2017年3月26日日曜日

「神による救いの歴史」マタイによる福音書22:41-46

(しゅ)イエスは、()()()って相談(そうだん)していたファリサイ()(ひと)たちのところへ(かお)()して(たず)ねます。「あなたたちはメシアのことをどう(おも)うか。だれの()だろうか」。(かれ)らは()います。「ダビデの()です」。そこで(しゅ)イエスは()(へん)(だい)110(へん)()いてきて()います。ダビデが聖霊(せいれい)()けてメシアを(しゅ)()んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの()なのか。
天地(てんち)万物(ばんぶつ)()から(つく)った(かみ)さまは、お(つく)りになったわたくしたちに(たい)(ほう)って()かれるのではありません。わたくしたちの()()んでわたくしたちをご自身(じしん)(とも)におらせます。ただ、この(つく)(ぬし)(つく)られた世界(せかい)にご自身(じしん)(しめ)すため、特定(とくてい)(もの)へと介入(かいにゅう)することが(ともな)います。(かみ)さまは(えら)んだ(もの)にご自身(じしん)(あらわ)し、そこからご自身(じしん)()()らせるのです。そのため(かみ)さまはアブラハムを(えら)び、ダビデを(えら)びました。ダビデの子孫(しそん)からメシアが(あらわ)れる、と人々(ひとびと)(かんが)えました。




(しゅ)イエスは、わたくしたちが聖霊(せいれい)()けて(しゅ)イエスをメシア・キリストと告白(こくはく)し、()(すく)(かみ)歴史(れきし)参与(さんよ)するよう(のぞ)んでおられます。(かみ)がわたしを(すく)うのは家系(かけい)によるのではなく、(かみ)がわたしを(えら)ぶことによるからです。このために(かみ)家系(かけい)(もち)いることがあります。そしてわたくしたちが(かみ)(すく)いの歴史(れきし)(くわ)えられて()るのは、わたくしたちに(あた)えられた系図(けいず)意外(いがい)にもこの歴史(れきし)へと(いた)るものであったということです。マタイによる福音書(ふくいんしょ)(だい)(しょう)系図(けいず)はこれを(あらわ)しています。

家系(かけい)によらず聖霊(せいれい)によって(かみ)(えら)びに(あずか)らせる、(かみ)(すく)いの歴史(れきし)(あら)たに(はじ)まります。(かみ)十字架(じゅうじか)()んだイエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させ、この(かた)がわたくしたちの(しゅ)メシアであると(あかし)しました(使徒言行録2:36)。この(あかし)()()らす(たみ)(かみ)聖霊(せいれい)によって(おこ)し、わたくしたちの()()んで礼拝(れいはい)へと(まね)き、この(たみ)(あゆ)みにわたくしたちをも(くわ)えます。わたくしたちの(つく)(ぬし)は、なお新たにわたくしたちをご自身(じしん)(とも)におらせたいのです。

2017年3月19日日曜日

「神を愛し隣人を愛す」マタイによる福音書22:33-40

(しゅ)イエスのもとに()律法(りっぽう)専門(せんもん)()(たず)ねました。「律法(りっぽう)(なか)で、どの(おきて)(もっと)重要(じゅうよう)でしょうか」。(しゅ)イエスは()います。「『(こころ)()くし、精神(せいしん)()くし、(おも)いを()くして、あなたの(かみ)である(しゅ)(あい)しなさい』。これが(もっと)重要(じゅうよう)第一(だいいち)(おきて)である。第二(だいに)も、これと(おな)じように重要(じゅうよう)である。『(りん)(じん)自分(じぶん)のように(あい)しなさい』」。
これは十戒(じっかい)要約(ようやく)であり律法(りっぽう)(ちゅう)(しん)ですが、(しゅ)イエスは(なに)かわたくしたちが前提(ぜんてい)なしに「(かみ)(あい)隣人(りんじん)(あい)しなさい」とは()いません。十戒(じっかい)先立(さきだ)(かみ)はご自分(じぶん)(たみ)(すく)った事実(じじつ)(しめ)します。「わたしは(しゅ)、あなたの(かみ)、あなたをエジプトの(くに)奴隷(どれい)(いえ)から(みちび)()した(かみ)である(出エジプト20:1)」。(かみ)こそが、わたくしたちに()()め、わたくしたちの(さけ)びを()き、わたくしたちを(あい)()()れてくださいます。(かみ)(あい)しておられるからこそ、わたくしたちにとってこの(おきて)重要(じゅうよう)だ、と(しゅ)イエスは()います。
(かみ)こそが、どこまでもわたくしたちを(あい)してくださいます。このお(かた)はわたくしたちが()(まえ)にしても、(あい)()()れてくださいます。わたくしたちは(あい)する(もの)()(まえ)にして、その(ひと)(むす)んだ()をいつか(はな)さなくてはなりません。しかし、(かみ)はこの()(はな)すことがありません。この(かみ)は、()にゆくわたくしたちをなお(あい)()()れる、永遠(えいえん)(ちち)です。この約束(やくそく)を、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを()から復活(ふっかつ)させて(あき)らかにしました。わたくしたちは()()えて(まじ)わる約束(やくそく)(いただ)くのです。

