2016年2月28日日曜日

「救い主と共に歩む日々」マタイによる福音書8:23-34


(みずうみ)(はげ)しい(あらし)()こり、(ふね)(なみ)にのまれそうになったとき、弟子(でし)たちはうろたえました。(しゅ)イエスはこの(ふね)(ねむ)ったままでした。その(しゅ)イエスに弟子(でし)たちは()います。「(しゅ)よ、(たす)けてください。おぼれそうです」。()こされた(しゅ)イエスは弟子(でし)たちに()います。「なぜ(こわ)がるのか。信仰(しんこう)(うす)(もの)たちよ」。(とも)におられる(しゅ)イエスを弟子(でし)たちが(しん)じていないと()うのです。
ただ、この(しゅ)イエスの言葉(ことば)は、(しゅ)イエスの沈黙(ちんもく)(とも)にあってわたくしたちが自分(じぶん)につぶやく言葉(ことば)でもあります。つまり、(しゅ)イエスが(とも)におられると信じ、(しゅ)イエスがおられる(ふね)にいるのに、この自分(じぶん)(じつ)のところ(しゅ)イエスがおられる(ふね)()っていない。その自分(じぶん)()して、わたしは信仰(しんこう)(うす)い。そう(さけ)(ほか)ないわたしがいる。ところが、その(さけ)びを()く、(しゅ)イエス・キリストがおられるのです。その(しゅ)イエスが沈黙(ちんもく)をもってさえ、わたくしたちへとご支配(しはい)(およ)ぼしてゆきます。
その(ふね)におりながら、(いま)(しゅ)イエスがいる(ふね)()っていない。だから(あらし)にあうとうろたえ、(みずか)らに(さけ)びます。「信仰(しんこう)(うす)(もの)よ」。しかしそのわたくしたちも、「(しゅ)よ、(たす)けてください」と(さけ)ぶところを(あた)えられています。
わたくしたちが(さけ)(もと)めるべき(さき)を、(かみ)さまは(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)によって(しめ)しました。それは、(しゅ)イエス・キリスト、この()()()()った御方(おかた)です。わたくしたちはこの(しゅ)(さけ)ぶことが出来(でき)る。(さけ)ぶことで、(しゅ)イエスと(とも)(あゆ)むことが出来(でき)る。これがわたくしたちに(かみ)さまが(あた)えてくださった(かみ)()特権(とっけん)です。(しゅ)イエスと(とも)(あゆ)むことは、「信仰(しんこう)(うす)(もの)よ」「なぜ(こわ)がるのか」と(おも)えても、(さけ)ぶところを()っており、この(しゅ)イエスに(さけ)(もと)める日々(ひび)です。それが(しゅ)(しゅ)(けん)にひれ()(あゆ)みであり、礼拝(れいはい)は、その(もっと)もふさわしいわたくしたちの姿(すがた)を、この地上(ちじょう)(いただ)くものです。(しゅ)(とも)におられる(ふね)へと、わたくしたちもこの()(ささ)げて(したが)い、(しゅ)(しゅ)(けん)()たされる、()こう(ぎし)へとゆかせて(いただ)くのです。

