2016年6月26日日曜日

「神の国は来ている」マタイによる福音書 12:22-37

「そのとき、悪霊(あくれい)()りつかれて()()えず(くち)()けない(ひと)が、イエスのところに()れられて()て、イエスがいやされると、ものが()え、()()えるようになった」。これはわたくしたちを言い表した言葉です。わたくしたちは、(つく)(ぬし)なる(かみ)さまがこの自分(じぶん)()(とお)りには、自分(じぶん)()ることができず、(かみ)さまがこの自分(じぶん)(かた)りかける言葉(ことば)を、()らないでいたからです。
(かみ)さまは、わたくしたちをお(つく)りになって、「(きわ)めて()かった」とご(らん)です(創世記1:31)。しかしひと(たび)自分(じぶん)(かえり)みるなら、むしろ、それとはおよそ程遠(ほどとお)自分(じぶん)姿(すがた)(かか)え、()きずってきたのではないでしょうか。「自分(じぶん)はそれでも()いのだ」と自分(じぶん)なりに評価し、一安心(ひとあんしん)することがあるかもしれません。ただ、それも(なが)くは(つづ)かないでありましょう。自分(じぶん)自分(じぶん)()いと評価(ひょうか)しても、評価(ひょうか)する自分(じぶん)(なに)()わっていないからです。それだけでは、自分(じぶん)姿(すがた)()ないよう()げてまわるのとそれほどわらないとわざるをえません。
わたくしたちに必要(ひつよう)なのは、自分(じぶん)()自分(じぶん)について(かた)主体(しゅたい)を、()えていただくことです。(つく)(ぬし)なる(かみ)さまがわたしを()眼差(まなざ)しへと、自分(じぶん)()()げていただくことです。そして、この自分(じぶん)()きる主体(しゅたい)()えていただくことです。自分(じぶん)主人(しゅじん)とする(しもべ)から、(かみ)さまを主人(しゅじん)とする(かみ)(しもべ)として、この自分(じぶん)()()っていただくことです。そのため、(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()において、(みずか)らの(いのち)(ささ)げてくださいました(20:28)。

(かみ)さまはわたくしたちを、この(かみ)眼差(まなざ)しに()()げるべく、礼拝(れいはい)(まね)きます。この(まね)きを()け、わたくしたちは(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)のもと、(みずか)らを(かみ)(ささ)げ、(かみ)(しもべ)としての(あゆ)みを(あら)たに(はじ)めさせていただきます。(かみ)さまはわたくしたちをご(らん)になるその姿(すがた)復活(ふっかつ)した(しゅ)イエスに(あらわ)してくださいました。(かみ)さまはわたくしたちをも、ご自身(じしん)()ている姿(すがた)へと(あら)たに(つく)()えてくださるのです。

2016年6月12日日曜日

「新しい命の始まり」マタイによる福音書 12:15-21

(しゅ)イエスは(したが)(もの)たちの(やまい)(いや)して()()げましたが、ご自分(じぶん)のことを()いふらさないよう(いまし)めました。マタイによる福音書(ふくいんしょ)は、(しゅ)イエスが人々(ひとびと)沈黙(ちんもく)(めい)じながらも、ご自分(じぶん)(たみ)(つみ)から(すく)(しゅ)イエスの(はたら)きが、ひそやかに、しかし(すべ)ての(たみ)へと()かって(はじ)められたことを(あかし)します。(かみ)さまの(はたら)きは、わたくしたち人間(にんげん)()には()ることができなかったとしても、まことにひそやかに(すす)められていると()うのです。
この(かみ)さまが、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。この(しゅ)イエスによってわたくしたちもまた()から復活(ふっかつ)させられる()()ることを、(かみ)さまは約束(やくそく)しておられます。この約束(やくそく)は、(いま)だわたくしたちの()実現(じつげん)()ることを()ませんが、しかしなお、この()(まっと)うする()へと()かって(すす)められています。それはまことにひそやかに(すす)められる、(かみ)(やく)(そく)だということができます。


