田氏宅と教会で1日修養会、多田・中山・斎藤・橋本の諸教師の指導を得て、昼25名、夜70名の参加あり、夜の説教題は「国家使命達成と信仰問題」。
10月、高知県キリスト教連盟に加入。
11月10日、礼拝後、建国二千六百年記念祝賀式を行なう。宮城遥拝、黙祷、君が代、万才、奉祝歌。
11月27日、新宮教会河村斉美牧師特伝、参集40名。
小会記録に、個人伝道実践運動の件安田氏に一任との記事あり、詳細不明。
昭和16年、2月、年度予算109円不足、内外在住信者に寄付を仰ぐ。
2月16日、県下基督教会連合会創立。
3月、教会振興策について懇談会。
3月中旬、遣米使節として渡米される多田牧師の壮行会に小松庫太郎長老出席。同21日、多田牧師出発直前に腹膜炎発病重態に陥り、23日永眠。29日葬儀。安芸教会を代表して中山牧師参列。多田牧師は、明治26年、安芸教会がまだ講議所であったとき以来、実に48年間、遠路度々来芸され、陰に陽に安芸教会を支え指導し時に兼牧の労すら取られたのである。
6月、日本基督教団創立。
8月、教会の財政状況と高知県伝道会補助金が昭和19年末で打切りになる旨を教会員一同に通知する。
9月7日、高知教会において日本基督教団四国教区高知支教区会開催。
9月14日、中山年道牧師(第十代)応召。在任1年5ケ月。
9月25日、杉並教会牧師藤原藤男氏特伝、参集35名。
10月、教会代務者を橋本亘氏に依頼。清岡玄之助・佐藤丑吉・安田稔の三氏が教会総代となる。
10月、教会の鉄柵を全部軍用に供出。
12月、灯火管制装置を設置。
32、森派信徒拘引留置
昭和16年6月日本基督教団が戦時体制の下に生まれ、これに加盟するをいさぎよしとしないホーリネス系など小教派の教会の教職が、17年6月以降全国的に一斉検挙されることになるが、これに先んじて昭和16年9月に、安芸町船場須賀寛助宅で従来通りの集会を守っていたイエスキリストの教会、いわゆる森派の教会が迫害を受け、須賀寛助・須賀寛郎・寺尾喜七・川島博耕(以上いずれも元安芸教会員)その他主だった者が続々拘引され、1年有余留置されることとなった。これは教会にとっても地域にとっても一つの大きな事件であった。
33、太平洋戦争の中で(昭和17年−20年)
昭和17年、1月16日、日本基督教団認可後第1回教会総会。
2月9日、安芸教会規則を制定し知事認可を申請、3月26日認可を受く。これ以後、小会は役員会となり、役員として清岡・安田・寺尾喜佐・佐藤勇吉・丸岡勝一の5氏が選任された。
2月28日、野田辰夫牧師(第十一代)着任。
3月より集会強化。諸集会の計画を立てなおし、土居村五藤姉宅の集会をはじめる。
受難週連夜家庭祈禱会6日間、出席平均11名。
4月17日、田中剛二牧師(高知教会副牧師、改革派神学校長)特伝、出席13名。
同19日、日曜学校童話大会、参集170名。8月30日にも安田長老による童話大会あり、参集50名。
5月10日、玉島教会牧師河野進氏特伝、続いて4回家庭集会。
6月21日、入信50年感謝会、該当者は小松庫太郎・小松久万・寺尾喜佐・清岡玄之肋・佐藤丑吉・佐藤沢・安田稔・山崎八重の8氏。
同28日、同様の会を丸岡勝一宅で開催。
8月3日より、3日間、大山岬松の屋で宿泊練成会、出席20名。
10月17日竜河洞へ青年会ピクニック、参加15名。
10月28日、霜越牧師特伝。
12月、1月まで教会代務者であった橋本亘牧師応召。
この年、現住会員男13、女20、計33。牧師謝儀月額60円。年予算等の記録なし。
昭和18年、1月、高知県伝道会よりの補助金の19年3月までの分330円を前もって受取りそれ以後は独立することに決定、信徒の献金増額を要請。
2月、17年度の会計収支共に1050円。
2月7日、紀元節礼拝。
同8日、大詔奉戴日早天祈禱会、主題は「祖国のため」。
これ以後同じ主題で毎月8日この祈禱会を守る。
3月、従来橋本牧師が受持っていた田野・室戸の伝道を安芸教会が引き受ける。
5月、教会合同・教団成立感謝献金運動の安芸教会割当300円。教団戦時報国会のすすめにより安芸教会国民貯蓄組合結成。
5月16日、松本徳三郎牧師が令息戦病死1周年記念のため帰芸、除隊された田所正春牧師も同行。田所氏はこの後問もなく牧師として満洲牡円江に赴任される。
6月6日から11日、野田牧師は玉高教会河野進牧師と共に安芸郡東海岸(宍喰まで)訪問伝道旅行。
6月17日、小松庫太郎長老逝去、77才。19日、自宅にて葬儀、すこぶる盛大。同氏は明治24年より50余年、ほとんど一貫して役員を、しかも「主として会計事務を以て奉仕したが、頭脳明晰にして、教会経営について画策する所多く………教会外にあっては安芸町会議員、安芸郡会議員、郡会議長、町長等の名誉職を勤め、町長在職は10年の久しきに亘り、その在職中は従前町長の行い得なかった墓地の移転改築を決行し、又道路の改修、昭和9年の大災害復旧等に従事し、之を完成するなど功労甚だ多く町民之を徳とするに至った」 (清岡教会史)。
7月、長老補欠選挙に佐藤勇吉氏選出。
7月下6日と17日、河野進牧師の特伝。田野・室戸にも出張。
8月6日と7日。住吉海岸の永野屋旅館と磯見茶屋で青年会修養会。講師は高知教会牧師斎藤為吉氏、参加男14、女3、計17名。
8月10日、日本東部神学校教授熊野義孝氏特伝、参集32名。
8月22日、大阪北教会長老水田長蔵氏来訪。
