2018年3月25日日曜日

「私たちを再創造する神の言葉」詩編95:1-11

この詩編(しへん)(だい)九五(きゅうじゅうご)(へん)はダビデによるものです。ダビデは少年(しょうねん)時代(じだい)、ペリシテ(じん)ゴリアトと勇敢(ゆうかん)(たたか)った(じん)(ぶつ)であり、(のち)にイスラエルとユダの(おう)になりました。しかし立派(りっぱ)()えるダビデも、(かみ)さまの(まえ)(つみ)(おか)してしまいます。ダビデは部下(ぶか)である将軍(しょうぐん)ウリヤの(つま)バト・シェバを召入(めしい)れます。ダビデは(さく)(もち)いてウリヤを戦死(せんし)させ、その(つま)自分(じぶん)のものにしたのです。
このことは(しゅ)御心(みこころ)にかないませんでした。(しゅ)預言者(よげんしゃ)ナタンをダビデのもとに(つか)わし、ダビデが(しゅ)()(そむ)くことをしたと(さと)らせます。ダビデは(しゅ)なる(かみ)さまの御前(みまえ)に、(つみ)(ゆる)してくださるよう(ねが)います。「(かみ)よ、わたしの(うち)(きよ)(こころ)創造(そうぞう)し、(あたら)しく(たし)かな(れい)(さず)けてください(詩51:12)」。このダビデの(いの)りは、(しゅ)なる(かみ)さまが(ひと)(こころ)(あら)たにしてくだされなければ、(ひと)(あゆ)みは不確(ふたし)かであり(かみ)さまに()()ける(あゆ)みへと(おちい)るほかない、ということを(あらわ)しています。
(ひと)(かたく)なな(こころ)(かみ)さまが(はたら)かれる余地(よち)(あた)えません。しかし、()(くだ)かれ、(こわ)れ、ボロボロになっている(こころ)には(かみ)さまが(はたら)かれる余地(よち)充分(じゅうぶん)にあるのです。
(しゅ)なる(かみ)さまはモーセを()()し、イスラエルの(たみ)をエジプトから解放(かいほう)し、約束(やくそく)()へと(みちび)くため()()(とお)らせました。ところが、イスラエルの(たみ)()()のメリバ((あらそ)い)とマサ((ため)し)で()(みず)がないことに(はら)()て、「()たして、(しゅ)我々(われわれ)(あいだ)におられるのか」と文句(もんく)()います。
モーセと(あらそ)い、(しゅ)なる(かみ)さまを(ため)した結果(けっか)、イスラエルの(たみ)四十(よんじゅう)(ねん)(かん)()()彷徨(さまよ)うことになります。
(しゅ)なる(かみ)さまは(ひと)(つみ)徹底(てってい)して(さば)(きび)しさをもちながら、他方(たほう)その(つみ)(ゆる)(かみ)でもあります。(しゅ)なる(かみ)さまは歴史(れきし)(とお)して(はたら)き、(しゅ)イエス・キリストを()にお(あた)えくださいました。
(しゅ)イエスは(わたし)たちの羊飼(ひつじか)いであり、(すく)いの(いわ)です。(わたし)たちがこの()()きていく(なか)でどんな苦難(くなん)があろうと、()けることのできる安全(あんぜん)場所(ばしょ)です。