わたくしたちの(いのち)が、(はは)(たい)でひそやかに(はじ)められたように、(いま)だわたくしたちが()もしない、()りもしないその(まえ)に、(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは、わたくしたちのこの()実現(じつげん)する(すく)いの(わざ)(はじ)めておられます。(あたら)しい(いのち)(はじ)めておられます。わたくしたちは(しん)(こう)(あた)えられることにより、この(かみ)さまが(そな)えた(みち)()らぬ()(すす)ませて(いただ)いて()たことを、()るのです。
さらには、(いま)だわたくしたちが()もしない、()りもしない自分(じぶん)(うち)にも、(かみ)さまは(しゅ)イエスにおいて約束(やくそく)した(すく)いの実現(じつげん)へとその(はたら)きを(はじ)めています。たとえわたくしたちが(やまい)(いや)されなくても、また、(かみ)さまとの関係(かんけい)前進(ぜんしん)しているように()えなかったとしても、(かみ)さまはその(とき)にも約束(やくそく)実現(じつげん)へと(すす)めているのです。

わたくしたちは、(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)()()えられ、(あたら)しい(いのち)()かされます。(やまい)(いや)されなくても、(しゅ)イエスと(とも)十字架(じゅうじか)()い、復活(ふっかつ)希望(きぼう)へと()かって、そこに()りすがることができるのです。

2016年6月5日日曜日

「造り主との永遠の交わり」マタイによる福音書 12:1-14

(しゅ)イエスは、安息日(あんそくび)(さだ)めた(かみ)さまの(こころ)(とど)けるため、聖書(せいしょ)引用(いんよう)して()います。「わたしが(もと)めるのは(あわ)れみであって、いけにえではない」(ホセア6:6)。こう(しゅ)イエスが強調(きょうちょう)したのは、(しゅ)イエスに()いを()げかけたファリサイ()(ひと)たちが、律法(りっぽう)(あた)えた(かみ)(こころ)よりも、律法(りっぽう)(まも)(かたち)のほうを(おも)んじることへと(おちい)っていたからです。
(かみ)さまはいけにえを(よろこ)ばないわけではありません。ただ、わたくしたちが礼拝(れいはい)すべきお(かた)は、わたくしたちの(つく)(ぬし)です。このお(かた)が、いけにえとなる(いのち)をわたくしたちに(あた)えるのであり、わたくしたちがささげる(まえ)に、(かみ)さまの(いつく)しみがわたくしたちに(そそ)がれています。(かみ)さまはこの(いつく)しみをわたくしたちに()らせ、ご自身(じしん)()として()るため、御子(みこ)イエスを(あた)えました。この御子(みこ)をいけにえとして、身代金(みのしろきん)として()(わた)してくださったのです(20:28)。


この(かみ)(こころ)をわたくしたちにいよいよ()らせるため、この(かた)御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。御子(みこ)十字架(じゅうじか)は、それを()()たりにした(もの)にとって、(かみ)との絶縁(ぜつえん)意味(いみ)しました。しかし、この御子(みこ)死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられ、復活(ふっかつ)させられた主イエスはご自身(じしん)弟子(でし)たちに現わしました。(しゅ)イエスはわたくしたちが()んでなお(かみ)(いつく)しみに(あずか)ることを(しめ)します。()んでなおわたくしたちを()(なか)()(てん)(ちち)永遠(えいえん)(まじ)わりを(もと)める(つく)(ぬし)がおられるのです。

(いま)やわたくしたちの(まえ)に、()すべきこの()(あら)たにし、ご自身(じしん)(まえ)()かす、(てん)(ちち)からの()らせがあります。御子(みこ)復活(ふっかつ)をもって(かみ)さまはわたくしたちに(おお)いなる安息(あんそく)(しめ)してくださいました。もはや、わたくしたちと関係(かんけい)のない(たん)なる(ちち)(こころ)があるのでも、わたくしたちが(めん)()かって(おう)じなくとも()ませられるような、(たん)なる(かみ)()権利(けんり)があるのでも、ない。()きた(かみ)との(まじ)わりに永遠(えいえん)()かすことを、(てん)(ちち)(ねが)っているのです。