9月19日、安芸教会は安芸会員・田野会員・室戸会員の三つの合体より成るとの確認がなされ、10月24日に室戸・吉良川・田野・安芸の合同礼拝がなされ27名の出席を見た。8月の諸集会の記録によると、室戸集会7名、田野集会4名、室戸日曜学校32名である。
9月27日、佐藤丑吉長老逝去、74才。同氏は明治28年以来48年間一貫して役員をつとめ、教会経営について功労多かった。この困難な時期に文字通りの長老をこのように相次いで失ったことは教会にとって少なからぬ損失であったろう。
10月、野田牧師は病気療養のため坂出に帰省。
11月、教団感謝献金150円醵出。
昭和19年、1月より(おそらく空襲のため)夜の集会を当分の間休会とする。
2月6日、飛行機献納金寄付10円50銭。
2月13日、教会総会で昭和19年度予算1000円と決定。
内牧師謝儀780円。また、「国家非常に際しては必要に応じ会堂を提供する」ことを決議。
2月25日、土佐教会牧師大山寛氏来芸。
3月5日、防空訓練のため礼拝中止。
4月26日、野田牧師は病気全快し結婚されて帰芸。
ペンテコステ連夜家庭伝道会、出席平均10名。
6月21日、野田牧師の病気再発のため辞任されて帰省。在任2年4ケ月。12回目の無牧。
8月、教務代務者として高知教会霜越牧師を依頼。9月1日承諾を得る。
クリスマス日曜学校15名出席。
昭和20年前半、2月11日紀元節。礼拝前に国歌斉唱、宮城遥拝、黙祷。
3月18日、礼拝出席は説教者1名のみ。
8月15日、太平洋戦争終結。
34、週報より
野田辰夫牧師の在任期間にほぼ一致する昭和17年3月から19年8月までの週報の大部分が保存されていて、太平洋戦争が激化してゆくこの注目すべき時期の教会の苦悩と奮闘をもの語るものとして貴重である。
野田牧師が、いくたびか病に倒れたり、療養のため帰省したりしながら、牧会と信仰告白の問題に苦慮された様がうかがわれる。
長年教会の柱石であった小松・佐藤の二長老を失い、集会は空襲その他の非常事態のために圧迫を受けながら、聖日の礼拝は17年の出席平均18名から19年の11名へと何とか持ちこたえ、その他新年と受難週復活祭の祈禱会、日曜学校、婦人会、青年会、信徒の家庭集会等当時としてはひんぱんすぎるほどの集会が持たれ、特にこの時期に土居村五藤寿姉宅・田野町武井姉・北村姉宅・室戸町前田姉宅の集会がはじめられた。
青年、特に男子青年が意外に多く、そのある者は進学し、 ある者は入営あるいは出征してゆくが、その間における彼らの帰郷と離郷、外地や遠隔地における青年信徒と教会との文通と祈りの交わりが、週報の行間に読み取れる。たとえば、丸岡喜一・丸岡新一・佐藤誠一・佐藤慎二・佐藤省三・津田祐二郎・津田稲城・中村正樹・小松陽・安田達郎等々、20才前後の青年達の動向が目をひくのである。
また応召中の田所・中山両牧師の度々の便りにも心打たれるものがあり、教会に残った婦人や中高年層の信徒たちのかげの奮闘と祈りをもうかがうことができる。
教会の姿勢としては、その属する教団の姿勢に則って、国策に可能なかぎり妥協し、礼拝に国民儀礼を取り入れ、大詔奉戴日を守り、愛国献金をなし、防空その他の活動において地域に協力しつつ、とにもかくにも礼拝を守り通そうとしている。その中にあって牧師は、祈りや復活などの信仰の内面的消息についてのみならず、日本的キリスト教の可能なる姿や、祖国の使命や、キリスト信徒の戦時におけるあり方などについても、精一ぱいの追求をしているさまが読み取れる。
例えば、昭和18年8月の青年修養会について週報は報告する、「……このはげしい時代私共青年基督者はあくまで予言者的位置を固守し、これをもって祖国に殉ぜんとのはげしい決意と祈りが捧げられたことでありました。使命 !青年基督者の使命、新しき献身が問われている秋であります……」。
また19年5月14日の週報に引用されたアウグスチヌスの箴言は、当時の状況を思い合わすとき一層印象的である、「戦においても平和を愛せよ。汝の勝利によって敗者にも平和の利益を与えるように。戦の中にも信仰を維持し得るためには、戦に於ても絶えず平和を求めなければならない」。
35、終戦後(昭和20年−24年)
昭和20年9月、戦争が終って集会は活気を取りもどし、礼拝出席平均は前半の5名に対して、後半16名となる。
11月11日、1年4ケ月の無牧の後、芦沢光雄牧師(第十二代)着任。
12月9日、夜間の集会(夕拝と祈禱会)を復活。
昭和21年、礼拝出席平均21名に上昇。
4月24日、教会は法人として安芸区裁判所に登記。
5月5日、総会で役員改選、清岡玄之助・寺尾喜佐・佐藤勇吉・丸岡勝一・丸岡貞一の5名選出。
杉山豊胤牧師がこの頃たびたび来訪されたが、11月に大垣へ赴任。
7月14日、橋本亘牧師が復員後はじめて来芸。続いて、安芸町出身野町良夫牧師南方より復員され、夏期青年大会には講師となり、9月より毎月第1日曜礼拝説教を担当し、22年1月別府に赴任。
昭和22年、礼拝出席平均は13名増の34名。
初週祈禱会出席平均13名。
1月、牧師謝礼を500円に増額。毎月10日・20日・30日に伊尾木村清岡玄之助氏宅で聖書研究会を持ちはじめる。
受難週家庭集会出席平均12名。
4月、第2・第4日曜午後2時より田野伝道を芦沢牧師と清岡長老が交替で担当することに決め、14日の集会には9名の出席あり。また同月の役員会で、旧森派の会員に対して積極的に伝道をなすことを申し合わせた。
