2017年7月30日日曜日

「神の子の死によって生きる」マタイによる福音書27:51-54

「わが(かみ)、わが(かみ)、なぜわたしをお見捨(みす)てになったのですか」。(しゅ)イエスはそう大声(おおごえ)(さけ)び、神不在(かみふざい)()()げました。しかしこの()(のち)地震(じしん)()こされ、岩岩(いわいわ)()け、いくつもの(はか)(くち)(ひら)きました。(ほうむ)られていた(せい)なる(もの)たちが復活(ふっかつ)させられ、エルサレムで(おお)くの(ひと)にその()(あらわ)します。神殿(しんでん)()(まく)(うえ)から(した)まで、()(ぷた)つに()けてしまいました。
(しゅ)イエスの()(たい)し、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)(ひかり)が、(はい)()んできています。(しゅ)イエスは、三日目(みっかめ)死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられました。しかしもう、この(しゅ)復活(ふっかつ)から()()(ひかり)が、(しゅ)()へと(はい)()んでいます。(いま)やマタイによる福音書(ふくいんしょ)()げます。「本当(ほんとう)に、この(ひと)(かみ)()だった」。この(かた)が、神不在(かみふざい)絶望(ぜつぼう)()()げてくださった。しかしもはや、この(かみ)()()によって、(かみ)不在(ふざい)()はなくなった。この()へと、(かみ)介入(かいにゅう)し、そこに(かみ)(とも)にいます宣言(せんげん)(ひび)かせたからです。
(しゅ)イエスはかねてより()っていました。「(おお)くの預言者(よげんしゃ)(ただ)しい(ひと)たちは、あなたがたが()ているものを()たかったが、()ることができず、あなたがたが()いているものを()きたかったが、()けなかったのである(13:17)」。人々(ひとびと)見捨(みす)て、(かみ)見捨(みす)てられ、ただ(ひと)()んだと(だれ)もが()(しゅ)イエスを、(かみ)死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。ここに、預言者(よげんしゃ)たちや(ただ)しい(ひと)たちが()たかったものを()る、()きたかったことを()(とき)(あた)えられたのです。

もはや、わたくしたちの()(たい)し、(しゅ)イエス・キリストは勝利(しょうり)してくださいました。(かみ)がおられない()を、(しゅ)イエスがもう()()ってくださったからです。この(かた)復活(ふっかつ)はその証拠(しょうこ)として(しめ)されています。わたくしたちの()は、(いま)(かみ)(とも)にいます()であり、(かみ)()()によって、(かみ)(とも)におられるという、わたくしたちの(あたら)しい(いのち)(はじ)まりました。(かみ)さまはわたくしたちにこの(ひかり)(とど)け、この(ひかり)()()只中(ただなか)(あゆ)ませておられるのです。

2017年7月23日日曜日

「見捨てられた神の子」マタイによる福音書 27:45-50

「わが(かみ)、わが(かみ)、なぜわたしをお見捨(みす)てになったのですか」。(しゅ)イエスはそう大声(おおごえ)(さけ)び、()んでゆきました。(しゅ)イエスはご自分(じぶん)(かみ)がお見捨(みす)てになったこと、(かみ)(とも)におられないことを(なげ)きながら()んでゆかれました。その(てん)において、(しゅ)イエスはご自身(じしん)(たい)しても、(かみ)(たい)しても、絶望(ぜつぼう)して()んでゆかれたのだ、と()うことができます。
マタイによる福音書(ふくいんしょ)はその全体(ぜんたい)(とお)して、インマヌエル「(かみ)我々(われわれ)(とも)におられる」ということを強調(きょうちょう)します。しかしこの(とき)(しゅ)イエスは(かみ)()なのに、(かみ)見捨(みす)てられました。(かみ)はどこにおられるというのでしょうか。マタイによる福音書(ふくいんしょ)()()であるわたくしたちに()います。そもそも、(かみ)(あい)する()見捨(みす)てるようなことをするものか。そんなのは、(かみ)ではないではないか。自分(じぶん)()十字架(じゅうじか)(ころ)されるままにする(かみ)なんて、(しん)じるに(あたい)しない。そう(おも)うかもしれません。
(しゅ)イエスが絶望(ぜつぼう)して()んでゆかれたということから(かんが)えさせられますのは、(かみ)(しん)じるわたくしたちもまた、(かみ)なき絶望(ぜつぼう)のうちに()ぬことがある、ということです。わたくしたちが(ねが)っている(とお)りに(かみ)(とも)におられるということなど、()(やぶ)られてしまう事態(じたい)に、わたくしたちは直面(ちょくめん)することがある、ということです。なぜ(かみ)(とも)におられるのに、こんな(わざわ)いが()りかかったのか。なぜ、(かみ)(しん)じながらも、自分(じぶん)だけがこんな(おも)いをしなくてはならないのか。

しかし(かみ)は、この(みずか)らの絶望(ぜつぼう)()えて、わたくしたちを()()こうから()かしてくださいます。そしてこの(みち)(すす)むのを、(しゅ)イエスが(ともな)ってくださいます。(かみ)なき絶望(ぜつぼう)()こうから、(かみ)(われ)らと(とも)にいます(みち)()げるため、(かみ)見捨(みす)てられて()んだ(しゅ)イエスを、(かみ)さまは復活(ふっかつ)させてくださいました。(かみ)はこの()らせをわたくしたちに()げ、わたくしたちが(いま)()()なかった、(みずか)らの絶望(ぜつぼう)()()かされる(いのち)(あずか)らせてくださるのです。

