2016年8月28日日曜日

「命の責任を負う御方」マタイによる福音書14:22-36

わたくしたちは、およそ自分(じぶん)()()まれるまで、(しゅ)イエスを(しん)(したが)おうとはしません。そう()ませられる(べつ)選択肢(せんたくし)()っています。「信仰(しんこう)(うす)(もの)よ、なぜ(うたが)ったのか」という(しゅ)イエスの言葉(ことば)は、このわたくしたちに()てはまります。いつもと()わらぬ(あゆ)みをしているうちは、信仰(しんこう)(うす)くても、(しゅ)イエスに(したが)わなくても、わたくしたちは(かま)わないのです。わたくしたちは(みずうみ)(わた)るのに(ふね)(もち)いるのであり、わざわざ(みず)(うえ)(ある)きはしません。
ただその、いつもと()わらぬ(あゆ)みを()()られる(とき)があります。()けない(くる)しみを(かか)え、()(いた)(やまい)()(とき)です。自分(じぶん)たちの説明(せつめい)理屈(りくつ)によっては解決(かいけつ)()ない(くる)しみを、わたくしたちも()()います。(くすり)使(つか)っても、節制(せっせい)苦行(くぎょう)(かさ)ねても、解決(かいけつ)につながらないのです。自分(じぶん)()てる選択肢(せんたくし)(すべ)(うしな)って、そこでわたくしたちは(あきら)める(ほか)ないのかもしれない。しかし(あきら)められるのでしょうか。


(たの)みの(つな)(すべ)()()られた。そのところでなお、わたくしたちが絶望(ぜつぼう)では()わらず、(たよ)ることのできる(かた)がいます。()()えてご自身(じしん)(しめ)してくださった(しゅ)イエスを(たよ)りとする(みち)があります。(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、わたくしたちを絶望(ぜつぼう)()わらせるのではなく、なお(かみ)(まえ)(あら)たに()きる(みち)(そな)えておられます。
(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()んだ御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させ、(つく)(ぬし)であるこの(かた)が、(すべ)(のぞ)みを(うしな)ったわたくしたちを、なおご自身(じしん)(ささ)えのもとに(あら)たに()かすことを(あき)らかにしてくださいました。わたくしたちが()んでなお、(あら)たに()かされる(みち)を、(かみ)さまは御子(みこ)復活(ふっかつ)において()えてくださったのです。

(かみ)(しん)()()えて(あゆ)(みち)は、わたくしたちにとって(みず)(うえ)(ある)くようなものかもしれません。しかしわたくしたちの()()んでわたくしたちをご自身(じしん)のもとへと(まね)(しゅ)イエスは、わたくしたちを(まね)責任(せきにん)をも()い、この足元(あしもと)(ささ)えてくださいます。

2016年8月21日日曜日

「主はわたしの羊飼い」マタイによる福音書14:13-21

弟子(でし)たちは(いつ)つのパンと二匹(にひき)(さかな)しか()っていませんでした。しかし(しゅ)イエスはこれを()()ると、パンを()いて(あた)え、弟子(でし)たちは群衆(ぐんしゅう)へと(くば)ります。(おとこ)だけでも五千人(ごせんにん)()べて(まん)(ぷく)しました。(のこ)ったパンの(くず)(あつ)めると、十二(じゅうに)(かご)いっぱいになりました。
人間(にんげん)計算(けいさん)ではとても説明(せつめい)できない、理解(りかい)しがたい出来事(できごと)です。ただ、マタイによる福音書(ふくいんしょ)は、わたくしたちがこの出来事(できごと)()ることを(とお)して、これを()こしてしまわれた(しゅ)イエスが、自分(じぶん)(なに)をしてくれるとわたくしたちが(しん)じるのかを()います。つまり、この出来事(できごと)()こした(しゅ)イエスが、このように、わたくしたちをも(かみ)(くに)のご支配(しはい)()たしてくださることを(しん)じるよう(もと)めます。さらには、(かみ)(くに)のご支配(しはい)(およ)ぼすために、この弟子(でし)たちのようにして、()けたる(うつわ)()える自分(じぶん)たちをも、(しゅ)イエスが(もち)いると信頼(しんらい)するよう、マタイによる(ふく)音書(いんしょ)(もと)めるのです。