5月3日、大垣教会牧師杉山豊胤氏特伝、出席44名。
5月11日、臨時総会において、前年9月に補教師試験に合格していた清岡長老を担任教師とし、安田長老を総代とする。
6月の役員会記録に左の記事あり、「安芸教会としては従来の経験として一時的情熱に燃やされ速に決心者を出すも長続きせず、真実の伝道は日常教会生活を通して為されるべきであり、その費用はむしろ教師に謝礼を増額する方、当教会目下の急務であるとなし、意見一致、賀川伝道を見合す事に可決」。
7月22日、マキルエン氏(W・B・マキルエン氏の令息)特伝、出席120名。
8月1日と2日、土佐農工学校において青年会主催夏期修養会、参加40名。講師として来られた坂出教会野田牧師は改革派信仰総論などを担当された模様であり、後の改革派分裂問題はすでにこの頃からはじまっていたかもしれない。
9月14日、安芸高女3年40名が社会科見学として礼拝に出席、当時の風潮であったろうか。
昭和23年、礼拝出席平均は戦後最高の36名。
2月21日、学生YMCA・YWCA結成され、クラム博士来芸、新制中学で集会。
6月の室戸集会には22名もの出席あり。
8月4日と5日、芦沢・山崎祐博・清岡の諸牧師の指導のもとに夏期修養会、出席30名。14―17日、YM・YWCAが魚梁瀬でキャンプ。
11月25日、佐藤勇吉・丸岡勝一の二長老、教団を脱して改革派に移る。
12月6日、田所正春牧師講演、参加45名。
12月19日、芦沢牧師辞任、以後生行者は清岡氏と決定。
昭和24年、改革派への脱退のため、礼拝出席平均は威少し30名を割る。朝拝は清岡、夕拝は山崎牧師(香美教会)が担当。
2月21日、YMCAのため大山牧師(土佐教会)来芸、北川姉宅で座談会、出席およそ30名。
2月24日、拍井牧師来芸、出席40名。
3月10日、瀬川氏説教、出席50名。
7月―8月、日本神学校学生永井修夏期伝道に来芸。
9月、役員改選され、安田稔・北川清子・氏原久助・船本ハ重子・川昌博耕・長野次郎・浜川勝春・長谷川敏夫・須賀菊・須賀三恵が選任される。その後数年間、定員減少のため多少の出入りがあるが、ほとんど異動なく続く。
10月24日、高知教会吉田牧師特伝。
11月4日、今村好太郎氏特伝。
12月以降しばらく、北川姉の実父渡部一氏来芸され、奨励や家庭集会などたびたび持たれる。
会計については、昭和21年の決算から以降の記録が 残されている。年間総収入は、21年が6700余円、22年は不明、23年は一挙に45500円弱、24年は68800余円であり、牧師謝儀は21年が年間3280円であるので、おそらくインフレに伴って月額100円位から500円位まで急激に増額を余儀なくされたであろう、22年は月額700円から1000円へ、23年は1300円から1500円へと増加している。
36、改革派分裂
昭和23年から数年の問に、須賀久寿一・川昌博耕・その他女子7名が旧森派から復帰もしくは転入したが、一方では改革派分裂問題がようやく大きくなって脱会者が相ついだ。
改革派問題が記録の上ではじめて取りあげられるのは昭和22年夏期修養会講師の野田牧師の講演であったが、翌23年には佐藤慎二兄が神戸改革派神学校に入学し、5月18日より善通寺における改革派主義修養会には芦沢牧師・佐藤勇吉と丸岡勝一長老が参加し、6月6日以降の役員会では改革派に対する態度が絶えず重要議題となる。
役員会としては、しばらくどっちつかずの態度を続けていたが、9月4日佐藤勇吉氏の発言で教会をあげて教団脱退の線に強く動きはじめ、清岡氏以外はほぼこれに同意し、同月7日の会では11月教団総会までは態度保留し教団負担金は支払わないことを決めている。
9月から10月にかけて、教団側からは吉田・山崎・霜越、改革派側からは岡田稔の諸牧師が足を運び、それぞれの立場から教会員と話し合いをされた。
10月末に4日間、須崎町安和で南長老ミッション主催四国改革主義修養会が開かれ、安芸教会からは佐藤勇吉長老以下7名が出席した。
こうして大勢は改革派に傾くかに見えたが、11月教団総会の報告を受けたのちの役員会では教団支持に復帰する役員が増え、結局、佐藤勇吉・丸岡勝一両長老が個人的に教団脱退に踏み切ることとなった。そうしてその後両3年の間、次々とこれに続く者があり、その結果、教会はその成壮年層の、特に男子の、大部分を失うことになり、礼拝出席もその後年々減少しつづける。
この渦中にあって、芦沢光雄牧師(第十二代)の進退問題はすでに23年11月以降の記録に散見され、その12月末をもって、在任丸3年で辞任、翌24年同月5日
に大阪聖公会希忍伝道所へ転出した。
37、退潮の時(昭和25年―29年)
分裂による主戦力の低下、そのための急激な収入減とまだ続いていたインフレとによる財政難、徐々にはげしくなってゆく過疎現象のため特に青年層のほとんど全部を絶えず転出によって失ったこと、その結果としての会員の老令化、さらに全国的に見られたキリスト教勢力の停滞等々の悪条件が重なって、昭和25年以降、教勢は下降線をたどり続ける。
昭和25年、3月以降の役員会記録には新任牧師招聘のことにつき、特に財政上の心配をしている様が散見される。
5月10日、野村穂輔牧師(第十三代)着任。清岡玄之助氏は名誉牧師となる。
6月、東神大教授熊野義孝氏司式で就任式。
7月の役員会で、教会史編纂を清岡氏に委嘱。
