2017年10月29日日曜日

「喜びを土台とする家」コリントの信徒への手紙一 3:10-17

(しゅ)イエスがお()まれになる(まえ)(はは)マリアが(しゅ)イエスを()ごもった(とき)、み使(つか)いはマリアに()いました。「おめでとう、(めぐ)まれた(かた)(しゅ)があなたと(とも)におられる」(ルカ1:28)。み使(つか)いは、(かみ)さまの(よろこ)びがマリアに(はじ)められていることを()げます。(かみ)さまは、()まれてくる御子(みこ)によって一人(ひとり)ひとりを(せい)なるものとなさいます。(かみ)さまはそのことを(よろこ)んでおられるのです。
パウロは、この(よろこ)びに(つか)えるため、コリントに(しゅ)イエス・キリストを()(つた)えました。コリントの教会(きょうかい)はただ(かみ)(めぐ)みによって、キリストという土台(どだい)()えられ、ここに()()げられる(あゆ)みを(はじ)めました。コリントの教会(きょうかい)(かみ)(よろこ)びによって(はじ)められ、(かみ)(よろこ)びを土台(どだい)として()()げられて()くのです。そこではもはや、「わたしはパウロにつく」「わたしはアボロに」といった(べつ)土台(どだい)(うえ)()つものではありません。(かみ)(よろこ)びのもと(かみ)(れい)()神殿(しんでん)とされるのです。
(かみ)さまのこの(よろこ)びが、キリストの教会(きょうかい)(とお)してわたくしたち一人(ひとり)ひとりに()()されています。わたくしたちは、洗礼(せんれい)()けることにより、(しゅ)イエス・キリストを土台(どだい)として()えられます。(かみ)さまの(よろこ)びを土台(どだい)とし、(かみ)さまのものとして(せい)なるものとして()()げられてゆきます。たとえ、洗礼(せんれい)()けた(とき)にその(よろこ)びをまだ()らなかったとしても、(てん)においては(かみ)(よろこ)びが(ひび)いています(ルカ15:10)。(しゅ)イエスは、この(よろこ)びがこの()(まっと)うする()を、もたらしてくださいます。
パウロは、かの()には「その土台(どだい)(うえ)()てた仕事(しごと)(のこ)る」と()います。(かみ)洗礼(せんれい)により、もはや()()すことのない、()(とお)っても(ほろ)びぬ(よろこ)びをわたくしたちに()えます。この土台(どだい)(うえ)に、()をも()えてわたくしたちを()()がらすことを、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを()から復活(ふっかつ)させて(あき)らかにしました。この(よろこ)びを土台(どだい)とする(いえ)教会(きょうかい)に、具体的(ぐたいてき)人物(じんぶつ)(とお)して、(かみ)はわたくしたちを(まね)き、(とも)(よろこ)びに(あずか)らせてくださいます。

2017年10月22日日曜日

「成長させてくださる神」コリントの信徒への手紙一3:1-9

コリントの教会(きょうかい)には、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と()(もの)がいました。(とう)のパウロはこの()(しゅ)イエス・キリストを()()え、この()教会(きょうかい)創設(そうせつ)しました。また(おな)じく、(のち)にやって()たアポロは、(しん)じる(もの)たちを(たす)けました(使徒言行録18:27)。そこでパウロは確認(かくにん)します。「わたしは()え、アポロは(みず)(そそ)いだ。しかし、成長(せいちょう)させてくださったのは(かみ)です。ですから、大切(たいせつ)なのは、()える(もの)でも(みず)(そそ)(もの)でもなく、成長(せいちょう)させてくださる(かみ)です」。
(かみ)さまはわたくしたちに出会(であ)いを(あた)え、わたくしたちを成長(せいちょう)させます。わたくしたちは自分(じぶん)(こと)なる他者(たしゃ)()ることで、自分(じぶん)()世界(せかい)(あら)たにされます。他者(たしゃ)との出会(であ)いは、わたくしたちが()きる世界(せかい)(ひろ)げ、わたくしたちを(あら)たに()かします。その相手(あいて)がいない世界(せかい)()きてきたこれまでの自分(じぶん)から、この相手(あいて)がいる世界(せかい)()きる(もの)へと()えられます。
(かみ)さまはさらに、わたくしたちと出会(であ)うことでわたくしたちを成長(せいちょう)させます。(かみ)さまはわたくしたちを(あい)しています。(じつ)に、神など()らぬ(とき)からわたくしたちを(あい)していました。そしてわたくしたちの()をも()えて(あい)してくださいます。その(あかし)として、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ御子(みこ)イエス・キリストを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。()んだわたくしたちへと(いのち)()させるほどに、(かみ)さまはわたくしたちを(あい)しており、このご自身(じしん)()るよう、わたくしたちに(ねが)っておられます。
(かみ)さまは、ご自身(じしん)(あい)するということを()()れとして教会(きょうかい)()()げます。そこには様々(さまざま)背景(はいけい)()(もの)がおり、(しん)(かた)(ひと)それぞれです。むしろ色々(いろいろ)(もの)がキリストに(むす)ばれているので、教会(きょうかい)裾野(すその)はより(ひろ)くされるのです。わたくしたちを(あい)する(かみ)さまの()(ひろ)がりは、そのようにして、一人(ひとり)ひとりへと(とど)けられてゆきます。(かみ)さまはこの(かみ)()礼拝(れいはい)(とも)(あずか)らせ、(かみ)(あい)されて()きる(みち)をわたくしたちに()()しておられます。

