2017年9月24日日曜日

「ただ神によって結ばれ」コリントの信徒への手紙一 1:26-31

パウロは(たし)かめるようにして()います。「兄弟(きょうだい)たち、あなたがたが()されたときのことを、(おも)()こしてみなさい。人間的(にんげんてき)()知恵(ちえ)のある(もの)(おお)かったわけではなく、能力(のうりょく)のある(もの)や、家柄(いえがら)のよい(もの)(おお)かったわけでもありません」。パウロは、(かみ)がわたくしたちを(あい)し、その(あふ)()(おも)いの(なか)へとわたくしたちが()れられてしまった事実(じじつ)へと()()けさせます。
(かみ)さまがわたくしたちを(あい)するのは、(なに)かこちらに知恵(ちえ)能力(のうりょく)やよい家柄(いえがら)があるからではありません。(かみ)さまの(まえ)()つにふさわしいと()える(かお)()つから()()れてくれるのではないのです。たしかに、人間同士(にんげんどうし)ではふさわしい格好(かっこう)言葉(ことば)()()いが(もと)められます。でも(かみ)さまとの(あいだ)には、(なん)らそのような(かお)(つく)必要(ひつよう)はありません。むしろキリストがわたくしたちの(かお)となって、何一(なにひと)()たないこのわたしを(かみ)さまの(まえ)()()がらせてくださいます。
はじめのひとアダムは、べるなとめいじられていたからってべたときひらけ、自分じぶんはだかであるとりました。いちじくのつづあわこしおおい、人目ひとめけます。しゅなるかみあるおとこえるとかくし、しゅなるかみかおけます。そうやってかみさまとのあいだへだてをもうけ、自分じぶんをそのかげかくしてしまう。そのアダムをしゅなるかみびます。「おまえはどこにいるのか」(創世記そうせいき3:9)。かみさまは何一なにひとたないアダムとのまじわりをもとめ、アダムをします。
(しゅ)なる(かみ)はアダムに(かわ)(ころも)(つく)って()せました。アダムに必要(ひつよう)なら、(かみ)さまがそれを(あた)えてくださいます。そしてわたくしたちにはキリストという(ころも)(あた)えてくださいます。キリストは何一(なにひと)()たないわたくしたちを、ご自身(じしん)(かお)をもって(かみ)(かお)(まえ)()()がらせてくださいます。この(かみ)との(まじ)わりが、すべてを()えて(あた)えられています。(かみ)はキリストを()から復活(ふっかつ)させ、()さえも()えて(むす)ばれる(かみ)(あい)(あき)らかにしてくださいました。

