2017年6月25日日曜日

「もう逃げなくともよい」マタイによる福音書26:69-75


ペトロは、ガリラヤの(みずうみ)(あみ)()漁師(りょうし)でした。しかし「わたしについて()なさい」と(しゅ)イエスに()われ、(あみ)()てて(しゅ)イエスに(したが)います。ペトロは自分(じぶん)(りょう)をして自分(じぶん)()たせるということをやめてしまいました。そして、(しゅ)イエスによってこの()()たせてもらうことへと、一歩(いっぽ)()()します。ただ(しゅ)イエスによって自分(じぶん)(かみ)(まえ)()たせていただくのです。
ですがこの(とき)ペトロは、不意(ふい)女中(じょちゅう)から(かお)見破(みやぶ)られ、(しゅ)イエスのことを()らない、と三度(みたび)()ってしまいます。ペトロは(しゅ)イエスを裏切(うらぎ)ります。これまでペトロは、(しゅ)イエスが()らえられても(つまず)かず、()ぬまで(あと)()(したが)うことができる、と(おも)いました。それがペトロにとって(かみ)(まえ)にあるべき姿(すがた)であり、そこに()てると(おも)いました。しかし、そうではなかった。ペトロは面目(めんぼく)(うしな)います。ペトロは人々(ひとびと)(まえ)にも、(しゅ)イエスの(まえ)にも、(かみ)(まえ)にも、もはや()(かお)()ちません。
なおそこでペトロは、自分(じぶん)自分(じぶん)()たせねばならないのでしょうか。もしそうなら、ペトロはもはや()てません。そして(じつ)のところ、ペトロがこれまで()たせていたのは、(しゅ)イエスであったのです。(かれ)がよく頑張(がんば)ったからとか、努力(どりょく)したからとか、それによってペトロが自分(じぶん)()ってきたのではないのです。(たし)かに(しゅ)イエスはペトロの頑張(がんば)りも努力(どりょく)(もち)います。しかしそれによって(かみ)(まえ)にも(ひと)(まえ)にも()てたわけではない。(しゅ)イエスがペトロをこれまでも()ててこられました。
(しゅ)イエスこそが、(かみ)(まえ)にわたくしたちを()たせます。この(かた)によって、わたくしたちは(かみ)(まえ)()(かお)()ちうるのです。(しゅ)イエスは、自分(じぶん)自分(じぶん)()たせねばならぬという(とら)われから、この()()きます。ペトロのような失敗(しっぱい)自分(じぶん)()めてやまぬ過去(かこ)(おこな)いからもう()げなくともよいのは、もはや、自分(じぶん)()たせるとすれば、それは復活(ふっかつ)(しゅ)イエスの(ほか)にないからです。そして、この復活(ふっかつ)(しゅ)イエスがペトロを()()がらせたのです。

2017年6月18日日曜日

「あなたが新たにされるとき」マタイによる福音書26:57-68

大祭司だいさいしカイアファはしゅイエスにいます、「おまえかみ、メシアなのか」。しゅイエスは、「それは、あなたがったことです」とこたえ、うたカイアファがしゅイエスを何者なにものうのか、ぎゃくいます。カイアファにとりまえのイエスは、ここでさばかれ、死刑しけいにされてわるほかありません。メシアとしてかみみぎすわりやがててんくもってるなどかんがえられません。
けれども、全能(ぜんのう)(かみ)さまがこの(かた)をそうするという結末(けつまつ)を、(かみ)さまは(しゅ)イエスを十字架(じゅうじか)()から復活(ふっかつ)させて(はじ)めてくださいました。わたくしたちは(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)から、この(かた)自分(じぶん)のメシアであること、この(かた)(かみ)(みぎ)(すわ)り、やがて(てん)(くも)()って()るまことの(さば)(ぬし)であることを()き、ここに(かみ)希望(きぼう)をわたくしたちのため(そな)えたと(しん)じます。わたくしたちが()ていた(みずか)らの結末(けつまつ)希望(きぼう)(うしな)って()わる(ほか)なかったはずでしたが、(かみ)においてはそうではなかったのです。

わたくしたちは、自分(じぶん)がどうせこんなものでしかない、と自分(じぶん)結末(けつまつ)()めつけることがあります。その、(いま)ある自分(じぶん)でいられるための目的(もくてき)にしか()きられず()じこもることがあります。大祭司(だいさいし)カイアファはむしろ自分(じぶん)過信(かしん)したようですが、もし(かれ)()結末(けつまつ)(すべ)てなら、復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスの(まえ)(かれ)はなお()きる(みち)()ちません。(かれ)(しゅ)イエスが三日目(みっかめ)復活(ふっかつ)させられた事実(じじつ)(かく)し、(かみ)(はじ)めた(あら)たな結末(けつまつ)(みと)めず、自分(じぶん)のままでいられる(みち)()こうとします(28:12)。
わたくしたちは(つく)(ぬし)によって(はじ)められました。そのわたくしたちの結末(けつまつ)はこの(かみ)()(なか)にあります。この結末(けつまつ)は、わたくしたちが()ている結末(けつまつ)()(やぶ)り、(あら)たにします。このため(かみ)はわたくしたちを礼拝(れいはい)(まね)き、御子(みこ)復活(ふっかつ)()()らせてくださいました。この結末(けつまつ)(あた)える(しゅ)がおられ、このご支配(しはい)のもと、わたくしたちは(ゆだ)ねられた地上(ちじょう)(はたら)きに(はげ)みます。わたくしたちはこの()(あら)たに()かす、(つく)(ぬし)(こえ)()(したが)って(まい)るのです。