日曜学校は盛んで70名を超えることも珍しくない。信徒の宅まわりの家庭集会もほとんど毎週特たれているが、礼拝出席平均は25名を超えることができない。特別伝道としては、
4月26日、栗原陽太郎氏、27名。
5月5日、小松島教会牧師古角勝氏(同氏は明治39年9月に安芸教会で受洗)
8月4日、今治教会牧師椿真六氏。
9月26日、平林広人氏、があり、
その他、東京中央農村教化研究所教授本田靖一氏も来援された。
財政は年収103000余円、謝儀は教会から月額3000円乃至4000円、ほかに補助金で1000円あった。
昭和26年、3月、スタンレー・ジョウンズ博士講演会。
10月8日、清岡玄之助氏永眠。84才。氏は18才で小学校教員となり、安芸郡各地で小学校長を歴任、その間日清日露の両戦役に出征、昭和10年から16年まで伊尾木村々長。明治25年2月10日マキルエン宣教師より受洗し、安芸教会創立以来最も永く信徒でかつ長老であり、度々の無牧時代に主として説教を担当され、どの牧師よりもはるかに多くの説教をなし、79才にして教会の必要のため補教師の資格を取り、逝去される前年までの安芸教会史を執筆された。野村穂輔牧師は告別式説教のためのメモに記している、「清岡先生は安芸教会の歴史であった。安芸キリスト教史であり、その生命史であり、信仰史である。
先生の生涯は十字架を負える生涯であった。彼の霊の復活は現在その徴候を見ることができる。『血気の体にて播かれ、霊の体に甦へらせられん』。先生の最後の言葉、『キリストが白雲にのって迎えに来ている』。『天国への救』を確信して昇天さる」
11月5日、長谷川初音牧師特伝、45名。
12月9日、ローガン師特伝、130名。
この年、高知支区よりの補助金月額500円に減額、謝儀のための教会負担500円増の4500円。9月に、おそらく謝儀の援助の意味で、北川姉の父渡部一氏より多額の献金あり。須賀春喜姉役員に加わる。
昭和27年、5月12日、武田よしえ氏特伝、52名。
5月31日、パーソンズ師特伝、35名。
6月14日、アキスリング師特伝、30名。
8月13日より3日間、大井で青年修養会、参加17名。
日曜学校はまだ盛んで60名を超える日がある。会計状況は、収入25000円減で77000余円、謝儀は月額4500円のすえ置き、補助月額500円。数字の上から言えば、財政的に最も苦しい時期であったと思われる。
昭和28年、7月、クライアンス師来援。
10月15日、東神大学長桑田秀延氏特伝、27名。
役員に門田喜作兄が加わる。
この年、補助金は倍額の月1000円になるが、教会からの謝儀はさらにすえ置き。収入はもちなおして12万円弱となったが、礼拝出席はなぜか前年の23名から一挙に14名へと激減。
昭和29年、1月14日、安芸高校北舎(旧安芸高女)で賀川豊彦氏特伝、350名参集、決心者100名。
6月10日、港畔教会中城牧師来訪。
礼拝出席平均は13名に、全収入は10万20円に、いずれも減、謝儀はようやく月額1000円増の5500円、補助金は前年並の月額1000円。門田兄に代って菅孚美子姉役員となる。
38、会堂移築と牧師館建築(昭和30年−33年)
すでに昭和26年以来牧師館建築のことがたびたび役員会の議題になっていたが、29年8月の役員会で須賀春喜姉より会堂移築の提案がなされた。それは、旧道沿いの現在地を売却して新道沿いの新開地に土地を求めるというものであって、適当な値段で売却され、かつ将来性のある場所に適当な土地を求めることができれば、牧師館建築と会堂修築の必要性が痛感されている折から、一石二鳥であると役員会は賛成し、29年9月5日臨時総会が開かれてこの件の決定を見た。土地選定と売買については須賀寛郎氏のお世話になった。
財源は、旧敷地売却價格百85万円、教団からの15万円、信徒献金14万余、一般募金8万円余、牧師館のために住宅金融公庫より借入25万円、農村教会自立補助金借入2万円の計249万円余であり、入費は新敷地(東浜杉ノ本三九六番地、新市庁舎の向側)約360坪購入費85万円、会堂新築費103万円、牧師館新築費43万、その他諸雑費である。
昭和30年5月以降、須賀康牧場を借りて仮会堂としていたが、10月25日、四国教区長野町良夫牧師の来訪を得て献堂式を行なった。
8月9日、新会堂落成を前にして、長老安田稔氏永眠。氏は、明治33年6月17日モーア師より受洗、39年に須崎から安芸に転籍、明治44年以降45年間長老をつとめ、特に教会学校の担当を得意とされた。教会学校が一貫してはなはだ盛会であったのは氏の尽力によるところ多かったであろう。永く新聞記者として活躍され、町の名士として小中女学校の諸行事には必ず臨席感話され、その独特の話術をもって児童生徒を魅了した。(ちなみに安田氏の夫人季虎と清岡氏の夫人小春はいずれも小松庫太郎長老と松本徳三郎牧師の妹であった)
昭和31年、安田季虎姉と岡直樹氏が33年まで役員会に加わる。会堂落成に続いて牧師館建築の準備をすすめていた。
10月25日、三鷹教会石島三郎氏特伝。
この頃野村牧師は刑務所教誨師として活躍、報告によると当時キリスト教による活動が最も活発で、120名前後の参加者があったとのこと。
予算は年間約1万円増で13万円弱、謝儀は1000円増の7500円。現住会員は男五女19、計24。礼拝出席平均17名。
昭和32年、2月18日牧師館落成。牧師の住居はそれまで須賀春喜姉の提供によるものであった。
