2017年11月26日日曜日

「救い主をいただこう」コリントの信徒への手紙一 4:6-13

(いま)(いま)までわたしたちは、()え、(かわ)き、()(もの)がなく、虐待(ぎゃくたい)され、()()せる(ところ)もなく、苦労(くろう)して自分(じぶん)()(かせ)いでいます。侮辱(ぶじょく)されては祝福(しゅくふく)し、迫害(はくがい)されては()(しの)び、ののしられては(やさ)しい言葉(ことば)(かえ)しています。(いま)(いた)るまで、わたしたちは()(くず)、すべてのものの(かす)とされています」。そうパウロは、使徒(しと)である自身(じしん)(あらわ)し、キリストの教会(きょうかい)(あゆ)みを()ます。
もしそうであるなら、わたくしたちは使徒(しと)のようになりたいと(おも)いませんし、キリストを(しん)じてそのような()()にあおうとは(ねが)わないでありましょう。(しん)じるゆえ(みじ)めな(おも)いをするのなら、自分(じぶん)にキリストなど必要(ひつよう)ありません。それよりも、自分(じぶん)主義(しゅぎ)主張(しゅちょう)(かな)(もの)同士(どうし)()()い、威勢(いせい)()いことを()って()勝手(かって)出来(でき)範囲(はんい)(ひろ)げられる(ほう)()いように()えます。このように()るコリントの(もの)たちに、しかしパウロは、キリストを(すく)(ぬし)として(あらた)めていただくよう(もと)めます。
(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだキリストによってわたくしたちを(すく)おうとしました。それは(ひと)()(おろ)かと()えます。ただ、わたくしたちは自分(じぶん)限界(げんかい)自力(じりき)()えられません。()(まえ)自分(じぶん)(あざむ)(ほか)ないほど、わたくしたちの知恵(ちえ)(ちから)(かぎ)りがあります。そしてわたくしたちは自分(じぶん)知恵(ちえ)においては、(つく)(ぬし)我々(われわれ)への(おも)いへと(いた)りません。「()()もせず、(みみ)()きもせず、(ひと)(こころ)(おも)()かびもしなかったことを、(かみ)御自分(ごじぶん)(あい)する(もの)たちに準備(じゅんび)された(2:9)」のです。
(かみ)さまは、(おろ)かにも十字架(じゅうじか)()んだキリストを、復活(ふっかつ)させました。そして()(くず)、すべてのものの(かす)とされたこの()をも、復活(ふっかつ)させてくださいます(6:14)。(かみ)はこの(ちから)によって教会(きょうかい)(おこ)しました。キリストをいただいた(たみ)教会(きょうかい)は、(やぶ)れを(かか)えながらも、この希望(きぼう)へと()かって(つね)(あら)たに()()がらされてきたのです。わたくしたちはこの礼拝(れいはい)(あゆ)みを、キリストの勝利(しょうり)(すべ)てにおいて(まっと)うされる()(いた)るまで(すす)めて(まい)ります。

2017年11月19日日曜日

「神に祝福されて生きる」コリントの信徒への手紙一4:1-5

パウロは()います、「わたしにとっては、あなたがたから(さば)かれようと、人間(にんげん)法廷(ほうてい)(さば)かれようと、(すこ)しも(もん)(だい)ではありません。わたしは、自分(じぶん)自分(じぶん)(さば)くことすらしません」と。わたくしたちはおよそ、(まわ)りの(ひと)から()()みして()られます。その評価(ひょうか)自分(じぶん)左右(さゆう)するかのように(おも)います。ですがパウロは、そのような(ひと)()が「(すこ)しも問題(もんだい)ではない」と()います。
それは、この自分(じぶん)をまことに()てくれている(かみ)がおられるからです。パウロはこの(かみ)眼差(まなざ)しに信頼(しんらい)し、これこそ大事(だいじ)()ます。人間(にんげん)(さば)きは(かみ)による(さば)きを左右(さゆう)しません。それは自分(じぶん)自分(じぶん)(さば)いてもそうです。たとえ自分(じぶん)(さば)いても、わたくしたちは自分(じぶん)(すく)うことはできません。「あれで()かったのだ」と自分(じぶん)説得(せっとく)しても、(なに)かあればすぐに(もと)自分(じぶん)へと()(もど)ります。一方(いっぽう)、「だからだめなのだ」と(さば)いても、それによって自分(じぶん)将来(しょうらい)(ひら)かれるわけでもありません。
パウロは、「わたしをさばくのはしゅなのです」とつべきところをしめし、しんじつをもってこのすくう、かみへの信頼しんらいあらわします。天地てんちつくぬしなるかみさまはご自身 じしん栄光えいこうをわたくしたちにあたえようと、はじまるまえにおさだめになりました(2:7)。このめられた計画けいかくかみさまはしゅイエス・キリストによりあきらかにしました。かみさまは十字架じゅうじかんだこの御子みこ復活ふっかつさせ、によってもえないちちとのまじわりをあらわにし、このまじわりへとわたくしたちをまねれます(1:9)。
(しゅ)イエス・キリストがこの(かみ)計画(けいかく)をわたくしたちの()(まっと)うしてくださいます。この(かみ)真実(しんじつ)(たい)し、忠実(ちゅうじつ)であることが(さいわ)いです。(かみ)がわたくしたちを祝福(しゅくふく)しているのに、そうではないと自分(じぶん)(さば)必要(ひつよう)はありません。むしろ、やがて(しゅ)()られるときに、(かみ)からおほめにあずかると信頼(しんらい)し、このお(かた)(みずか)らをなお(あけ)(わた)決断(けつだん)(たい)(せつ)です。(かみ)眼差(まなざ)しのもと、(かみ)との(まじ)わりを(たし)かにされてこそ、わたくしたちも(あら)たに()かされるからです。