2017年7月9日日曜日

「多くの人のため流された血」マタイによる福音書27:11-26

総督(そうとく)ピラトは(しゅ)イエスに()います。「お前が、ユダヤ(じん)(おう)なのか」と。ですが、(しゅ)イエスは「それは、あなたが()っていることです」、と(こた)えるのみです。ピラトの面前(めんぜん)にやってきたこの(かた)がどなたかについては「(だれ)かがこう()っている」、という(はなし)ではありません。「あなたがどういうのか」が問題(もんだい)となります。この(かた)(たい)する、わたしの態度(たいど)問題(もんだい)となります。
(しゅ)イエスが(だま)ったままである一方(いっぽう)祭司長(さいしちょう)たちや長老(ちょうろう)たちは、ピラトになお(うった)(つづ)けます。(しゅ)イエスを死刑(しけい)にする判決(はんけつ)(くだ)してもらうためにです。ただ、(しゅ)イエスがこの(うった)えに(たい)反論(はんろん)もしないので、ピラトは(おどろ)きながら(しゅ)イエスに確認(かくにん)します。「あのようにお(まえ)不利(ふり)証言(しょうげん)をしているのに、()こえないのか」。不思議(ふしぎ)なことに、(しゅ)イエスは一言(ひとこと)もお(こた)えになりません。まるで、(ほふ)()()かれる小羊(こひつじ)のように物言(ものい)わず、(くち)(ひら)きませんでした。(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()なれます。
わたくしたちがせっしますひとたちは、言葉ことばにしなくともこちらにうでしょう。イエスがメシアなのか。すくぬしなのか。わたくしたちは「自分じぶんがそうしんじる」、とうことはできます。「あなたをもすくうメシアだ」とうこともできます。ただ、その本人ほんにんがこれを納得なっとくしないまま、自分じぶんっこにかかえた問題もんだいから自由じゆうとなるでしょうか。わたくしたちにはいやされないやまいまぬかれないがあるのであり、このかべえてかされるみちあゆんでいる、と本人ほんにん真心まごころからえるでしょうか。

わたくしたちは、その(ひと)たちの(かたわ)らにあって、()からの復活(ふっかつ)()かって()かされています。(しゅ)復活(ふっかつ)に、(かみ)さまはわたくしたちの()責任(せきにん)()(かみ)からの(こえ)(ひび)かせてくださいました。たしかになお、自分(じぶん)()っこに問題(もんだい)(かか)えます。しかし(かみ)(こえ)()き、(かか)えた問題(もんだい)から自由(じゆう)にされ、礼拝(れいはい)(ささ)げて(まい)るのです。(かみ)さまはわたくしたちをさえ(もち)いて、日々(ひび)(せっ)します(ひと)たちに(たい)し、その()っこにある問題(もんだい)()()える(みち)を、()()しています。

2017年7月2日日曜日

「損なった関係の代償」マタイによる福音書27:1-10

ユダは、(しゅ)イエスを()(わた)した代金(だいきん)である銀貨(ぎんか)三十(さんじゅう)(まい)を、祭司長(さいしちょう)たち(たみ)長老(ちょうろう)たちに(かえ)そうとします。「わたしは(つみ)のない(ひと)()()(わた)し、(つみ)(おか)しました」。ユダはこうして(しゅ)イエスを()(もど)し、(そこ)なった関係(かんけい)(つぐな)おうと(かんが)えます。また自分(じぶん)をも(つみ)(とりこ)から(はな)つことになると(おも)いました。しかし(かれ)らは「我々(われわれ)()ったことではない。お(まえ)問題(もんだい)だ」と退(しりぞ)けます。
ユダは神殿(しんでん)(たい)しても、銀貨(ぎんか)三十(さんじゅう)(まい)()()します。ただ、こののちユダが(くび)をつったということから(うかが)()れるのは、それらによってユダが(つみ)から(すく)われることはなかったということです。ユダもまた、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスによって、(かみ)さまの(まえ)()たされる必要(ひつよう)がありました。ユダを、(おか)した(つみ)から(すく)うことができるとすれば、それは最高法院(さいこうほういん)ではなく、神殿(しんでん)でもなく、十字架(じゅうじか)()んで()から復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエス・キリストに(ほか)ならなかったのです。
ユダは最後さいごまで、自分じぶんでこれをつぐな責任せきにんを、自分じぶんはたたさねばならない、と考えました。ユダは自分じぶんめ、自分じぶんつみさだめ、絶望ぜつぼうします。
わたくしたちが自分(じぶん)絶望(ぜつぼう)するのは、その(さき)(みち)がないからです。ならばその事態(じたい)解決(かいけつ)は、自分(じぶん)ではできません。()こうから、こちらへやってきてもらう(ほか)ありません。その、()()こうからわたくしたちへと(とど)けられた(みち)、わたくしたちを(つみ)から(すく)(かみ)言葉(ことば)を、(かみ)(しゅ)イエスを()から復活(ふっかつ)させ、(ひび)かせてくださいました。

(いま)(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)は、自分(じぶん)(つぐな)責任(せきにん)自分(じぶん)()()らねばならないという、律法(りっぽう)()わりを(しめ)します。(しゅ)イエスが、わたくしたちの(かか)える(つみ)(のろ)いも()も、十字架(じゅうじか)において(すべ)()()ってくださいました。(そこ)なった関係(かんけい)代償(だいしょう)()たすという責任(せきにん)(しゅ)()()ってくださいます。この(かた)が、わたくしたちのなすべき(つぐな)いを(すべ)()たしたのであり、この(しゅ)(すべ)てこの()をお(ゆだ)ねすることのできる(みち)を、(かみ)はわたくしたちに(そな)えたのです。