2016年1月31日日曜日

「この身に満ちる神の思い」マタイによる福音書8:1-4


(おも)皮膚病(ひふびょう)(わずら)ったこの(おとこ)は、(しゅ)イエスに()いました。「(しゅ)よ、御心(みこころ)ならば、わたしを(きよ)くすることがおできになります」。(しゅ)イエスは()()()べてこの(おとこ)()れ、「よろしい、(きよ)くなれ」と()います。(しゅ)イエスの御心(みこころ)(おとこ)(きよ)くなることです。(しゅ)イエスはこの(おとこ)に、(かみ)(おも)いを()たします。
ただ、(やまい)(きよ)くすることが(かみ)()(こころ)であるならば、これを御心(みこころ)()()れることは、それと(とも)に、(やまい)()たのも(かみ)御心(みこころ)だった、と(かみ)摂理(せつり)()()れることをも、(ともな)います。(なに)か、(きよ)くすることだけが(かみ)御心(みこころ)であって、(やまい)()ることは(かみ)御心(みこころ)でなかった、と人間(にんげん)(がわ)から()めつけることはできません。
ですから、「御心(みこころ)ならば、わたしを(きよ)くすることがおできになります」という(しゅ)イエスへの信頼(しんらい)は、()()れがたいこの自分(じぶん)と、なお(しゅ)イエスが(とも)におられる、という事実(じじつ)()()めさせられることを(ともな)います。
たしかに、不条理(ふじょうり)現実(げんじつ)()()けられ、それが(かみ)御心(みこころ)だったなどと、簡単(かんたん)()()れられるものではありません。しかしそれが(さいわ)いであるのは、わたくしたちの将来(しょうらい)が、(かみ)御心(みこころ)()たされることへと()かうからには、(いま)も、そして過去(かこ)も、(かみ)御心(みこころ)のもとにあったという事実(じじつ)(うえ)にわたくしたちが()たされることです。(しゅ)イエスはこの(かみ)への信頼(しんらい)へと(みちび)き、わたくしたちを(ともな)ってくださいます。
(とき)(かみ)さまはわたくしたちに絶望(ぜつぼう)すら()()けます。その(まえ)にわたくしたちは(くる)しみ、()(つく)くします。しかしなお、その絶望(ぜつぼう)をこえてわたくしたちを(しもべ)とし、御心(みこころ)実現(じつげん)するよう(のぞ)む、(しゅ)イエス・キリストが(とも)にいます。
(かみ)御心(みこころ)は、(しゅ)イエスによってわたくしたちが(かみ)(くに)()きることです。(かみ)(たみ)一員(いちいん)として、(つく)(ぬし)なる(かみ)をほめたたえることです。この御心(みこころ)(かみ)さまは(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)において、わたくしたちと(とも)にある事実(じじつ)として宣言(せんげん)してくださいました。(しゅ)イエスは御心(みこころ)をこの()()たしてくださいます。

2016年1月24日日曜日

「岩の上に家を建てる」マタイによる福音書7:21-29


「わたしのこれらの言葉(ことば)()いて(おこな)(もの)(みな)(いわ)(うえ)自分(じぶん)(いえ)()てた(かしこ)(ひと)()ている」。そう(しゅ)イエスは()います。(いわ)(うえ)自分(じぶん)(いえ)()てるのが(かしこ)いことであるというのは、わたくしたちにも(わか)ります。ただ、ここで(いわ)(うえ)とは、(なに)過去(かこ)実績(じっせき)や、(しゅ)イエスを()がものとすることではありません。なお(しゅ)イエスの言葉(ことば)()くことです。(おこな)えるほどに()くことです。(しゅ)イエスの言葉(ことば)()くことを、土台(どだい)とすることです。
過去(かこ)のわたくしたちの実績(じっせき)によって(なに)か、わたくしたちの足場(あしば)(かた)くなり、(てん)(くに)(はい)条件(じょうけん)保証(ほしょう)となるのではありません。むしろ、過去(かこ)実績(じっせき)によって()つということは、(すな)(うえ)(いえ)()てることなのかもしれません。その(いえ)は、かの()(さば)きに()()ないと(しゅ)イエスは()います。
そこで(しゅ)イエスは、なおこれからわたくしたちを()()がらせる、(しゅ)イエスの言葉(ことば)()くことを(もと)めます。それはマタイによる福音書(ふくいんしょ)によれば、(かみ)御心(みこころ)(しめ)された(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)に、(かみ)言葉(ことば)()くことです。なおこれから()くことです。
(しゅ)イエスご自身(じしん)、この(ちち)なる(かみ)さまの言葉(ことば)に、()(つづ)けました。「(ちち)よ、できることなら、この(さかずき)をわたしから()()らせてください。しかし、わたしの(ねが)いどおりではなく、御心(みこころ)のままに(26:39)」そう(いの)るに(いた)らせられ、(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()んでゆかれました。
けれどもこの(しゅ)イエスを(かみ)さまは復活(ふっかつ)させました。人間(にんげん)()には、()きたかった(かみ)御心(みこころ)は、十字架(じゅうじか)()(まぬか)れることです。しかし(かみ)さまの御心(みこころ)はそうではなかった。(かみ)さまの御心(みこころ)は、(しゅ)イエスを十字架(じゅうじか)()()()し、しかしこの(かた)を、()から復活(ふっかつ)させることにありました。()んだ(もの)にさえ、(かみ)御心(みこころ)実現(じつげん)する(かみ)言葉(ことば)があることを、(かみ)さまは(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)において(あき)らかにしてくださいました。(しゅ)イエスはこの(かみ)言葉(ことば)(かた)(つづ)け、(いのち)()させてくださいます。

