2017年4月30日日曜日

「帰って来た主人」マタイによる福音書24:45-51

わたくしたちにとって一番(いちばん)(さいわ)いは、(かみ)(かお)(まえ)にあって眼差(まなざ)しを(そそ)がれ、その(こえ)()くことです。(しゅ)イエスは()います。「主人(しゅじん)がその(いえ)使用人(しようにん)たちの(うえ)()てて、時間(じかん)どおり(かれ)らに食事(しょくじ)(あた)えさせることにした忠実(ちゅうじつ)(かしこ)(しもべ)は、いったいだれであろうか。主人(しゅじん)(かえ)って()たとき、()われたとおりにしているのを()られる(しもべ)(さいわ)いである」。
はじめの(ひと)アダムは、(かみ)(かお)(まえ)()きる(さいわ)いを(いただ)いてきました。けれども(へび)(そそのか)されたとき、アダムは自分(じぶん)(そそ)がれている(かみ)眼差(まなざ)しを見失(みうしな)います。アダムは、()って()べるなと(かみ)()われていた()から()()って()べてしまいました。すると、やって()(かみ)足音(あしおと)(おそ)ろしくなり、アダムは(かみ)(かお)()けて()()(かく)れます。(かみ)はそのアダムをなお()びご自身(じしん)(かお)(まえ)におらせます。「お(まえ)はどこにいるのか」。(かく)れたアダムにも(かみ)眼差(まなざ)しはなお(そそ)がれていました。
(しゅ)イエスは()います。(あく)(しもべ)が、主人(しゅじん)(おそ)いと(おも)い、仲間(なかま)(なぐ)(はじ)め、酒飲(さけの)みどもと一緒(いっしょ)()べたり()んだりしていると、(おも)いがけない(とき)(かえ)って()主人(しゅじん)(はげ)しく(ばっ)せられる。この(しもべ)は、主人(しゅじん)(かえ)って()るまで主人(しゅじん)眼差(まなざ)しを見失(みうしな)います。しかし、主人(しゅじん)眼差(まなざ)しのもと、時間(じかん)どおり(しもべ)使用人(しようにん)たちに食事(しょくじ)を与えることが(さいわ)いです。使用人(しようにん)にも仲間(なかま)にとっても、主人(しゅじん)眼差(まなざ)しのもとにあるのが、(さいわ)いです。主人(しゅじん)不在(ふざい)(とき)もこの眼差(まなざ)しを(とど)けるよう(しもべ)()いつけたのです。

(しゅ)イエスは(かみ)眼差(まなざ)しのもとにわたくしたちを(まね)きます。この(かみ)はわたくしたちの(つく)(ぬし)です。(つく)(ぬし)(かお)(まえ)眼差(まなざ)しを(そそ)がれ、その(こえ)によって、わたくしたちは()かされます。そのようにしてわたくしたちは(せい)(あた)えられたのであり、()んだわたくしたちさえも、この()(ごえ)によって()かします。(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させてくださいました。死者(ししゃ)(なか)にまで(かみ)眼差(まなざ)しは(そそ)がれ、その(こえ)はわたくしたちに(いのち)()させるのです。