2017年10月8日日曜日

「世界の始まる前からのもの」コリントの信徒への手紙一2:6-16

()どもは「()て、()て」と自分(じぶん)がすることを大人(おとな)()てくれるようせがみ、自分(じぶん)(あい)されているのを(たし)かめます。わたくしたちは自分(じぶん)()言葉(ことば)(ひろ)がりの(なか)()きますが、その(そと)にある言葉(ことば)から自分(じぶん)(みと)められ、()()れられたいと(ねが)います。(あい)するというのもそうです。自分(じぶん)(そと)にある、(あい)してくれる(もの)言葉(ことば)へと自分(じぶん)()()され、わたくしたちは(そと)にある言葉(ことば)との(まじ)わりに(あら)たに()かされます。
わたくしたちの言葉(ことば)には(かぎ)りがあります。言葉(ことば)限界(げんかい)はそのまま、(おも)いや(かんが)えの限界(げんかい)となります。自分(じぶん)(なに)(もの)であるかについてもそうです。わたくしたちは自分(じぶん)(なん)たるか、自分(じぶん)(ひょう)(げん)できる以上(いじょう)には()りません。たしかに、言葉(ことば)()(かさ)ねによって、(こと)()以上(いじょう)(なに)かを表現(ひょうげん)し、()()ることがあります。ただそれにも(かぎ)りがあります。わたくしたちは自分(じぶん)支配者(しはいしゃ)でありながらも、(かぎ)られた自分(じぶん)しか()()ず、理解(りかい)()ないでいるのです。
パウロは、この知恵ちえについて「このほろびゆく支配者しはいしゃたちの」といます。わたくしたちもそうでしょう。わたくしたちはみずからのほろびをえる言葉ことばちません。かぎりあるこの自分じぶん自分じぶんではえられない。わたくしたちはすべきこのへと、かみ言葉ことばあたえられるようもとめます。つくぬしがこのわたしをあいする言葉ことばを、きたいのです。そしてまさにこのわたしが聞くべく、かみ十字架じゅうじかんだ御子みこイエスを復活ふっかつさせ、そとからこえひびかせてくださいました。
パウロはこの言葉(ことば)を、「(かみ)がわたしたちに栄光(えいこう)(あた)えるために、世界(せかい)(はじ)まる(まえ)から(さだ)めておられたもの」と()います。()わることのない(かみ)言葉(ことば)が、(とど)けられました。「わたしの()よ」と()すべきこの()(かた)りかける(つく)(ぬし)がおられます。この(かみ)御声(みこえ)により、わたくしたちは()()えて(あい)され、(てん)(ちち)との(まじ)わりに()かされます。わたくしたちは礼拝(れいはい)(ごと)にこの言葉(ことば)()げられ、(そと)へと()()され、(ちち)なる(かみ)との(まじ)わりに(あら)たに()かされるのです。

2017年10月1日日曜日

「神の力による希望」コリントの信徒への手紙一 2:1-5

わたくしたちは、「(かみ)(しん)じる」と()場合(ばあい)には(なに)か、自分(じぶん)努力(どりょく)到達(とうたつ)せねばならぬ、そうすることを(もと)められる課題(かだい)のようなものと()()めるかもしれません。ですが聖書(せいしょ)がわたくしたちに(かみ)(しん)じるよう(もと)めるのは、(かみ)がこのわたしを(あい)し、()びかけているからです。わたくしたちを(ほろ)びから(すく)(かみ)がおられ、この(かみ)がわたくしたちに()びかけておられます。
(かみ)さまが、「わたしの()よ」とわたしを()びます。この()(ごえ)によって(かみ)(かお)(まえ)()つのが(さいわ)いです。礼拝(れいはい)はこの希望(きぼう)へとわたくしたちを(みちび)きます。もし、(なに)かこちらの努力(どりょく)によって(しん)じるなら、それは()きながらえる(うえ)(あゆ)みを(ととの)えるかもしれませんが、(つづ)けるにも(かぎ)りがあります。(あい)するものそうです。(みずか)らの都合(つごう)(あい)したり(あい)さなかったりするなら、そこでは自分(じぶん)(こえ)(したが)っているに()ぎません。まして()んだなら、努力(どりょく)して(しん)じたり(あい)したりする(ちから)もありません。

けれども、たとえ自分(じぶん)(こえ)(うしな)っても、なおわたくしたちを()()がらす(こえ)(ひび)きました。それが、(しゅ)イエス・キリストの復活(ふっかつ)出来事(できごと)です。()んだ(もの)にさえ、しかも(かみ)(のろ)われて()んだ(もの)にさえ、(てん)(ちち)なる(かみ)さまは()()けてくださり、(つく)(ぬし)なるご自身(じしん)の、(いのち)()させる(かみ)(こえ)(ひび)かせてくださいました(ガラテヤ3:13、申命記21:23)。(いま)(ちち)なる(かみ)さまは、御子(みこ)イエス・キリストの十字架(じゅうじか)()()(つた)え、御子(みこ)復活(ふっかつ)させたこの(こえ)をわたくしたちへと(とど)けます。
そしてこの(こえ)を、(かみ)さまはわたくしたちの()()えて(とど)けてくださいます。わたくしたちの(かお)(まえ)にあるのは、(ほろ)びの計画(けいかく)ではありません。(すく)いの計画(けいかく)(まえ)()らしています。(かみ)さまはこの(まじ)わりをわたくしたちの(あずか)るべき希望(きぼう)としてくださいました。(かみ)さまこそがご自身(じしん)(ちから)によってわたくしたちを(しん)じることへと()()がらせ、「わたしの()よ」と()びかけるご自身(じしん)との(まじ)わりに()れてくださいます。わたくしたちはこの(こえ)(したが)うのです。