2018年4月29日日曜日

「すべて神の栄光を現すため」コリントの信徒への手紙一 10:23-11:1

市場いちばっているものは、良心りょうしん問題もんだいとしていちいち詮索せんさくせず、なんでもべなさい。「とそこにちているものは、しゅのもの」だからです」。そううパウロは、かつて律法りっぽう厳格げんかく遵守じゅんしゅする教育きょういくけ、どころなく(使徒23:3、フィリピ3:6)、きよくない動物どうぶつなどべませんでした(使徒10:14、レビ11)。そのパウロがおもってこういます。
それは、かみとの関係かんけいものによってそこなわれるわけでないことを、キリストによりしめされたからです。キリストは、律法りっぽうによればかみのろわれてんだとみなされました(申命記21:23)。ところが、そのかみにあっては、さえもその関係かんけいさまたず、むしろかみはわたくしたちをにまさってしゅのものとする。このあかしとして、キリストは復活ふっかつさせられ、弟子でしたちにあらわれ、パウロにもあらわれました(15:8)。キリストにあっては、かみとの関係かんけいさまたげるものはなにもありません。
この、かみとわたくしたちとのかいの関係かんけいが、えてあたえられています(1:9)。「かみまえにあるわたし」というまじわりはだれにもおびやかされることなく、だれのもおびやかしてならぬもの(30)としてキリストによりもたらされました。いまやこのかみとのまじわりにあずか礼拝れいはいが、わたくしたちにとどけられてきました。そして、わたくしたちがどこにあっても、わたくしたちはなおかみかおまえにあり、なにをするにしても、キリストにあってかみ栄光えいこうあらわうつわとしてもちいられるのです(31)。
だれでも、つくぬしつくられたわたしとのこのかいの関係かんけいがまことにそうあることを必要ひつようとしています。かみなきもののようにしてわたくしたちをにゆくままくのをのぞんでいるわけではありません。天地てんちつくぬしなるかみさまは、やぶって、この不変ふへんまじわりを宣言せんげんしてくださいました。いまかみさまはこのかみ御名みなあがめる礼拝れいはいをわたくしたちにあたえ、この礼拝れいはいをもって、一人ひとり、また一人ひとりと、すくいにあずらせてくださるのです。

2018年4月22日日曜日

「ただ一つの慰めにあずかる」コリントの信徒への手紙一 10:14-22

わたくしたちは、たせるなら自分じぶん責任せきにん自分じぶんたそうとします。ただ、にゆく自分じぶん責任せきにん自分じぶんではたすことは、ねがってもかないません。そこで、にゆくこの自分じぶん眼差まなざしを、しっかりとめてくれる相手あいてが、わたくしたちには必要ひつようです。すべきこの自分じぶんたいし、をこえて「おまえはわたしのもの、おまえい」とってもらえる相手あいてを、もとめるのです。
つくぬしなるかみこそが、すべきこのれ、かみのものとしてくださいます。かみはこのため、御子みこイエスのいのちじゅう字架じかしました。十字架じゅうじかささげられたいのち、これがわたくしたちを身代金みのしろきんとなりました。パウロはいます。「らないのですか。あなたがたのからだは、かみからいただいたせいれい宿やどってくださる神殿しんでんであり、あなたがたはもはや自分じぶん自身じしんのものではないのです。あなたがたは、代価だいかはらってられたのです(6:19)。」
人間にんげんには、なん肯定こうていしようのないを、しゅイエスはそのけました。しかしこのしゅイエスを、かみ復活ふっかつさせ、しゅイエスは復活ふっかつさせられたごしん弟子でしたちにあらわしました。かみはここに、人間にんげんには肯定こうていないたいし、つくぬしとしてその責任せきにんることを宣言せんげんしてくださったのです。いまかみしゅイエスの復活ふっかつらせ、この宣言せんげんをわたくしたちにとどけます。かみは「おまえはわたしのものだ」と宣言せんげんし、すべきこのわたくしたちにたいまなしをそそつづけておられるのです。
復活ふっかつしゅイエス・キリストが、わたくしたちの勝利しょうりし、こうから、このかみ宣言せんげんげておられます。このしゅまねかれ、わたくしたちは洗礼せんれいけ、このかみ宣言せんげんをわたくしたちのにしるしけていただきます。わたくしたちはしゅ食卓しょくたく聖餐せいさん)においてキリストのからだあずかり、わたくしたちがかみのものであるということをかえ確認かくにんします。ともにこのかみとのまじわりにくわえられ、かみとのあいだちぬいのちをいただくのです。