2017年4月23日日曜日

「滅びない神の言葉に聴く」マタイによる福音書24:32-44

(なつ)(なつ)からやって()ます。(はる)(なつ)をもたらす、というよりは、(なつ)(なつ)から(ちか)づいてくるのです。(おな)じようにして(しゅ)イエスは()います。「天地(てんち)(ほろ)びるが、わたしの言葉(ことば)(けっ)して(ほろ)びない」。わたくしたちが()きる時代(じだい)生涯(しょうがい)はいつか(ほろ)びます。(ひと)()ぬことを(まぬか)()ないからです。そのわたくしたちに(しゅ)イエスは()います。「わたしの(こと)()(けっ)して(ほろ)びない」。
(ほろ)びる」と(やく)された言葉(ことば)は「()()る」とも(やく)されます(26:39)。(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)言葉(ことば)(けっ)して()()ってはしまわない、つまりどこまでも意味(いみ)()つ、と()います。最後(さいご)()(のこ)るのはこの(かみ)言葉(ことば)であるからです。(ほろ)びることのない(かみ)言葉(ことば)()()ることのない(かみ)言葉(ことば)が、(ほろ)びてしまう、()()ってしまうわたくしたちに(かた)られていることが(さいわ)いです。この言葉(ことば)は、たとえわたくしたちが(ほろ)びても、()()っても、その支配(しはい)(おわ)わらないからです。
(けっ)して(ほろ)びない(かみ)言葉(ことば)(けっ)して()()らない(しゅ)イエスの言葉(ことば)が、わたくしたち(ほろ)びゆく(もの)(かた)られました。(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()んでしまった(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)において、(けっ)して(ほろ)びることのないご自身(じしん)(あらわ)し、そのご支配(しはい)(あき)らかにしてくださいました。(かみ)さまは(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させることをもって、わたくしたちの()勝利(しょうり)する、(ほろ)びない(かみ)言葉(ことば)(かた)ってくださったのです。この言葉(ことば)()()ることがありません。
(ほろ)びない(かみ)言葉(ことば)がわたくしたちへとやって()ました。(ほろ)びない(かみ)(くに)のご支配(しはい)が、()んで(おわ)わってしまう()へと介入(かいにゅう)して()たのです。復活(ふっかつ)(しゅ)は、やがてこの(かた)(ふたた)到来(とうらい)するその()先駆(さきが)けとしてやって()ました。たとえ天地(てんち)()()っても、()()ることのないこの(かみ)言葉(ことば)によってすべてが()たされます。わたくしたちは礼拝(れいはい)においてこの(かみ)言葉(ことば)()き、とこしえに君臨(くんりん)してくださるわたくしたちの(しゅ)到来(とうらい)()(のぞ)むのです。

2017年4月16日日曜日

「キリストの復活に続いて」マタイによる福音書28:16-20

(しゅ)イエスは、弟子(でし)たちに指示(しじ)しておいたガリラヤの(やま)で、復活(ふっかつ)させられたご自身(じしん)十一(じゅういち)(にん)(あら)わし、(めい)じました。「すべての(たみ)をわたしの弟子(でし)にしなさい」。ですが、「弟子(でし)にしなさい」と(めい)じられたこの十一(じゅういち)(にん)こそ、そうしていただく必要(ひつよう)がありました。(しゅ)イエスが()らえられたとき、弟子(でし)たちは(みな)(しゅ)イエスを見捨(みす)てて()げてしまったからです(26:56)。
(しゅ)イエスを裏切(うらぎ)り、しかしそれで()てる(ところ)もありませんでした。ですが、(だれ)にも()わせる(かお)()たない弟子(でし)たちを、(しゅ)イエスは見捨(みす)てずなお()()れます。この(かた)がインマヌエル「(かみ)我々(われわれ)(とも)にいます」お(かた)だからです。死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)(つづ)弟子(でし)として、この十一(じゅういち)(にん)(あら)たに()()がらせます。弟子(でし)たちは(しゅ)イエスの言葉(ことば)(したが)い、すべての(たみ)をインマヌエルの現実(げんじつ)(あずか)らせるため、(かみ)(くに)のご支配(しはい)()(つた)える(あゆ)みを(あら)(はじ)めます。
しゅイエスの復活ふっかつは、弟子でしたちが絶望ぜつぼうからがらされた出来事できごとですから、それ自体じたい弟子でしたちにとってなお信頼しんらいるかどうかが深刻しんこくいとなります。うたがかかえつつ、しかしこの一点いってんにおいて、弟子でしたちはなおがらされます。それは絶望ぜつぼうなかからそとへとされる出来事できごととなりました。なにもかもうしなった弟子でしたちにとり、そのかみくにのご支配しはいたされるはじまりとなったのです。
「わたしは(てん)()一切(いっさい)権能(けんのう)(さず)かっている」と(しゅ)イエスは()います。弟子(でし)たちにとってこれは、自分(じぶん)(かみ)(まえ)になおこれから()一切(いっさい)根拠(こんきょ)を、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()くことに(ほか)なりません。その弟子(でし)たちの(あゆ)みを、復活(ふっかつ)(しゅ)(はじ)めさせてくださいました。(しゅ)は、(うたが)いを(かか)えるわたくしたちをもこの()らせの(まえ)(みちび)き、「(かみ)我々(われわれ)(とも)にいます」現実(げんじつ)(あずか)らせてくださいます。(しゅ)イエス・キリストの復活(ふっかつ)(つづ)き、(かみ)(くに)のご支配(しはい)()ちる弟子(でし)として、わたくしたちを(あら)たに()()がらせてくださるのです。