2015年11月29日日曜日

「御国を来らせたまえ」マタイによる福音書6:9-10


(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()んでゆかれます。そこに(かみ)御国(みくに)()たとは、(かみ)御心(みこころ)(おこな)われたとは、(だれ)()にも()えませんでした。けれども、この(じゅう)字架(じか)()さえ、(かみ)御心(みこころ)なくしてもたらされたものではない。むしろ、(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、(つく)(ぬし)御心(みこころ)(てん)にあるのと(おな)じく、十字架(じゅうじか)()さえも、地上(ちじょう)実現(じつげん)する祝福(しゅくふく)としてしまわれた。(かみ)さまはその御心(みこころ)を、(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させることによって、(あき)らかにしてくださいました。
(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()は、人間(にんげん)()には、すべての(のぞ)みを()やされた、(ぜつ)(ぼう)にほかなりませが、(しゅ)イエスは絶望(ぜつぼう)では()わりませんでした。(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、十字架(じゅうじか)()にさえ(いのち)をもたらす希望(きぼう)をなお(そな)えていました。これが、わたくしたちへ()()された御心(みこころ)であることを、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)(あか)ししています。わたくしたちがたとえ、(みずか)らが()にする希望(きぼう)をすべて(うしな)い、それによって()んだとしても、()をこえる希望(きぼう)(つく)(ぬし)なる(かみ)はなお()っており、わたくしたちへと、この希望(きぼう)()たしてくださるのです。
(みずか)らの()(まえ)にして、(かみ)(くに)のご支配(しはい)を、わたくしたちも()(のぞ)むでありましょう。(しゅ)イエスがこの()()てくださることを、()(のぞ)むことでしょう。そこでは、(なに)かこちらがしたとか、地上(ちじょう)人間(にんげん)(がわ)から(たし)かな保証(ほしょう)()とうとしても、(てん)(しゅ)イエスの(がわ)から()てくれなくては、()()ちません。ですからわたくしたちも(いの)るのです。(しゅ)イエスよ()てください、この()御国(みくに)のご支配(しはい)()らせたまえ、と。
そのわたくしたちへと「()る」という約束(やくそく)を、(かみ)さまは(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)(あか)ししました。わたくしたち一人(ひとり)ひとりを、洗礼(せんれい)聖餐(せいさん)(あずか)らせることをもって、聖霊(せいれい)(あた)え、この約束(やくそく)(あずか)らせてくださいます。(かみ)はわたしを御国(みくに)(むか)えてくれるだろうか。そう()わざるを()ない、自分(じぶん)では()()()ない(みずか)らであっても、しかし御父(おんちち)は、このわたくしたちを()()れてくださるのです。

2015年11月22日日曜日

「この日に語りかける声」ヨハネの黙示録1:9-20


わたくしたちは、わたくしたちが(しん)告白(こくはく)する(しゅ)イエス・キリストから(こえ)()こうとするとき、(かみ)さまがそこで(なに)(かた)るのを期待(きたい)するでしょうか。自分(じぶん)(こころ)をいやしてくれる(やさ)しい(こと)()でしょうか。自分(じぶん)(たす)けてくれる、(こま)った問題(もんだい)解決(かいけつ)する言葉(ことば)でしょうか。そういう言葉(ことば)をわたくしたちが(もと)め、また(しゅ)イエスから()()ることもあるでしょう。
()んだように(たお)れたヨハネに(しゅ)イエスは(のぞ)み、()いました。「(おそ)れるな。わたしは最初(さいしょ)(もの)にして最後(さいご)(もの)、また()きている(もの)である。一度(いちど)()んだが、()よ、世々(よよ)(かぎ)りなく()きて、()陰府(よみ)(かぎ)()っている」。(しゅ)イエスは聖霊(せいれい)によってわたくしたちに(のぞ)み、ご自身(じしん)がわたくしたちの(しゅ)として、()から復活(ふっかつ)させられたことを(かた)りかけます。また、十字架(じゅうじか)()()げてわたくしたちの(あがな)いを()たしたことを(しゅ)イエスは()げ、わたくしたちを()()がらせます。
(ぎゃく)から()ますと、わたくしたちが(しゅ)イエスを(しん)じ、「この(かた)()から(ふっ)(かつ)させられ、わたくしたちのため十字(じゅうじ)()()に、(あがな)いを()たされた」と(しん)じるとすればそれは、そのわたくしたちへと(しゅ)イエスが(のぞ)み、ご自身(じしん)(あか)ししてくださった果実(かじつ)です。たとえわたくしたちがそうは()なさなかったとしても。なぜなら、聖霊(せいれい)によらなければ、(だれ)(かみ)(しん)(はじ)めることができず、(しゅ)イエスの十字(じゅうじ)()()()からの復活(ふっかつ)も、この()(かか)わりがまだなかったはずだからです(一コリント十二・三)。
(しゅ)()(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()(かみ)さまはわたくしたちを礼拝(れいはい)(まね)き、(しゅ)イエス・キリストを()()らせます。その(とき)わたくしたちは(なに)()こうというのでしょうか。(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)がどなたであるのか、わたくしたちに(かた)ります。御前(みまえ)()んだわたくしたちを()()がらせる(かた)として、ご自身(じしん)(かた)ります。この(かた)がわたくしたちの(さい)(しょ)として死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられ、(いま)()き、世々(よよ)にわたくしたちを支配(しはい)する全能者(ぜんのうしゃ)であるのです。