2016年2月21日日曜日

「どこまでも救い主が共に」マタイによる福音書8:18-22


(きつね)には(あな)があり、(そら)(とり)には()がある。だが、(ひと)()には(まくら)する(ところ)もない」。そう()った(しゅ)イエスが(かた)るたとえの(なか)に、からし(だね)のたとえがあります。「(てん)(くに)はからし(だね)()ている。(ひと)がこれを()って(はたけ)()けば、どんな(たね)よりも(ちい)さいのに、成長(せいちょう)するとどの野菜(やさい)よりも(おお)きくなり、(そら)(とり)()(えだ)()(つく)るほどの()になる(13:31)」。(てん)(くに)(しゅ)イエスが(おう)さまとして支配(しはい)する(くに)(ちから)(およ)ぶところですが、それがからし(だね)()ていると()います。(ちい)さな種粒(たねつぶ)が、どんな野菜(やさい)よりも(おお)きくなり、ついには「(そら)(とり)()(えだ)()(つく)るほどの()になる」。からし(だね)(そら)(とり)()提供(ていきょう)するというのです。つまり(ひと)()イエスは(まくら)する(ところ)()ちませんが、この(かた)(そら)(とり)安堵(あんど)して(やす)まるための()提供(ていきょう)する。
これは「(そら)(とり)をよく()なさい」と()った(しゅ)イエスの(おし)えに(つう)じます(6:26)。「(そら)(とり)をよく()なさい。(たね)()かず、()()れもせず、(くら)(おさ)めもしない。だが、あなたがたの(てん)(ちち)(とり)(やしな)ってくださる。あなたがたは、(とり)よりも価値(かち)あるものではないか」。ここでは(とり)(やしな)っているのは、(てん)(ちち)なる(かみ)さまですが、その(てん)(ちち)なる(かみ)さまこそが、わたくしたちを(やしな)うため、(しゅ)イエス・キリストを(あた)え、この(かた)において安堵(あんど)する宿(やど)()を、提供(ていきょう)しておられるのです。
(ひと)()には(まくら)する(ところ)もない」。そう()ってわたくしたちに(つか)える(しゅ)イエスが(まくら)する(ところ)、それは(てん)(ちち)なる(かみ)さまの(みぎ)()でした。十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを(かみ)さまは復活(ふっかつ)させてくださいました。この(しゅ)イエスが(ひと)()としてやがて()わりの()にやってきます。その()には、とこしえの(おう)として(しゅ)イエスこそがわたくしたちに仕え()(ほろ)ぼし、(かみ)御前(みまえ)()(いのち)()かしてくださいます。どこまでも、とこしえに、(しゅ)(とも)におられる(いのち)()かします。(しゅ)イエスは、わたくしたちへと(つか)えています御自身(ごじしん)に、わたくしたちを(したが)わせるのです。

2016年2月14日日曜日

「この身の十字架を担う神」マタイによる福音書8:14-17


(しゅ)イエスは、(ねつ)()して寝込(ねこ)んでいた、ペトロのしゅうとめの()()って、(ねつ)()らせました。また、人々(ひとびと)()れてきた病人(びょうにん)(みな)いやしました。マタイによる福音書(ふくいんしょ)はここに、イザヤ(しょ)(だい)53(しょう)4(せつ)実現(じつげん)()ます。「それは、預言者(よげんしゃ)イザヤを(とお)して()われていたことが実現(じつげん)するためであった。「(かれ)はわたしたちの(わずら)いを()い、わたしたちの(やまい)(にな)った」。
たしかに、いやされました(もの)たちも、弟子(でし)のペトロもそのしゅうとめも、(しゅ)イエスがイザヤ(しょ)(だい)53(しょう)預言(よげん)された苦難(くなん)(しもべ)だとはこのとき()ていません。あの預言(よげん)実現(じつげん)を、(しゅ)イエスとの(かか)わりにおいてこの()()こされているとは()りません。いやされることにおいても、なお()りません。ペトロもマタイも、そうだと()ったのは、(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)()なれ、()から復活(ふっかつ)させられた(あと)のことです。
この復活(ふっかつ)(ひかり)のもと、マタイによる福音書(ふくいんしょ)は、病人(びょうにん)がいやされたのは、(しゅ)イエスこそがその(やまい)(にな)ったからだと()います。そればかりではなく、たとえ(いま)だいやされないでいたとしても、その(やまい)(わずら)いも不条理(ふじょうり)をも、(しゅ)イエスは(にな)っているのです。
(しゅ)イエスは、もはや()から復活(ふっかつ)させられ、(てん)(ちち)なる(かみ)さまの(みぎ)()におられます。けれども、わたくしたちの十字架(じゅうじか)()うことを()めてはおられません。(たん)十字架(じゅうじか)()んでしまわれた(とき)だけではなく、(いま)この(とき)も、わたくしたちの現実(げんじつ)(とも)にあり、わたくしたちの(わずら)いも(やまい)をも(にな)い、わたくしたちのこの()十字架(じゅうじか)を、(しゅ)イエスは()()っておられます。
わたくしたちは()ぬとすれば(しゅ)イエスと(とも)()ぬのであり、この(しゅ)イエスと(とも)にあるわたくしたちを、(しゅ)イエスは死者(ししゃ)(なか)からの復活(ふっかつ)にあずからせてくださいます。そのようにして、わたくしたちを(いつく)しみ、わたくしたちのところにまで(くだ)ってくださり、()()()()べてわたくしたちを根底(こんてい)から(ささ)える、わたくしたちの(つく)(ぬし)なる(かみ)さまがおられるのです。