2018年3月18日日曜日

「あなたがあなたであるため」コリントの信徒への手紙一 9:1-27

(だれ)にとっても、自分(じぶん)居場所(いばしょ)がなくてはなりません。わたくしたちは「お(まえ)はここにいて()い」と()ってもらえる(ところ)必要(ひつよう)です。そして(つく)(ぬし)なる(かみ)(かお)(まえ)(いだ)かれることが、(もっと)()い、()ちない永遠(えいえん)居場所(いばしょ)です。「どこにいるのか」と(かみ)さまはわたくしたちの主人(しゅじん)として()()け、(すべ)てを()った(うえ)で、「お(まえ)はここにいろ」とわたくしたちを(むか)()れてくださいます。
わたくしたちが本当(ほんとう)のわたくしたちとされる。それが(かみ)(まえ)にある礼拝(れいはい)です。ただ、この(かみ)()らなかったりこの主人(しゅじん)(わす)れたりして、()()けて(あゆ)むことがあります。そこでもはや(かみ)顔向(かおむ)けできず、(つみ)(うち)自分(じぶん)()()めてしまう。わたくしたちは(ほか)()場所(ばしょ)(もと)めますが、どれも()ちゆく(しゅ)(じん)()ぎず、最後(さいご)最後(さいご)、わたくしたちの(いのち)責任(せきにん)()()れません。この、(かみ)なしでなお()きようとするわたくしたちの(つみ)のゆえ、(しゅ)イエスは十字(じゅうじ)()()なねばなりませんでした。
(かみ)()(かお)()()られ、十字架(じゅうじか)(ころ)された(しゅ)イエスを、しかし(かみ)復活(ふっかつ)させました。(かみ)()という(へだ)たりを()え、この御子(みこ)(ちち)(かお)(まえ)にある()としたのです。御子(みこ)弟子(でし)たちにご自身(じしん)(あらわ)し、()すべき人間(にんげん)がなお()って()()(かお)(あらわ)してくださいました。わたくしたちは、この御子(みこ)のしもべとして(つみ)(とら)われから()()られ、この御子(みこ)により(かみ)(かお)(まえ)居場所(いばしょ)()ます。この福音(ふくいん)(よろこ)びのおとずれ)に(とも)(あずか)るため、パウロはコリントに使徒(しと)として(つか)わされました。
パウロの(はたら)きの報酬(ほうしゅう)は、コリントの(もの)たちが(しゅ)(むす)ばれているという(よろこ)びです。(かれ)らが(かれ)らであるため(はたら)くパウロは、(かれ)らが(とも)福音(ふくいん)(あずか)ることで、使徒(しと)パウロとなります。
(いま)や、このキリストの福音(ふくいん)()()らせる礼拝(れいはい)がわたくしたちの(ところ)にまで(とど)けられました。この礼拝(れいはい)にわたくしたちが(まね)かれています。わたくしたちへと福音(ふくいん)(とど)けた礼拝(れいはい)先人(せんじん)たちにとって一番(いちばん)(よろこ)びは、(とも)(しゅ)(むす)ばれ、福音(ふくいん)(あずか)ることなのです。

2018年3月4日日曜日

「キリストはとらえてくださる」コリントの信徒への手紙一 8:7-13

パウロは「(よわ)(ひと)」のようになります。たしかに、わたくしたちは(しょく)(もつ)によって(かみ)のもとに(みちび)かれるのではない。ただ「ある(ひと)たちは、(いま)までの偶像(ぐうぞう)になじんできた習慣(しゅうかん)にとらわれて、(にく)()べる(さい)に、それが偶像(ぐうぞう)(そな)えられた(にく)だということが念頭(ねんとう)から()らず、良心(りょうしん)(よわ)いために(けが)される」。だから兄弟(きょうだい)(つまず)かせるくらいなら、自分は今後(こんご)(けっ)して(にく)(くち)にしない、と。
(てん)(ちち)なる(かみ)さまはわたくしたちをご自身(じしん)のもとに(まね)き、(かみ)(あい)する()としてわたくしたちを()かします。けれどもわたくしたちは、まるでそうではないかのように自分(じぶん)をも他人(たにん)をもみなします。ときに(かみ)との(あいだ)知識(ちしき)(おこな)いを()いて(かみ)(まえ)(ただ)しくあろうとする。しかしそれによって(かみ)(まえ)()てるのではありません。また、(ぐう)(ぞう)(そな)えられた(にく)()べる「(つよ)(ひと)」を見て(つまず)いてしまい、(かみ)見失(みうしな)ってしまう。しかしそれで(かみ)見捨(みす)てたのでも、お(しま)いになるのでもありません。
御子みこキリストは、十字架じゅうじかというのろわれたわされます。かみからはなそうとする人間にんげんが、つまずきのいしいたのです。御子みこはそのままんでしまいます。ですがかみさまは、わたくしたち人間にんげんおもいをくつがえし、この御子みこ復活ふっかつさせてくださいました。かみ御子みこ復活ふっかつあかしし、わたくしたちとご自身じしんとのあいだに、さえもへだたりとならないことをしめします。じつに、かみ十字架じゅうじかにおいてみずからをし、つまずきをないわたくしたちとおなじくなってくださったのです。
たとえ、わたくしたちが(つまず)き、(かみ)見失(みうしな)い、(かみ)見捨(みす)てられ(ほろ)んでお(しま)いだと()えても、このわたくしたちを、復活(ふっかつ)(しゅ)キリストがとらえてくださいます。このお(かた)こそ、わたくしたちを(かみ)のもとに(みちび)き、(かみ)(あい)する()として(つく)()げてくださいます。もはやキリストにあって、(かみ)との関係(かんけい)(さまた)げられるものはありません。(いま)御子(みこ)礼拝(れいはい)においてわたくしたちをご自身(じしん)()(なか)()き、(かみ)さまとの(まじ)わりに(あずか)らせてくださいます。