2018年1月28日日曜日

「平和な生活を送るため」コリントの信徒への手紙一 7:1-16

(かみ)さまは、お(あた)えになる賜物(たまもの)を神の(よろこ)びのためにわたくしたちが(もち)い、(かみ)のご支配(しはい)(うつ)()される(うつわ)として()かされるよう、(もと)めます。パウロは()います。「平和(へいわ)な生活を送るようにと、(かみ)はあなたがたを召された」。パウロはここで独身者(どくしんしゃ)男女(だんじょ)結婚(けっこん)(せい)(かつ)()げ、「(ひと)はそれぞれ(かみ)から賜物(たまもの)をいただいているのですから、(ひと)によって()(かた)(ちが)います」と()います。
独身者(どくしんしゃ)夫婦(ふうふ)も、(かみ)がその賜物(たまもの)をお(あた)えになり、(かみ)(よろこ)びが(あらわ)れるために()()されます。(かみ)()()けておられるその(こえ)(こた)える生活(せいかつ)(もと)められます。パウロは()います。「(かみ)()秩序(ちつじょ)(かみ)ではなく、平和(へいわ)(かみ)だからです(14:33)」。それぞれの(あゆ)みが(かみ)のご支配(しはい)のもと、()のうちどころのない(もの)とされる()へと()けられます。(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)(ちち)なる(かみ)さまとの(まじわ)わりにわたくしたちを(くわ)え、(かみ)(よろこ)びがこの()(まっと)うする()をもたらしてくださいます(1:8)。
(しゅ)イエスは「復活(ふっかつ)(とき)には、めとることも(とつ)ぐこともなく、天使(てんし)のようになるのだ」と()います(マタイ22:30)。その先取(さきど)りとして、独身(どくしん)のパウロは「(みな)わたしのように(ひと)りでいるのがよい」と()ます。わたくしたちは洗礼(せんれい)によってキリストに(むす)ばれ、キリストと(ひと)つとされた(まじ)わりに()かされます(12:13)。パウロは、(どく)身者(しんしゃ)がこのキリストとの(まじ)わりにおいて(ちち)なる(かみ)御子(みこ)キリストとの(まじ)わりに(くわ)えられ、(かみ)のもの(せい)なる(もの)とされてゆくことを(すす)めます。
パウロは一方(いっぽう)夫婦(ふうふ)(かみ)(むす)(あわ)一体(いったい)とし(マタイ19:15)、その家族(かぞく)もキリストに(むす)ばれ(せい)なる(もの)とされると()ます。信者(しんじゃ)でない(おっと)(つま))は、信者(しんじゃ)である(つま)(おっと))のゆえ(せい)なる(もの)とされており、その子供(こども)(けが)れているのではなく(せい)なる(もの)である(16)。結婚(けっこん)(かみ)のご支配(しはい)(うつ)()される(うつわ)として(あた)えられ、結婚生活(けっこんせいかつ)(けが)れたものではない。むしろ夫婦(ふうふ)(かみ)()()けになお(こた)え、その賜物(たまもの)(もち)い、(あい)()(つか)()ってまいるのです。