律法(りっぽう)は、(なに)かわたくしたちが(まも)らねば(すく)ってくれないかのような条件(じょうけん)ではありません。(しゅ)イエスが()げた(ふた)つの(おきて)は、むしろ復活(ふっかつ)(しゅ)イエスがわたくしたちをここへと(みちび)希望(きぼう)です。(いま)や、わたくしたちが()んでもこの実現(じつげん)へと()()がらせられる希望(きぼう)として、わたくしたちに(しめ)されています。わたくしたちを(あい)する神は、わたくしたちの隣人(りんじん)をも()()れてくださいます。この(かみ)にわたくしたちは信頼(しんらい)して()いのです。

2017年3月12日日曜日

「死人の復活」マタイによる福音書22:23-33

サドカイ()(ひと)たちは、死人(しにん)復活(ふっかつ)などないという主張(しゅちょう)(ただ)しさを(しゅ)イエスに(みと)めさせようとして()います。長男(ちょうなん)(つま)をめとったが息子(むすこ)()ないまま()んだ。次男(じなん)長男(ちょうなん)跡継(あとつ)ぎを(のこ)すためこの(つま)をめとったが、()ないまま()んだ。とうとう、七男(しちなん)までもこの(つま)をめとりながら()ずに()んだ。そしてこの(つま)()んだのだが、復活(ふっかつ)()には一体(いったい)(だれ)がこの(つま)をめとるのか。
(しゅ)イエスは()います。復活(ふっかつ)(とき)には、めとることも(とつ)ぐこともない。だから心配(しんぱい)はないのです。そしてサドカイ()(ひと)たちも(みと)める聖書(せいしょ)言葉(ことば)に、すでに死人(しにん)復活(ふっかつ)について(かみ)()われたところがあると指摘(してき)します。(かみ)はモーセにご自身(じしん)(あらわ)すにあたり、「わたしはアブラハムの(かみ)、イサクの(かみ)、ヤコブの(かみ)である」と名乗(なの)りました。そこで父祖(ふそ)たちの()は、(かみ)(まえ)になお()かされる(もの)として()げられたのであり、「(かみ)()んだ(もの)(かみ)ではなく、()きている(もの)(かみ)なのだ」と()うのです。
モーセにとって当時とうじアブラハムやイサクやヤコブは、んでしまった父祖ふそです。ですがしゅイエスは、この父祖ふそたちもかみまえにあってはきているといます。かみさまはんだものをも、そのびご自身じしんまえかしておられる。いまだそうではないときなかにあるわたくしたちにとってこのものたちは死人しにんほかなりませんが、かみさまにおいては、このものたちがきている。そしてこのきているものたちのかみとしてかみはご自身じしんをモーセにあらわした。そうしゅイエスはうのです。

(かみ)さまはわたくしたちの()()んで、わたくしたちを()から(いのち)へと()かします。この(かた)天地万物(てんちばんぶつ)(つく)(ぬし)であり、この(かた)がわたくしたちを(つく)ってくださいました。そして()んだわたくしたちが(かみ)(まえ)()かされるため、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させ、この(かみ)(ちから)をわたくしたちに()げておられます。わたくしたちを礼拝(れいはい)へと(まね)(かみ)は、わたくしたちの()()んでご自身(じしん)(まえ)()から(いのち)へと()かすお(かた)なのです。