2018年12月23日日曜日

「声を響かせ賛美せよ」エレミヤ書31:7-17

しゅイエスがベツレヘムで誕生たんじょうしたとき、おうヘロデはこのまち周辺一帯しゅうへんいったいにいる二歳にさい以下いかおとこたちを殺害さつがいします。幼子おさなごイエスはヨセフとマリアにれられさき避難ひなんしますが、このイエスが誕生たんじょうしたために、れぬ二歳にさい以下の男子だんし一人ひとりのこらずころされました。このときひびいたさけびを、マタイによる福音書ふくいんしょ預言者よげんしゃエレミヤがしるははラケルのさけびにかさねます。
「こうして、預言者よげんしゃエレミヤをとおしてわれていたことが実現じつげんした。「ラマでこえこえた。はげしくなげかなしむこえだ。ラケルは子供こどもたちのことでき、なぐさめてもらおうともしない、子供こどもたちがもういないから(2:18)」。エレミヤはしゅ言葉ことばとしてラケルのこえしめされます。ラケルの息子むすこたち、イスラエル・ユダがほろぼされ、とおくの国々くにぐにられるからです。しかししゅは「あなたのくるしみはむくいられる」とい、この息子むすこたちがかえってくることもあわせてげます。
マタイによる福音書ふくいんしょ男児殺害だんじさつがい事件じけんにエレミヤしょ実現じつげんます。それは、このとき誕生たんじょうした幼子おさなごイエスが、やはり「自分じぶんたみつみからすくう」メシア・キリストであったからです。だれからもかえりみられず、価値かちなく十字じゅうじんでいくほかなかったしゅイエス。このおかたかみから復活ふっかつさせ、れずころされていくほかなかったものさえかえってくることのできるところとして、かみはこの御子みこしめしてくださいました。ラケルのなみだをぬぐう御子みこ誕生たんじょうさせられたのです。
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このキリストの誕生たんじょうほししめされ、占星術せんせいじゅつ学者がくしゃたちが、まず御子みこキリストを礼拝れいはいしにやってきました。そして御子みこキリストのもとにたせていただく礼拝れいはいれぬ先人せんじんたちのとおして、わたくしたちのところまでとどけられてきました。じつに、御子みこキリストはわたくしたちがかえるところでありながら、このかたてくださるので、この御子みこのもとに礼拝れいはいし、てんちちなるかみさまのまえともたせていただくのぞんでまいるのです。

2018年12月16日日曜日

「わが子よと呼び出す神」ホセア書 11:1-11

「まだおさかったイスラエルをわたしはあいした。エジプトからかれし、わがとした」。ホセアしょ強調きょうちょうするのは、なにか「イスラエルがかみだったからしゅがエジプトからみちびした」のではないということです。そうではなく、幼子おさなごであったこの民をしゅあいし、エジプトの奴隷どれいいえからみちびしたから、「わたしのよ」とぶのです(出エジプト6:7)。
そしてマタイによる福音書ふくいんしょは、このようにしてしゅが「わたしのとした」出来事できごとを、幼子おさなごイエスのエジプトくだりにます。メシアとしてまれたイエスを、おうヘロデはころしにかかり、ヨセフはそののがれるため幼子おさなごとそのははれエジプトへのがれました(マタイ2:13-15)。こうるのは、エジプトからイスラエルをし、わがとしたかみが、十字架じゅうじかんだイエスを死者ししゃなかから復活ふっかつさせ、かみとしたからです。教会きょうかいはこのときまれたイエスをかみ告白こくはくします。
幼子おさなごイエスがかみであるのは、たん聖霊せいれいによっておとめマリアよりまれたからではありません。十字架じゅうじかんでほうむられたこのイエスを、死者ししゃなかからかみし、かみがわがとしてくださったからです。そこにしゅイエスをかみ告白こくはくする教会きょうかいのよってところがあります(ローマ1:4)。そしていまや、かみさまはわたくしたちをいたるほかないあゆみからし、かみイエスの十字架じゅうじかからの復活ふっかつあずからせ「かみ」とし、「わたしのよ」とけます。
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御子みこイエスがヨルダンがわでヨハネから洗礼せんれいけたときてんからこえひびききました。「これはわたしのあいする、わたしのこころかなもの」。この声を、わたくしたちも教会きょうかい洗礼せんれいけることでてんからかせていただきます。そしててんにいますしゅイエスがふたたますしゅはわたくしたちをとりこからし、かみとしてかおまえがらせてくださいます。その先取さきどりとして、しゅはわたくしたちを礼拝れいはいへとしておられるのです。