2018年1月21日日曜日

「この体に現される神の栄光」コリントの信徒への手紙一6:12-20

創世記(そうせいき)(かみ)天地万物(てんちばんぶつ)(つく)った()(だい)辿(たど)ります。「(かみ)()われた。「(ひかり)あれ。」こうして、(ひかり)があった。(かみ)(ひかり)()て、()しとされた(1:3,4)」。(かみ)言葉(ことば)をもって天地(てんち)(つく)り、その(ひと)つひとつを()て「()し」とされます。六日目(むいかめ)(かみ)は、(つく)ったもの(すべ)てを見渡(みわた)します。創世記(そうせいき)は、この眼差(まなざ)しに()()げられて()います、「()よ、それは(きわ)めて()かった」(1:31)。
この「()かった」とご(らん)(かみ)は、「(ひと)(ひと)りでいるのは()くない(2:8)」と()ます。(かみ)(ひと)アダムに()(たす)ける(もの)()れて()ます。ですが()(けもの)(そら)(とり)はそれに見合(みあ)いません。(かみ)はアダムのあばら(ぼね)一部(いちぶ)()()り、それで(おんな)(つく)()げます。(かみ)(おんな)()れて()ると、アダムは歓喜(かんき)します。「これこそわたしの(ほね)(ほね)、わたしの(にく)(にく)」。創世記(そうせいき)は「二人(ふたり)一体(いったい)となる(2:24)」と()い、(かみ)結婚(けっこん)秩序(ちつじょ)を「()し」とし、(あい)()二人(ふたり)(まじ)わりを(よろこ)んでいる、と()ます。
この、二人ふたり一体いったいとなるまじわりを、パウロはわたくしたちとキリストとのまじわりとしてます。つまりかみ十字架じゅうじかながされたキリストのによってわたくしたちをり、しゅであるキリストのしもべとして「し」としてくださる、とうのです。わたくしたちは復活ふっかつさせられたしゅからだ一部いちぶとなりしゅひとつとされます。わたくしたちは、復活ふっかつしゅからだかたむすばれるのであり、かみしゅ復活ふっかつさせたそのちからによって、わたくしたちをも復活ふっかつさせてくださいます(14)。
このご支配(しはい)がわたくしたちの(からだ)(まっと)うする()()(のぞ)む、礼拝(れいはい)(あゆ)みを(かみ)はお(あた)えになりました。パウロは「自分(じぶん)(からだ)(かみ)栄光(えいこう)(あらわ)しなさい」と()います。(しゅ)(からだ)一体(いったい)とされ、(しゅ)のものとしてこのお(かた)との(まじ)わりに()かされる礼拝(れいはい)(あゆ)みにこそ、わたくしたちを「()し」としておられる(かみ)栄光(えいこう)(うつ)()されます。(しゅ)であるキリストにお(つか)えし、(あい)(よろこ)びに()かされる教会(きょうかい)を、(かみ)はご自身(じしん)栄光(えいこう)のためお(もち)いくださるのです。

2018年1月14日日曜日

「不義を洗われる幸い」コリントの信徒への手紙一6:1-11

パウロは()います。「そもそも、あなたがたの(あいだ)裁判(さいばん)ざたがあること自体(じたい)(すで)にあなたがたの()けです。なぜ、むしろ不義(ふぎ)(あま)んじて()けないのです。なぜ、むしろ(うば)われるままでいないのです」。コリントの教会(きょうかい)(もの)たちの(あいだ)に、金銭(きんせん)(かか)わることで(あらそ)いがありました。「自分(じぶん)不当(ふとう)にも(そん)をしている」と、この兄弟(きょうだい)教会外(きょうかいがい)世俗(せぞく)裁判(さいばん)(うった)()ます。
わたくしたちは自分(じぶん)だけが(そん)したままであることを(のぞ)みません。(ほか)(ひと)同様(どうよう)(とく)をする権利(けんり)があり、それが()たされるのが(ただ)しいと(かんが)えます。しかしパウロは「不義(ふぎ)(あま)んじて()け、むしろ(うば)われるままでいろ」と()います。それは「(ただ)しくない(もの)(かみ)(くに)()()げない」からです。こちらも、そして相手(あいて)も、永遠(えいえん)(いのち)()()ぐため、相手(あいて)(おか)した不義(ふぎ)(ゆる)す。(ゆる)さないでおくことは、(ゆる)せない過去(かこ)(なか)相手(あいて)自分(じぶん)()()めます。永遠(えいえん)(いのち)()()げなくしてしまいます。
過去(かこ)自分(じぶん)()()め、(ほろ)びへと()かうのは(みじ)めだと(おも)います。ただ、わたくしたちにはこの自分(じぶん)(みじ)めさから()()(ちから)がありません。ですからパウロはこの()へと()()べられたキリストの()(あか)しし、わたくしたちが()ける洗礼(せんれい)()(しめ)します。「あなたがたの(なか)にはそのような(もの)もいました。しかし、(しゅ)イエス・キリストの()とわたしたちの(かみ)(れい)によって(あら)われ、(せい)なる(もの)とされ、()とされています」。ただキリストによって永遠(えいえん)(いのち)(まじ)わりへと()れられるのです。
(ゆる)さないでおくという不義(ふぎ)、これによる(みじ)めな自分(じぶん)を、キリストがその(じゅう)字架(じか)()によって(あら)ってくださいます。そうする(かみ)御心(みこころ)を、わたくしたちは洗礼(せんれい)(さず)かることでいただきます。このわたしがキリストによって(あら)われたこと、(せい)なる(かみ)のものとされたこと、よしとされたことを、()(かえ)聖餐(せいさん)(あずか)ることで(たし)かにします。わたくしたちは礼拝(れいはい)により、すべて(ほか)のものから()かれ、永遠(えいえん)(いのち)(まじ)わりに()れられた(よろこ)びに()きるのです。