2018年4月15日日曜日

「神は真実な方です」コリントの信徒への手紙一10:1-14

「あなたがたをおそった試練しれんで、人間にんげんとしてえられないようなものはなかったはずです。かみ真実しんじつかたです。あなたがたをえられないようなれんわせることはなさらず、試練しれんともに、それに耐えられるよう、のがれるみちをもそなえていてくださいます」。なんともたのもしい、かおげさせられるはげましです。試練しれんい、たおれても、かみ突破とっぱするみちひらいてくださる。
パウロはこのはげましを、偶像ぐうぞう礼拝れいはいたいする警告けいこくなかかたります。パウロはかみが、しゅつエジプトにはじまる荒野あらのの四十ねんなか旧約きゅうやくたみみちびいたこと、たみてんからマナをあたえ、いわからみずしてやしなったことを指摘してきします。一方いっぽうたみが「たして、しゅ我々われわれあいだにおられるのかどうか(出17:7)」としゅためしたこと、「パンもみずもなく、こんな粗末そまつ食物しょくもつでは、気力きりょくもうせてしまいます(民21:5)」としゅ不平ふへいったこと、きん子牛こうしかみとしてあがめたこと(出32)をげます。
パウロがここで試練しれんは「ときわり」に直面ちょくめんするなかでのものです。わたくしたちも、われていた学業がくぎょう仕事しごと子育こそだてにわりをむかえ、これからのみちをどうすればよいのか足踏あしぶみすることがあります。自分じぶん何者なにものなん価値かちがあるのか、わされることがあります。人生じんせいわりをまえにし、試練しれんあたえられます。そこでなお自分じぶん価値かち見出みいだしてくれるかた自分じぶんあいしてくれるかみもとめます。「たして、しゅ我々われわれあいだにおられるのかどうか」わたくしたちももとめるのです。
「キリストをこころみないようにしよう」とパウロはすすめます。それはこれまで自分じぶんちからってきたとおもっていても、キリストこそがこのたせてきたからです。このやしないに目覚めざめるようパウロはもとめます。人間にんげんつくった偶像ぐうぞうによってわたくしたちがいのちるでしょうか。キリストをから復活ふっかつさせたかみこそがわたくしたちのつくぬしとして、えるいのちみちあたえてくださいます。そのための礼拝れいはいへとしゅまねいておられます。

2018年4月1日日曜日

「復活の主がいつも共に」ルカによる福音書24:13-35

復活ふっかつしゅイエスは、エマオへとかう二人ふたり弟子でしともあゆんでいます。でも二人ふたりは、一緒いっしょあるはじめたこのかたしゅイエスだとわかかりません。たしかに二人ふたりは、しゅイエスが復活ふっかつさせられきておられる、と婦人ふじんたちがはかでみ使つかいからいたのをっています。また、やってたこのかたから、メシアはくるしみをけて栄光えいこうはいる、と聖書せいしょから説明せつめいされるのをきました。
ですが二人ふたりには、復活ふっかつしゅイエスがともにおられるとわかかりません。二人ふたりさえぎられていたのです。それでも、復活ふっかつしゅイエスはこの二人ふたり目指めざしていたところへとともあゆみます。そして目指めざむらしゅイエスをおめし、いえ一緒いっしょ食事しょくじをしたときのこと、しゅイエスはパンをり、賛美さんびいのりをとなえ、パンをいて二人ふたりわたします。すると二人ふたりひらかれ、このかた復活ふっかつしゅイエスだとわかかりました。ただそのとき、ともにおられるこのかたのお姿すがたえなくなりました。
復活ふっかつしゅイエスは、いつもわたくしたちとともにおられます。ですがわたくしたちのすくなからずさえぎられていて、しゅイエスのお姿すがたることができません。そのわたくしたちのあゆみは、この二人ふたり弟子でしたちのあゆみとかさなります。わたくしたちもまた礼拝れいはいにおいて、しゅイエスがわたくしたちのために十字架じゅうじかんだこと、この主イエスをかみさまが復活ふっかつさせたことをきます。ただそれがわたしあゆみとどうかかわるのか、このかたこそわたしすくぬしだ、とはわかからないことからあゆはじめます。
それでも復活ふっかつしゅイエスはわたくしたちのところへやってて、ともみちあゆんでおられます。そしてこのひらき、聖書せいしょ言葉ことばひらいてくださいます。たしかに一度いちどすべわかかるとはかぎりません。でもしゅは、わたくしたちのがすっかりひらかれ、めんかって復活ふっかつしゅイエスとおいするへと、いてくださいます。わたくしたちはこの目指めざし、てんにあるものにあるものも、とも復活ふっかつしゅをほめたたえるあゆみをかさねてまいるのです。