4月、オルガン購入、4万円。うち半額はパーソンズ師より献金を受く。
この年、帰省中の矢田部兄が一時役員会に加わる。年間会計は前年より一万全円の減少、謝儀すえ置き。礼拝出席は25年以降の最高で前年より9名増の28名。受洗者5名、会員30名。田野伝道所は武井近・安岡静枝・中島孝吉の兄姉により活躍。
昭和33年、1月、隠退帰郷していた長崎太郎氏が、改革派芸陽教会との交流に多少尽力しようとされ、役員会で議題になったが、話は進まなかった。
室戸伝道は野村牧師よりパーソンズ師に手渡され、伝道所建設の動きが2月にはじまった。この年の来援者は、
5月11日、土佐教会藤岡友吉、
6月22日、高岡教会牧師岩井従男、
8月、神学生篠原満、
8月28日、日和佐教会牧師川島保、
11月23日、ハ王子栄光教会牧師志村静雄、
12月28日、神学生中島信義、である。
11月の役員会では、宣教百年伝道に関する教団の要請に応えて教会の伝道方針について協議し、定期集会への出席・長欠会員への働きかけ、教団伝道班来訪を利用しての特別集会・その他の小集会などを申し合わせている。しかし礼拝出席はまたも下降線をたどりはじめ24名平均。会員数も3名の受洗者がありながら四名減の26名、内男子はわずか4名である。役員には横田・田所・ 須賀千恵が順次加わる。
年聞予算はほぽ31年度並、謝儀はすえ置き、教団の補助も実現せず、牧師が塾による内職を考える。牧師館建築のための融資金返済もできず、記録の中にもいくたびか財政難を訴えている。そのためにアメリカ衣料のバザーなどもたびたび開いている。
39、昭和34年から38年
昭和34年、4月、奈半利川電源開発のため活気づいていた田野奈半利地区の伝道所が経済的に独立した。
11月15日、7月以来募金がなされていた芸西伝道所の献堂式。
12月6日、坂本政之・安田季虎・田村千代の3氏に入信50年の記念品授与。
この年特別集会は特に多い、
1月25日、金田陽一氏、
2月15日、高知教会牧師吉田尚徳氏、
4月5日、松山番町教会牧師宇都宮氏、
5月13日、脇町教会牧師岩井栄三氏、
6月3日、平松実馬氏、52名、
6月21日、久保田憲三氏、
9月1日、平山照次氏、31名、
10月11日、斎藤敏夫・益田泉の両氏、90名、などであるが、礼拝出席は依然として24名。会員数は、受洗者4名で30名となる。年収やや向上して15万円弱、謝儀は月額500円増。
昭和35年、1月17日、桑原藤太郎氏特伝、38名。
年収はやや低下、謝儀はそのまま、礼拝出席は1名減の23名、会員数は受洗者4名でしかも5名減の25名。
転出者の多さを物語る。田所大作兄役員に加わる。
昭和36年、3月、野村穂輔牧師(第十三代)は11年間の在任の後辞任され、横浜家庭学園に赴任。
4月、香美教会山崎牧師を担任教師にお願いし、月1度は芸西伝道所島津牧師の応援を受けることとなる。
4月30日、白井浅長氏集会。
6月11日、香美教会から篠宮孝子伝道師を迎え就任式。(第十四代)
35年から39年までの間、年収は13万余から21万余まで毎年約2万円の上昇、謝儀は7千円から1万1千円まで漸増、礼拝出席平均は20名未満。35年に中山幹雄兄役員に加わる。
昭和37年、5月以降暫くの間、毎月1回パーソンズ師による中高生礼拝を英語の指導も兼ねてしていただく。
7月8日、講壇交換で香美教会中沢寅吉氏説教。
10月12日、福井二郎氏特伝。
12月30日、中島信義牧師来援。
昭和38年、2月11日より3日間、平松実馬氏による特伝。
2月17日、毎月2回聖日夜、山崎牧師による伝道礼拝開始。
5月12日、熊野清子牧師説教。
9月29日、梶原清子牧師説教。
10月27日、日和佐教会川島保牧師、石黒義種博士と共に来訪。奈半利の中島孝吉氏と西沢が役員に加わる。
40、都市計画による移転
昭和39年度のはじめから、安芸市の都市計画に伴う教会土地提供の問題がはじまる。分区内の諸牧師・その他の方々の助言を得て、結局、江ノ川べり橋の元の土地(約2割を提供して300坪)と交換し会堂牧師館を移動することに決定。40年5月植木移植、6月10日会堂定礎式、23日曳家完了、7月牧師館曳家。翌41年6月29日に移転記念式。
会計内容は、安芸市役所から93万4千余円受け取り移転をなしたが、この際序にと会堂補修・内外塗装・庭園整備等をなしたため不足を生じ、2ヶ年返済の予定で銀行借金をし、教会員から特別献金を募った。それが約25万、その他が5万あり、全収支はおよそ120万であった。
41、昭和39年から46年
昭和39年、7月8日、教区問安使として野町良夫牧師来芸。
8月28日、室戸伝道所で、海南・宍喰・室戸・安芸の合同役員会、講師は福島勲牧師。
9月8日、中島孝吉長老は奈半利川電源開発の仕事を了え離高。田野伝道所の世話は安岡静枝姉が引継ぎ、その後間もなく今西加寿枝姉が奈半利の自宅を集会に開放することとなる。
昭和40年、1月13日、長老須賀春喜姉の夫君寛郎氏逝去。氏は創立時代の長老須賀信吉氏の二男で、明治26年元日に安芸教会で受洗、その後兄寛助氏らと共に森派に移り、昭和16年における同派幹部の拘引留置に連る。
戦後は教会に復帰せず、専ら側面援助をされ、特に二度の教会移転に当っては土地の選定購入など尽力されるところ多かった。葬儀は吉田牧師司式のもとに自宅において挙行。葬儀後遺族より多額の特別献金あり、それによって牧師館建築の折以来の借金の残13万余を完済。