2017年6月11日日曜日

「この身に行われる神の御心」マタイによる福音書26:36-56

十字架(じゅうじか)()(まえ)にした(しゅ)イエスはゲツセマネという(ところ)(かな)しみもだえて(いの)ります。「(ちち)よ、できることなら、この(さかずき)をわたしから()()らせてください。しかし、わたしの(ねが)いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」。(しゅ)イエスはなおも(いの)ります。「(ちち)よ、わたしが()まないかぎりこの(さかずき)()()らないのでしたら、あなたの御心(みこころ)(おこな)われますように」。
(しゅ)イエスが(いの)っても、(かみ)さまは(こた)えてくれません。なぜ(かみ)はこの(さかずき)()()らせないのか。なぜ十字架(じゅうじか)自分(じぶん)()なねばならないのか。(かみ)沈黙(ちんもく)しています。(しゅ)イエスはひれ()します。わたくしたちも、(いの)っても(かみ)から(こた)えを()ないことがあります。そこにおいて「見捨(みす)てられた」「(かみ)などいない」という(おも)いになります。だからといってそれで()てるかといえば、むしろ絶望(ぜつぼう)()かって(あきら)めるほかないように(おも)います。(しゅ)イエスはこの絶望(ぜつぼう)(にな)い、そして十字架(じゅうじか)()にました。
しかししゅイエスはから復活ふっかつさせられました。かみしゅイエスを復活ふっかつさせ、沈黙ちんもくやぶったのです。しゅイエスはかみがおられないげましたが、かみはこのにまでりてくださいました。にまでりたかみが、このおかた復活ふっかつさせてくださいました。そしてわたくしたちのさきになお、かみ我々われわれともにいます(インマヌエル)というまじわりをあたえる、かみ御心みこころあかししてくださったのです。この御心みこころをわたくしたちに実現じつげんすべく、しゅイエス・キリストの復活ふっかつらされました。

わたくしたちは()すべき自分(じぶん)()()わされ、その意味(いみ)見出(みいだ)せず、なぜこのような()自分(じぶん)(むか)えなければならないのか、(いの)っても(こた)えを()ないまま()なねばならないかもしれません。けれども、もはやわたくしたちは(かみ)がおられない()ではなく、(かみ)(とも)にいます事実(じじつ)()かう()(むか)えるのです。(しゅ)イエスは、(かみ)不在(ふざい)()という(さかずき)()みました。これにより、(かみ)がおられない()はわたくしたちから()()らせられたのです。

2017年6月4日日曜日

「人を立ち上がらす言葉」マタイによる福音書26:17-35

弟子(でし)たちは、「たとえ、御一緒(ごいっしょ)()なねばならなくなっても、あなたのことを()らないなどとは(けっ)して(もう)しません」と()いますが、(しゅ)イエスが()らえられると、(みな)(しゅ)イエスを見捨(みす)てて()げてしまいました(26:56)。弟子(でし)たちは(しゅ)イエスとの関係(かんけい)(そこ)ない、(やぶ)れを(かか)えたままです。そのまま(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()(わた)され()んでしまいました。
(しゅ)イエスが()んでしまいましたから、もう、弟子(でし)たちは関係(かんけい)修復(しゅうふく)することがかないません。(しゅ)見捨(みす)て、()らないと公言(こうげん)した(かれ)らは、(ひと)(まえ)にも(かみ)(まえ)にも()()ません。そこでたどり()くのは、「もうだめだ」というところです。けれどもこの弟子(でし)たちに(しゅ)イエスは約束(やくそく)しました。「わたしは復活(ふっかつ)した(のち)、あなたがたより(さき)にガリラヤへ()く」。(しゅ)イエスはなお弟子(でし)たちを見捨(みす)てません。ご自身(じしん)復活(ふっかつ)させられた(のち)には、この弟子(でし)たちに()いに()く、と約束(やくそく)します。
弟子でしたちがしゅイエスを裏切うらぎることになったこのばんしゅイエスは特別とくべつ食卓しょくたくをもって弟子でしたちにげておきました。「ってべなさい。これはわたしのからだである」。「みな、このさかずきからみなさい。これは、つみゆるされるように、おおくのひとのためにながされるわたしの契約けいやくである」。しゅイエスはパンをさかずきあずからせ、ご自身じしん十字架じゅうじかをもってわたくしたちのいのち責任せきにんうという決意けついあらわします。もはやなくなるこのいのち責任せきにんうと宣言せんげんするのです。

十字架(じゅうじか)()から三日目(みっかめ)復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスは弟子(でし)たちに出会(であ)ってくださいました。それから五十日目(ごじゅうにちめ)弟子(でし)たちは聖霊(せいれい)(あた)えられ、(しゅ)イエスの()復活(ふっかつ)が、自分(じぶん)とすべての(たみ)(ため)だと()ります。(いま)(かみ)(まね)かれたわたくしたちの(まえ)にあるのは、この()()から復活(ふっかつ)させる(かみ)言葉(ことば)です。(しゅ)聖霊(せいれい)(あた)え、この実現(じつげん)()けわたくしたちを(あら)たに()()がらせます。(しゅ)イエスは()すべきわたくしたちの責任(せきにん)()()ってくださるというのです。