2017年9月17日日曜日

「あなたを救う神の力」コリントの信徒への手紙一1:18-25

パウロは()います。「十字架(じゅうじか)言葉(ことば)は、(ほろ)んでいく(もの)にとっては(おろ)かなものですが、わたしたち(すく)われる(もの)には(かみ)(ちから)です」。
これはわたくしたちが(ねが)うことに(はん)するかもしれませんが、わたくしたちは「わたしを(すく)(かみ)がおられる」と自分(じぶん)()りそこに(あら)たに(いのち)()ようとしながらも、しかし自分(じぶん)(がわ)からこの(かみ)()ることはかないません。
こちらからはかなわないので、(かみ)(がわ)からわたくしたちの(ほう)()らせてもらうのみです。わたくしたちの(がわ)から()ることができる(かみ)は、自分(じぶん)たちで(つく)()したものに()ぎません。(ひと)知恵(ちえ)において宗教(しゅうきょう)()ぶような(なに)ものかは偶像(ぐうぞう)(あが)める(ほか)ないのです。
もし()ることができたとしてもそれは、万物(ばんぶつ)根源(こんげん)に、()から(ゆう)()()した(つく)(ぬし)(かげ)()るくらいです。それがわたしを(すく)(かみ)としておられることを、わたくしたちは自分(じぶん)(がわ)から()ることはなおかないません。
わたくしたちは()んで()わる(いのち)()きる(ほか)なく、()(いた)絶望(ぜつぼう)から(のが)れる知恵(ちえ)()たないという現実(げんじつ)直面(ちょくめん)します。また、()たくないので、()すべき自分(じぶん)何者(なにもの)なのか()うことを()め、(あきら)めてしまいます。ただそれで、自分(じぶん)がなお(くる)しみながら()きていく理由(りゆう)価値(かち)がどこにあるでしょうか。
わたくしたちの(たましい)は、わたしを(すく)(かみ)(たし)かにおられることを()っています。この(かみ)が、(かみ)(ほう)からわたくしたちの(たましい)へと(かた)りかけてくださるのを(せつ)()(のぞ)んでいるのです。
パウロはそこで、十字架(じゅうじか)のキリストを()(しめ)します。(かず)ある十字架(じゅうじか)受刑者(じゅけいしゃ)(なか)でこの(かた)特別(とくべつ)なのは、この(かた)復活(ふっかつ)させられたからです。この(かた)十字架(じゅうじか)()へと(かみ)(かた)りかけました。わたくしたちの根源(こんげん)であり、()から(ゆう)()()した(つく)(ぬし)なる(かみ)言葉(ことば)(かた)られました。(ひと)知恵(ちえ)によっては(たっ)()ない、(かみ)からのわたくしたちへの言葉(ことば)(かた)られたのです。わたくしたちを(すく)(かみ)(ちから)がここに(しめ)された。わたくしたちはここに(いのち)()るのです。

2017年9月3日日曜日

「むなしくなることのない絆」コリントの信徒への手紙一 1:10-17

パウロがふたたびエフェソの(まち)滞在(たいざい)した(とき)のことです(使徒言行録第19章)。パウロは二年(にねん)そこにいましたが、コリントの(まち)からやってきたクロエの(いえ)の人たちから、コリントの教会(きょうかい)(もの)たちの様子(ようす)()きます。この(もの)たちが「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと()()っていた、というのです。
パウロは、コリントの教会(きょうかい)(もの)たちに()手紙(てがみ)(おく)ります。「兄弟(きょうだい)たち、わたしたちの(しゅ)イエス・キリストの()によってあなたがたに勧告(かんこく)します。(みな)勝手(かって)なことを()わず、(なか)たがいせず、(こころ)(ひと)つにし(おも)いを(ひと)つにして、(かた)(むす)()いなさい」。パウロはこの(もの)たちもまたキリストの()(かた)(むす)()わされていることを確認(かくにん)させます。この()において(かた)り、(こころ)(おも)いもキリストの()(むす)()わされた(もの)であるように。その(きずな)はむなしくなることはありません。


たしかに、パウロをはじめコリントの教会きょうかいものたちにも、具体的ぐたいてき人間にんげんによって洗礼せんれいさずけられました。けれどもそれは、しゅイエス・キリストにかたむすわされるため、このかた十字架じゅうじかへとかって、洗礼せんれいさずけられたのです。このおかたが、わたくしたちのけるべき十字架じゅうじかげてくださったのであり、そのひとつとされるため、しゅはわたくしたちのけるべき洗礼せんれいけてくださいました。わたくしたちはえてしゅイエスとかたむすわされています。

著名(ちょめい)有力(ゆうりょく)(だれ)かではなく、雄弁(ゆうべん)賜物(たまもの)(ゆた)かな(だれ)かでもなく、キリストの()(かた)(むす)ばれていることにこそ、希望(きぼう)があります。「(かみ)はキリストを(たか)()げ、あらゆる()にまさる()をお(あた)えになりました(フィリピ2:9)」。わたくしたちは、この(かた)によって(かみ)のものとされました。十字架(じゅうじか)()に、わたくしたちの洗礼(せんれい)()けてくれたこの(かた)が、わたくしたちを()から復活(ふっかつ)させ、(かみ)のものとして(あら)たに()かしてくださいます。