2016年2月7日日曜日

「ただひと言を待つ神」マタイによる福音書8:5-13


天地(てんち)(つく)られた(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()んで(ほうむ)られた(しゅ)イエスを、死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。復活(ふっかつ)させることにおいて、(かみ)言葉(ことば)(かた)ってくださいました。(つく)(ぬし)なる(かみ)からの言葉(ことば)として、(しゅ)イエスを()から復活(ふっかつ)させてくださいました。(かみ)さまは、わたくしたちの(いのち)(つく)ったご自身(じしん)にしかなせない(わざ)をもって、権威(けんい)ある(かみ)のひと(こと)(かた)ってくださったのです。
このひと(こと)を、(てん)からのものと(みと)めるか、そもそも復活(ふっかつ)(みと)めるか。(ひがし)から西(にし)から、大勢(おおぜい)異邦人(いほうじん)が、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()()らされ、これを(かみ)(わざ)(しん)じました。礼拝(れいはい)する(たみ)一員(いちいん)として、永遠(えいえん)(いのち)(あずか)(みち)(あゆ)(はじ)めました。その(いえ)(しゅ)イエスをお(むか)えできるような(もの)ではなかった異邦人(いほうじん)、ふさわしくないと(みずか)らみなす(ほか)なかったそのところにまで、(かみ)さまは(しゅ)イエスによって(かみ)のひと(こと)(あた)え、()んだ(もの)にさえ支配(しはい)(およ)ぼす(かみ)のひと(こと)希望(きぼう)として()えてくださいました。
わたくしたちはそれぞれに信仰(しんこう)(あた)えられ、聖書(せいしょ)()んだり(いの)ったりします。ただ、それが自分(じぶん)から()(かんが)えや(おも)いにすぎないのではなく、まことに(かみ)さまから、この自分(じぶん)へと(あた)えられた信仰(しんこう)だと()必要(ひつよう)があります。たしかに、自分(じぶん)自分(じぶん)信仰(しんこう)納得(なっとく)したらそれでよいのかもしれません。ですが、どうしようもない(やまい)や、(さか)らい()ない()直面(ちょくめん)したなら、自分(じぶん)言葉(ことば)自分(じぶん)納得(なっとく)させることなど、しきれないでしょう。やはり、(かみ)からこの()(かた)られた、(かみ)のひと(こと)がこの()にも必要(ひつよう)だったのではないでしょうか。
わたくしたちが(かみ)のひと(こと)(あら)たに()き、「(しゅ)よ、(ちち)よ」と(さけ)(もと)めるのを、(てん)(ちち)なる(かみ)さまは()っておられます。それはわたくしたちが(しゅ)イエスの(しもべ)となることです。(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)において(かみ)言葉(ことば)()き、(かみ)のひと(こと)がそこから(あら)たにこの()へと(かた)()けられるのを()(のぞ)むことです。(かみ)礼拝(れいはい)する(たみ)一員(いちいん)であることを、(かみ)さまはわたくしたちに(もと)めておられるのです。