2015年11月15日日曜日

「天にまします我らの父よ」マタイによる福音書6:7-9


わたくしたちは、自分(じぶん)が「(かみ)」とする相手(あいて)()かってしか、()ぬことはできません。そこではわたくしたちも(さけ)ぶことが(しょう)じます。()(まえ)自分(じぶん)(なに)()かって(さけ)ぶのか。そこで(さけ)(あい)()(だれ)であるのか、()われます。
(しゅ)イエスもまた、十字架(じゅうじか)()において(さけ)びました。(てん)(ちち)なる(かみ)さまに()かって(さけ)びました。わたくしたちも、()(さい)(さけ)(さけ)びがあってよいのです。(しゅ)イエスの(あと)(したが)って、「(ちち)よ」と(さけ)んでよいのです。わたくしたちの(いのち)(つく)り、この(いのち)()かし、()から復活(ふっかつ)させて(つく)(ぬし)の「()し」をこの()()たす御方(おかた)へと、わたくしたちも(さけ)んでよい。「(ちち)よ」と(さけ)(さき)(しゅ)イエスが(あた)えてくださいました。
そう、わたくしたちが希望(きぼう)をもって(さけ)ぶのであれば、そう(さけ)んでまでも()(ぼう)をもって()(むか)えるこの()であるということを、わたくしたちは(まわ)りの(もの)にも()ってほしいと(ねが)うことでしょう。また、この()()()された希望(きぼう)が、一人(ひとり)ひとりにとって()()えて(そな)えられた希望(きぼう)であることを()ってほしいと(ねが)いはしないでしょうか。()()くこの()(そな)えられたこの()(ぼう)が、あなたにも(とど)けられていることを、()ってもらいたい。
(しゅ)イエスは「御名(みな)(あが)められますように」と(いの)るよう(めい)じます。この(いの)りは、一人(ひとり)ひとりへとこの(ちち)()(およ)ぼされるように、という(ひろ)がりをもちます。()をあげて、この()(あが)められますように、と。それがわたくしたちの(さけ)びであり、()(まえ)にして()()(いの)(いの)りとしてなお(あた)えられています。
このように()()(いの)先人(せんじん)たちによって、わたくしたちのところにまで、(てん)(ちち)なる(かみ)さまの()(とど)けられました。()どもが(おや)(えら)ばずとも、(おや)()どもの(おや)であるように、わたくしたちはこの(ちち)()関係(かんけい)手放(てばな)しで(みずか)らに()()れることを(もと)められます。それゆえ、「(てん)にまします(われ)らの(ちち)よと」(いの)(さけ)ぶことを(ゆる)された(もの)として、わたくしたちもこの()をあげて、(ちち)()びかける(こえ)(こた)えるのです。

2015年11月8日日曜日

「左手も知らぬ右の手」マタイによる福音書6:1-8


わたくしたちには、自分(じぶん)他者(ひと)()っている自分(じぶん)姿(すがた)があります。また、自分(じぶん)()っているが、他者(ひと)()らない()(ぶん)姿(すがた)があることを()っています。さらには、他者(ひと)()っているけど、自分(じぶん)()らない自分(じぶん)姿(すがた)もあります。そして、自分(じぶん)他者(ひと)()らないままの自分(じぶん)姿(すがた)があるのです。
よほど、わたくしたちが自分(じぶん)のことを()らないものだ、と(おも)わせられます。ただ、(てん)(ちち)なる(かみ)さまはわたくしたちのすべてを()っています。この(かた)はわたくしたちの(つく)(ぬし)です。(しゅ)イエスは、わたくしたちのこれらすべての()(ぶん)を、(てん)(ちち)なる(かみ)さまへと()けて(みちび)きます。
()っている自分(じぶん)もそうですが、()らない自分(じぶん)自分(じぶん)(あやつ)れる(わけ)ではありません。その自分(じぶん)(かみ)()かわすとすれば、それは、(かみ)()かう御方(おかた)(みちび)いてもらうほかありません。そのため、(しゅ)イエス・キリストはわたくしたちのところへと()てくださったのです。
(かみ)さまがお(つく)りになったそのとおりにわたくしたちが()きるよう、(しゅ)イエス・キリストがわたくしたちのところに()てくださいました。この(かた)がわたくしたちをご自分(じぶん)()()からの復活(ふっかつ)(あずか)らせ、(てん)(ちち)(まえ)永遠(えいえん)()(もの)としてくださいます。
(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)()んだ(とき)、その()(たか)評価(ひょうか)する(もの)(だれ)もいませんでした。しかしこの(しゅ)イエスを(かみ)さまは死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させ、この(かた)(いっ)(しん)(てん)(ちち)なる(かみ)さまへと()かって()なれたことを(あかし)してくださいました。(かえり)みて(なに)()()ないわたくしたちです。そのわたくしたちが()()えて(かみ)(まえ)()てるとすれば、それは復活(ふっかつ)(しゅ)イエスが、わたくしたちのために十字架(じゅうじか)()()ったと宣言(せんげん)しておられるからです(20:28)。
この復活(ふっかつ)(しゅ)言葉(ことば)が、わたくしたちのところへと()ました。この復活(ふっかつ)(しゅ)イエスの言葉(ことば)()(つづ)けることにおいて、わたくしたちもまたひたすら、一心(いっしん)(てん)(ちち)なる(かみ)さまへと()かわせて(いただ)けるのです。