7月11日、講壇交換で高知教会吉田満穂牧師説教。
7月25日より2日間、会堂で教会学校小学生夏期学校。
11月23日、教会学校五台山に遠足。
田所姉再び役員に加わる。
40年から43年まで、年収は27万余から36万余まで漸増、謝儀は月額1万1千円から1万4千円まで毎年千円の増。会員は27名から20名まで漸減。礼拝出席は15名未満。教会の現状にかんがみ、二種教会への切り換えを考慮しはじめる。
昭和41年、1月27日、戒能団平牧師問安。
3月、パーソンズ師離高。
5月、謝儀補助として月額7千円教区より受けることとなる。
8月12日、須賀久寿一氏逝去。氏は明治23年3月23日安芸教会でその父竹五郎氏と共に受洗、暫く森派に属していたが戦後川島博耕兄らと共に復帰していた。
11月6日、講壇交換で嶺北教会牧師大須賀潔氏説教。
11月21日、ワーン師による映画会。
11月23日、坂本政之氏東京で逝去。安芸町裏町で歯科医であった氏は明治41年より昭和16年まで34年間長老をつとめ、昭和38年5月、それまで永くオルガン奉仕をされた令孫坂本和子姉に伴われて離芸していた。
昭和42年、2月五日―8日、今治教会榎本保郎氏による長期応援。
4月、教会種別を二種に変更。
6月の花の日にCS生徒の芸陽院慰問がこの頃ほとんど毎年の行事となる。
11月20日、日本聖書神学校新屋徳治教授来訪。
役員は、川島博耕・北川清子・須賀春喜・須賀菊・西沢のまま46年まで続く。
昭和43年、3月、バザーを開く。
6月17日、高知教会において、高知県宗教連盟主催の靖国神社問題懇談会。
11月10日、講壇交換で須崎教会岩高澄牧師説教。
昭和44年、6月8日、川島岩雄姉(博耕兄夫人)逝去。
8月22日、東雲短大キャラバン来訪。
10月、教団の万博参加問題が大きくなり、役員会でも時々話題になりはじめる。
12月、CSクリスマス盛会、70名。今西加寿枝姉宅の奈半利集会クリスマス30名。
44年から46年まで、礼拝出席は9名、収支は43万から50万へ、謝儀は毎年千円乃至2千円増、補助は41年以来ずっと受け続ける。44年から会堂修築に備えて特別献金による積立をはじめ、47年まで毎年7乃至8万の収入があったが、教会会計の赤字補填のためにしばしば流用した。
昭和45年、6月より毎週水曜日、山崎牧師による聖書研究をはじめる。
8月2日、岡直樹兄逝去、85才。氏は永く米国にあり、戦後帰国、一時役員をつとめ、晩年その従兄に当る黒岩涙香氏の伝記を執筆出版された。
9月15日、分区青年会の奉仕によって会堂ペンキ塗換。
この年から毎年一回高知分区信徒学校が開かれるようになった。
昭和46年、1月17日、講壇交換で樽本信篤牧師説教。
役員は、北川清子・須賀菊に代って山崎政子・田所が加わり、48年まで続く。
42、昭和47年から昭和50年まで
昭和47年、2月27日、講壇交換で野村和男牧師説教。
3月、篠宮孝子牧師(第十四代)辞任、岡山に帰省される。在任10年9ケ月。教会は15回目の無牧に入る。
4月、芸西伝道所牧師内田汎氏に担任教師代務者を依頼したところ、香長伝道圈の協力の背景でならとの意向であったので、役員会で検討の結果伝道圈に加入することとなった。牧師退職金のための借入金は2年間返済を目標とし、その間無牧を覚悟する。当分の間、礼拝は午后とし、第一・第三聖日は内田牧師説教、その他は川島・西沢両長老が交替で担当、聖書研究は従来通り水曜日に山崎牧師担当、奈半利集会は室戸伝道所高橋牧師に依頼することとなる。すでに転出していた中島孝吉兄より奈半利集会にしばしば援助あり。
7月―8月、夏期伝道のため伝道圈に派遣された神学生2名が交替で牧師館に滞在。9月10日、安芸教会で伝道圈の合同礼拝、約90名。10月、2年間の見込であった借入金返済を1ケ年で終了する見込ができたので、48年春から牧師を迎える話をしはじめる。10月以降、内田牧師のはからいで、毎週の説教に伝道圈の諸牧師(内田汎・山崎祐博・鈴木実・樽本信篤・高橋公豈)を交替で迎えることとなる。教勢は礼拝出席平均13名に、収支は69万に成長。CS出席は平均7名でどん底、特別の時以外はほとんど4名であった。
昭和48年、7月1日、ドイツ留学を終えた上田光正牧師(夫人は元来安芸教会で育てられた矢田部姉)着任、7月15日、教区長平山武秀牧師を迎えて就任式。
9月、創立85周年記念として教会史編纂のことが役員会で決められる、委員長西沢。
10月28日、伝道圏合同礼拝、東神大赤本善光教授説教、約100名。12月8日、吉田満穂牧師特伝。年度後半月1回、内田光一牧師を迎えて説教。安田町中山の黒岩姉宅での月1回の家庭集会を嶺南教会より引きつぐ。
48年から50年にかけて、会員数は21・29・26、礼拝出席平均は25・27・24・CSの出席は9・14・18。年間収支は150万から20万ずつ増、謝儀は、48年に教会から3万、教区補助が7千9百円。49年に補助を謝絶、基準通りの5万5千6百円。50年には基準大幅増のため基準より1万円弱減の7万6千円。CS収支は3万4千円から7万6千円へ。会堂修築積立貯金は毎年10万円弱の収入である。
昭和49年、4月28日、須賀春喜姉宅で教会修養会、参加22名。
5月12日、数年来奈半利集会の責任を負われ、特にそのCS指導に尽力された今西加寿枝姉逝去、15日葬儀。