2016年1月17日日曜日

「狭い門から入りなさい」マタイによる福音書7:13-20



(しゅ)イエスは言います。「(せま)(もん)から(はい)りなさい。(ほろ)びに(つう)じる(もん)(ひろ)く、その(みち)広々(ひろびろ)として、そこから(はい)(もの)(おお)い。しかし、(いのち)(つう)じる(もん)はなんと(せま)く、その(みち)(ほそ)いことか。それを()いだす(もの)(すく)ない」。
(ひろ)(もん)は、そこから(はい)ったとして、わたくしたちが(いのち)()るとは()えません。というのも、このわたくしたちが(いのち)()(もん)は、この自分(じぶん)(いのち)()(もん)であるはずだからです。万人(ばんにん)(おな)(みち)()(いのち)()たとして、この()(ぶん)がそれによって(いのち)()ると、わたしが()うことができるでしょうか。
ですから、(しゅ)イエスは、そのあなたが(いのち)()(もん)(さが)し、()いだし、(はい)りなさい、と()います。それは換言(かんげん)すれば、(ひろ)(もん)によっては(いのち)()ないこの自分(じぶん)()れ、ということです。(ひろ)(もん)によっては(いのち)()ないあなたを()いだせということです。(いのち)(つう)じる(もん)(せま)くその(みち)(ほそ)いのは、それだけ、わたくしたちが自分自身(じぶんじしん)()るに()りていないからです。
(たん)(ひろ)(もん)(しゅ)イエスによって(よう)()されただけなら、わたくしたちにはなお関係(かんけい)がなく、その(みち)をゆくつもりのわたくしたちは、かえって(ほろ)びに(つう)じる(ほか)ないのかもしれません。それゆえ、このわたしが(すく)われるのかどうか、(いのち)()るかどうか、これが問題(もんだい)です。それは(せま)(もん)だとわたくしたちも(わか)ります。このわたくしたちが(すく)われるのかどうか、自分(じぶん)(がわ)からは()()ないからです。
わたくしたちが、自分(じぶん)(がわ)から()()ないからには、()()ないところから(はじ)めるほかありません。けれども、そのわたくしたちがどこへと(みち)(すす)むのか、(なに)も、()わりが不確(ふたし)かな(なか)を、()らないところから(はじ)めるのではありません。(いのち)(つく)(ぬし)なる(かみ)さまが、(しゅ)イエスの()からの復活(ふっかつ)において、わたくしたちが(いた)るべきところを(あき)らかにしてくださいました。この復活(ふっかつ)目指(めざ)し、(しゅ)イエスはわたくしたちを(しもべ)とし、(しゅ)イエスという(もん)(とお)って永遠(えいえん)(いのち)()(みち)(みちび)くのです。

2016年1月10日日曜日

「求める者は受ける」マタイによる福音書7:1-12


(しゅ)イエスはわたくしたちに、(いの)(もと)めることを(めい)じます。「(もと)めなさい。そうすれば、(あた)えられる。(さが)しなさい。そうすれば、()つかる。(もん)をたたきなさい。そうすれば、(ひら)かれる。だれでも、(もと)める(もの)()け、(さが)(もの)()つけ、(もん)をたたく(もの)には(ひら)かれる」。
ここで(もと)める相手(あいて)は、(てん)(ちち)なる(かみ)さまです。一方(いっぽう)でわたくしたちは、(ひと)()かって(もと)めても、期待(きたい)(はず)れな(こた)えが(かえ)って()ることがあります。「あの(ひと)信頼(しんらい)してお(ねが)いしたのに、上手(うま)()かなかった。かえって(いや)(おも)いをさせられた。信頼(しんらい)裏切(うらぎ)られた」。そういう経験(けいけん)をします。すると、もう(ひと)(たよ)るのを()めてしまいます。
ただ、そのわたくしたちにも、なお(たよ)ることのできる(てん)(ちち)がいる、と(しゅ)イエスは強調(きょうちょう)します。そこで、この御方(おかた)(ただ)しく(もと)めるのかが()われます。(てん)(ちち)なる(かみ)にのみ、(いの)(もと)めているのか。どこか、「(いの)りは()かれない、(もと)めても(あた)えられない、(しん)じてもも無意味(むいみ)だ」と二心(ふたごころ)(いだ)きつつ(もと)めてはいないか。もしくは、「もらえて当然(とうぜん)であり、(もと)めなくても(かみ)さまは(あた)えるはず、()わずともやってくれるはず」と怠惰(たいだ)(おも)いに(とら)われていないか。(もと)めてないのではないか。
(しゅ)イエスは()います。「あなたがたのだれが、パンを()しがる自分(じぶん)子供(こども)に、(いし)(あた)えるだろうか。(さかな)()しがるのに、(へび)(あた)えるだろうか」「まして、あなたがたの(てん)(ちち)は、(もと)める(もの)()(もの)をくださるにちがいない」。
(ちち)()っているのです。わが()(さけ)(もと)めることを。()()以上(いじょう)(おや)はわが()必要(ひつよう)がわかります。()()以上(いじょう)(こたえ)解決(かいけつ)を、(おや)()っています。だから、(あた)えるべく、(さけ)(もと)めるのを()っている。わたくしたちをそこから()()そうと()っている(てん)(ちち)がいます。「あなたがたの(てん)(ちち)は、なおさらである」。(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、わたくしたちに(てん)(もん)(ひら)用意(ようい)があることを、(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させて(あかし)しました。(いま)やこの(もん)がたたかれることを()っています。