(じつ)に、このようにして(しゅ)イエスはわたくしたちを、(かみ)(くに)のご支配(しはい)へと(まね)いて()ました。そこで、わたくしたちの()()いたその(ひと)(しん)じる対象(たいしょう)であるところの(かみ)が、このわたしを(すく)うのか、どうであるのかが、真剣(しんけん)()いとしてもたらされます。そしてこの()(かた)りかける(つく)(ぬし)(こえ)()くことが、(かみ)(くに)のご支配(しはい)(とど)けられた(もの)には必要(ひつよう)です。それこそ、(たましい)()(こえ)であり、()()(やぶ)ってこの()(いつく)しむ(かみ)の、この()()()がらせる言葉(ことば)であるからです。

(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、ご自身(じしん)()らず、()んで()わりの(いのち)()てなく()きるほかないわたくしたちに、無関心(むかんしん)ではおられません。断腸(だんちょう)(おも)いをし、わたくしたちをなお(いつく)しんで()まれない。その、わたくしたちへの(おも)いが、()()()ってなおわたくしたちに(とど)けられることを、(かみ)さまは(しゅ)イエスを十字架(じゅうじか)()から復活(ふっかつ)させることにより、(あかし)してくださいました。()んだ(もの)にさえ(ひび)く、(つく)(ぬし)なる(かみ)(こえ)をここに(ひび)かせてくださったのです。

2016年8月7日日曜日

「己の外に立つ希望」マタイによる福音書13:53-58

(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、わたくしたちをわたくしたちの(そと)へと()()し、(かみ)さまと(とも)にある(いのち)()かします。その(いのち)とは、()から復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスの(いのち)です。
もしわたくしたちが、自分(じぶん)(かんが)える枠組(わくぐ)みの(なか)(とど)まるほかないのなら、その(いのち)は、(わく)()たされて()んで()わるほかないでありましょう。しかし(かみ)さまはそのわたくしたちを、()すべき(いのち)埋没(まいぼつ)することから(みちび)()し、もはや()(おわ)わることのない、永遠(えいえん)(いのち)()かしてくださいます。(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを、死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。
復活(ふっかつ)など、十字架(じゅうじか)()んでゆく(しゅ)イエスを()(もの)には、とても(かんが)えられないことでした。どう()ても()(ぼう)のない、絶望(ぜつぼう)()を、(しゅ)イエスは(じゅう)字架(じか)でその()()けたのです。ところが、その(しゅ)イエスが復活(ふっかつ)させられました。(かみ)さまは、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()()らせることにより、わたくしたちをわたくしたちのそとへとし、つくぬしなるご自身じしんのもとへとたせます。ふんそとものとの出会であいは、なおうちものそとへとします。わたくしたちがそとつことをもとめます。いまやわたくしたちがきるのは、ひとからの、地上ちじょう由来ゆらいするいのちぎないのか。それとも、この地上ちじょうへといのちあたえたてんからのいのちなのか。マタイによる福音書ふくいんしょはわたくしたちにいます。
(ひと)からのものに()ぎないなら、わたくしたちは()終点(しゅうてん)となります。そうでありながら、(なん)のために努力(どりょく)までして成長(せいちょう)せねばならないのか、なぜ(ひと)のために()きなければならないのか、若者(わかもの)(なん)(こた)えられるでしょうか。

(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、わたくしたちを(てん)からの(いのち)()かします。わたくしたちをも、()から(いのち)へと、日々(ひび)(あら)たに、ご自身(じしん)(まえ)()かしてくださいます。もはやわたくしたちを、()という絶望(ぜつぼう)へと()かって()きながらえさせるのではなく、(かみ)はそこから(みちび)()し、()()えて、ご自身(じしん)(とも)にある(いのち)へと(あら)たに()かしてくださるのです。