6月23日、東神大学長佐藤敏夫氏説教。7月―8月、東神大学生二宮幸雄・浜田辰雄両兄夏期伝道のため伝道圈へ。 7月29日、川島博耕長老逝去、81才。氏は明治39年9月9日津久井牧師より受洗、のちその父晟耕氏と共に森派に転じ、昭和16年9月13日同派幹部として治安維持法にふれるものとして検挙され、17年11月まで1年2ケ月の間、安芸・赤岡・高知南の各署に留置された。戦後安芸教会に復帰し、間もなく昭和24年長老となり、25年間、特に改革派分裂以後の沈滞した時期、しばしば事実上唯一の男子長老として、教会の重荷を黙々と負い続けた。7月31日教会葬を挙行、分区各教会の牧師信徒多数の参列あり。
9月27日、東京下谷教会牧師菊他言弥氏特伝。42名。9月29日、安芸教会で香長伝道圈合同礼拝、出席103名。
昭和50年、2月20日、牧師館増築。分級・会議・応接・書斎等多目的用の部屋(五坪、内一坪は押入)完成。入費73万円。収入は特別献金24口38万8千円、会堂修築積立貯金15万5千円、教会々計より18万7千円。
3月9日、講壇交換で野村和男牧師説教。4月より、CS分級開始、須賀康兄役員会に加わる。 5月25日、黒瀬にピクニック。
7月―8月、東神大学生村椿嘉信・小出望の両兄夏期伝道のため伝道圈へ。
11月30日、前年に引き続き安田町黒岩姉宅のみかん山にCS遠足。12月、会堂塗換、入費18万5千円。
安芸教会90年史 訂正と補遺
1. 坂本 直(なお)
教会史第11章の終り、明治29年来援者列記のくだり(10頁下段)に、
・・・坂本 直(直寛のことか)・・・と書いてある。
実は教会保存の来信の中にも「坂本直寛」名のものと「坂本 直」名のものとがあって、しかも両社の筆跡がかなり異なるのでおかしいとは思いながら誤ったのである。
教会史発行後間もなく、清岡 清兄に指摘されてはじめて、直は直寛の実兄、本名高松太郎、安田村出身、坂本竜馬の甥で養子、海援隊員、後東京県令、であることを知った。
最近、元羊子舎教会(沼津)牧師二橋正夫(号凡羊)著「「雲を視る」」によって、さらに情報を加えられた。それによると、
直は別名小野淳?、勝海舟の海軍塾に学び、海軍、貿易、北海道開発に活躍、明治4年朝廷によって竜馬の嗣子と定められ、坂本 直と改名、東京府典事、宮内省?掌、舎人、などを歴任したが、明治7年「耶蘇教を信奉したるにより」解職され、帰郷、実弟直寛方に奇遇。
因みに、彼の母は龍馬の長姉千鶴。父は郡奉行高松順蔵で文武の達人。その門下から天誅組、海援隊、陸援隊の志士輩出。晩年座右に漢訳聖書を置き、子弟に「聖人の書であるから熟読せよ」と教えたという。
尤も、順蔵のことについては、すでに清岡 清兄の「「二十三士」」やその他の著作にかなり詳述されている。(1983.5.8週報)
2. 最初の洗礼式(第2章2頁)
教会日誌第1巻第1頁が欠損しているため不明であった最初の洗礼式の日付は、高知教会の日誌によって、明治21年11月11日(日)であることが分かった。教会史では、後の記録から逆算して9名の受洗者を憶測したが、その他に大谷虞が加わっているので、計10名だったわけである。
(1998.6.5週報)
3. 森派のこと
教会史を書くに当って、森派のことについての資料不足と理解不足のために、いろいろと誤解があった。
23章(15頁)に菅和氏が森派になったかのように書いてあるが、事情は大層微妙であったにしても、その死亡時期から言っても、菅氏は最後まで安芸教会員であったと見るべきだろう。
32章(25頁)に、寺尾喜七氏を安芸教会から森派に移った者の中に加えてあるが、これは明らかな誤りである。寺尾氏は安芸教会に1、2度出席しただけで、教会員になったことはない。
また同じ章に、昭和16年当時の森派の集会場所を船場の須賀寛助氏宅としてあるが、西本町の須賀寛郎氏宅(醤油店)の誤りである。(1983.6.19週報)
4. 都市計画による会堂移転
現在の場所に会堂を移転した時の記事がぬかってしまった。教会史41章(37頁下段中央)に記すべきものである。
昭和40年6月10日会堂定礎式、6月20日から月末まで引き家工事。7月4日初礼拝。これは安芸市都市計画協力工事第1号として新聞に紹介された。礎石の字も、その後掲げられた教会看板の字も、丸岡章一(号可亭)氏にお願いした。
(1983.8.14週報)
5. 森勝四郎師の戸籍
「「土佐クリスチャン群像」」のために森勝四郎師のことを調べた時、出生と死亡の正確な日付がどうしても分からなかった。その後、「「日本キリスト教歴史事典」」(教文館)の「森勝四郎」の項を担当された星野達雄氏(YMCA)から森氏の戸籍の写しが送られてきた。それによると、
「三重県伊勢国鈴鹿郡庄野村(現三重県鈴鹿市)大字庄野209番屋敷、亡父勝美三男、明治6年3月9日生、大正9年4月20日午前10時、高知県高知市鷹匠町130番地ニ於テ死亡」となっている。(1983.9.4週報)
6. 初代牧師 手塚新の略歴
昭和50年2月8日付弘前教会百年史ニュース第3号は、言わば手塚新牧師の特集号になっていて、安芸教会では知られていなかった情報をいろいろと提供してくれる。
安政2年(1855)6月17日、青森県鰺ヶ沢町で、父右一、母うめ、の三男として出生、幼名千代三郎。父津軽侯典医となり、一家弘前に移住、上鞘師町で少年時代を送る。早く父の友人津軽藩儒櫛引?斉の内弟子となって和漢の学を修めた。同門に日本メソジスト教会監督本多庸一、陸軍大将一戸兵衛、伯爵珍田捨己などがいた。(安芸市旧本町真慶寺境内にある忠魂碑の揮毫者が一戸兵衛であるのは、手塚新牧師と関わりがあるのではあるまいか。)