2017年11月12日日曜日

「ここにしかない慰め」コリントの信徒への手紙一3:18-23


パウロは、「だれも自分(じぶん)(あざむ)いてはなりません」と()います。わたくしたちは、(いつわ)りと()りつつそれをわざわざ(しん)じ、それに自分(じぶん)()けようとは(おも)いません。ただ、空虚(くうきょ)()りつつも(ほか)(なぐさ)めを見出(みいだ)せないなら、たとえその言葉(ことば)根拠(こんきょ)がなくとも、()りすがるということがあります。わたくしたちも(みずか)らの()(まえ)に、自分(じぶん)(あざむ)くということがあるかもしれません。
そのわたくしたちに、「自分(じぶん)(あざむ)くな」とのパウロの言葉(ことば)(きび)しく()こえます。平時(へいじ)でもわたくしたちは、「これだけのことをしてきたのだから」と(なん)かしら過去(かこ)実績(じっせき)によって将来(しょうらい)()めつけることがあります。また一方(いっぽう)で、「もう、どうせ駄目(だめ)だ」と絶望(ぜつぼう)することがあります。「これだけしかできなかった」、「あんなことをしてしまった」、と将来(しょうらい)()ざす(おも)いの(うち)にふさぎ()んでしまいます。そのどちらについてもパウロは「あなたは自分(じぶん)(あざむ)いてはならない」と警告(けいこく)します。
そうパウロが()うのは、この()がそうではない事実(じじつ)(うち)()かれているからです。「すべては、あなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界(せかい)(せい)()も、今起(いまお)こっていることも将来(しょうらい)()こることも。一切(いっさい)はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは(かみ)のものなのです」。(しゅ)イエス・キリストこそ、わたくしたちを()から()()がらせることができるのであり、この(かた)においてわたくしたちは一切(いっさい)()たされ、(いま)不足(ふそく)()えたとしても十全(じゅうぜん)とされるのです。
この(いしずえ)である(しゅ)イエス・キリストを、(かみ)さまは()から復活(ふっかつ)させ(あらわ)してくださいました。キリストはこの(いしずえ)(うえ)にわたくしたちを()たせてくださいます。わたくしたちはこのキリストのものです。このお(かた)はわたくしたちを(まね)き、(いま)この()()たされる(いしずえ)を、礼拝(れいはい)によって(ふか)めて()()めさせてくださいます。キリストが万事(ばんじ)(えき)としてくださるので、わたくしたちは(みずか)らの()(せい)も、過去(かこ)将来(しょうらい)も、この(かた)()(すべ)てお(ゆだ)ねできるのです。

2017年11月5日日曜日

「神の喜びを知る幸い」ルカによる福音書10:21-24

(しゅ)イエスはヨルダン(がわ)上流(じょうりゅう)のガリラヤ地方(ちほう)活動(かつどう)しておられましたが、そこから一路(いちろ)(みやこ)エルサレムへと()かいます。(しゅ)イエスがエルサレムへと()かうのは十字架(じゅうじか)()()げるためです(9:22)。その(みち)すがらのこと、(しゅ)イエスは聖霊(せいれい)によって(よろこ)びにあふれ、(てん)(ちち)なる(かみ)さまを賛美(さんび)します。「天地(てんち)(しゅ)である(ちち)よ、あなたをほめたたえます」(21)。
天地(てんち)(しゅ)である(かみ)さまは、お(つく)りになった万物(ばんぶつ)をご(らん)になり「(きわ)めて()かった」と()(そそ)いでおられます(創世記1:31)。この眼差(まなざ)しがわたくしたち一人(ひとり)ひとりに(そそ)がれています。(かみ)さまはわたくしたちを()いものとしてお(つく)りになりました。たしかに、地上(ちじょう)(あゆ)みにおいてわたくしたちは(みずか)らの()けや(いた)らなさ、(かな)しみや(くる)しみを()います。これらに()ちのめされそうになることがあります。ときにわたくしたちは(かな)しみや(くる)しみの(なか)生涯(しょうがい)()えることさえあります。
それでもてんちちなるかみさまは、わたくしたちを「かった」とています。ならばかみさまはわたくしたちのかなしみやくるしみをらないのでしょうか。そうではありません。むしろそこにこそかみさまはご自身じしんよろこびをたしてくださいます。最後さいご最後さいごかみさまはわたくしたちをおつくりになったよろこびを、わたくしたちにまっとうしてくださるのです。わたくしたちがかなしみでわってしまったように見えても、ちちなるかみさまはご自身じしんよろこびをたすむかえさせてくださいます。
(かみ)さまは、ご自身(じしん)がそのようにわたくしたち一人(ひとり)ひとりを(あい)し、この()(すく)(かみ)であると(わたし)(しめ)すため、十字(じゅうじ)()()んだ御子(みこ)イエスを()から復活(ふっかつ)させました。(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)につけられる(とき)(おお)くの(もの)(なげ)(かな)しみました(23:27)。しかし()んだこの(かた)がそれで()わるのではなかったのです。(かみ)さまはこの御子(みこ)復活(ふっかつ)()げる礼拝(れいはい)により、わたくしたちを(すく)うという、ご自身(じしん)(よろこ)びにわたくしたちをも(あずか)らせてくださいます。