「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった」。これはわたくしたちを言い表した言葉です。わたくしたちは、造り主なる神さまがこの自分を見る通りには、自分を見ることができず、神さまがこの自分に語りかける言葉を、知らないでいたからです。
神さまは、わたくしたちをお造りになって、「極めて良かった」とご覧です(創世記1:31)。しかしひと度自分を省みるなら、むしろ、それとはおよそ程遠い自分の姿を抱え、引きずってきたのではないでしょうか。「自分はそれでも良いのだ」と自分なりに評価し、一安心することがあるかもしれません。ただ、それも長くは続かないでありましょう。自分で自分を良いと評価しても、評価する自分が何も変わっていないからです。それだけでは、自分の姿を見ないよう逃げて回るのとそれほど変わらないと言わざるをえません。
わたくしたちに必要なのは、自分を見、自分について語る主体を、変えていただくことです。造り主なる神さまがわたしを見る眼差しへと、自分を引き上げていただくことです。そして、この自分を生きる主体を変えていただくことです。自分を主人とする僕から、神さまを主人とする神の僕として、この自分を買い取っていただくことです。そのため、主イエスは十字架の死において、自らの命を献げてくださいました(20:28)。
神さまはわたくしたちを、この神の眼差しに引き上げるべく、礼拝に招きます。この招きを受け、わたくしたちは主イエスの十字架のもと、自らを神に献げ、神の僕としての歩みを新たに始めさせていただきます。神さまはわたくしたちをご覧になるその姿を復活した主イエスに現してくださいました。神さまはわたくしたちをも、ご自身が見ている姿へと新たに造り変えてくださるのです。