明治4年(1871)17歳、父の家を継いで医師となるため江戸に遊学、間もなく眼病を患い、横浜に行ってヘボン師の治療を受ける。この時本多庸一はすでにキリスト者となっており、津軽藩の子弟数人を横浜で監督勉学させていた。
明治5年(1872)18歳、11月15日(新暦12月15日)横浜公会においてヘンリー・ルミス師(ジェイムズ・バラ師は帰国中)より受洗、公会名簿中28人目の信者となり、本多庸一(公会名簿22人目)に続いて津軽藩出身2人目の信者となる。植村正久と親交を結ぶ。(1984.11.18週報)
7. 手塚師略歴、その2
日本最古のプロテスタント系週刊誌「「七一雑報」」は明治8年81875)12月神戸で創刊された。植村正久も言及しているように、手塚はこれに当初から寄稿し文名をあげた。「「弘前にて」」と題するものが、何篇かあったらしい。手塚21歳の頃である。
その年東京に移り、約4年間麻生にあった女子小学校の教師となる。これは後の京橋区築地の救世学校海岸女学校であり、日本における最初の女学校で、現在の青山学院である。この頃すでに男女共学で、彼の教え子には海老名弾正夫人横井みや子、小崎弘道夫人岩村千代子、元良文学博士夫人元良よね子、津田英学塾長津田梅子の母、その妹こと子、津田元親、前田健吉、大貫某などがいた。
手塚はまた生徒に国漢を教えるかたわら、海岸女学校校長ミス・スクンメーカーの日本語教師をしていた。
明治9年(1876)22歳、8月弘前帰郷の折には弘前教会で、本多庸一に代って何度か説教を担当している。
明治12年(1879)より14年秋(25歳より28歳)まで西京新聞(のちの京都日出新聞)の記者となり、大いに才筆を揮った。
明治15年(1882)29歳、京都府下八幡町に「愛民義塾」を開き、青年十数名を教育。京都士族名種(なぐさ)貞憲(さだのり)の娘登尾(なるお)と結婚。
(1984.11.25週報)
8. 手塚師略歴、その3
明治17年(1884)31歳、10月京都同志社において第3回日本福音同盟大会が開かれた折、戸川安宅、津田仙、原胤昭ら相会し、手塚が京都の在所に隠棲していることを知り、彼のために祈祷会を持つ。翌日3人が手塚を訪れ、有無を言わさず京都に連れ戻り、海老名弾正、宮川経輝、横井時雄に会わせ、協議の結果、手塚を横井と共に今治に送ることとなる。手塚は「「入予?」」と題する漢詩一篇を残して京都への哀惜の念を表している。今治では、ラーネッド博士の聖書講義を横井が翻訳し、それを文筆に堪能な手塚が補筆訂正した。徳富蘆花も動労者であった。手塚はまた伝道をも助けた。妻登尾(なるお)、横井氏より受洗。明治19年(1886)4月、33歳、日本基督教会の伝道を助けるため、大阪に出、間もなく、大和国御所日本基督教会に赴任。
明治20年(1887)秋、34歳、高知県に赴任。最初の任地はおそらく後免町であったろう。明治22年2月19日発行「「土陽新聞」」に「長岡郡西野地村字坂井部落に基督教の伝道を糞望するものありて、去る14日同郡後免町講義所手塚新氏を招待し、同簡易小学校に於て説教・・聴聞者50余名・・
本県下に於て基督教徒の新民部落に伝道せしは是が嚆矢なり」とある。
明治22年(1889)10月、36歳、開所後1年の安芸講義所に初代牧師として赴任。
明治26年(1893)12月40歳、安芸講義所を辞して後免講義所に再赴任、明治30年まで在任したらしい。
(1984.12.2週報)
9. 手塚師略歴、その4
明治30年(1897)44歳、日本福音教会牧師となり、東京四谷教会赴任。
明治31年、茨城県龍ヶ崎教会。
明治37年(1904)51歳、東京下谷教会。
明治38年(1905)千葉県東金教会。
明治42年(1909)56歳、名古屋教会。
大正13年(1924)71歳、神戸教会。
昭和3年(1928)74歳、3月隠退、洛西西院に閑居。
昭和10年(1935)81歳、3月21日妻登尾永眠74歳。自らその告別式を司る。
同年7月長男督郎氏の許に身を寄せ、常住坐臥感謝と祈りのうちに晩年を送る。
翌昭和11年(1936)1月17日病臥し、同月30日午後6時25分永眠、82歳。
師には四男三女あり、うち一男二女は夭折。
永く日本禁酒同盟の事業に参加。分泌を愛し、作詩多く、号は南東、一所不住の意。
昭和9年と思われる年頭の詩、
新年
破暁朝瞰特地新
又迎八十二年春
スイ遅養老聖旨下
我是真成幸福人
暁朝(あかつき)を破(つらぬ)きて瞰(み)れば特(こと)に地新(あらた)なり
又迎う八十二年の春
スイ遅(隠棲)して労を養う聖旨の下(もと)
我は是れ真成(まこと)の幸福人
(1984.12.16週報)
10. 手塚師についての言及
明治31年8月26日付「「福音新報」」第165号掲載、植村正久の「「キリスト教徒の新聞雑誌およびその記者」」の中に左の記事がある。
「余輩の記憶するところによれば、キリスト教の新聞として最も早く現れしものを神戸の「「七一雑報」」とす。・・・・
手塚新氏のごときはキリスト教文学者として当時の七一紙上に最も幅を利かせたる一人にてありき。「「七一雑報」」はその後「「福音新報」」と改題したり。」
(1984.9.30週報)