2015年10月25日日曜日

「万人に太陽を昇らす神」マタイによる福音書5:38-48


(しゅ)イエスは()います。「(ちち)悪人(あくにん)にも善人(ぜんにん)にも太陽(たいよう)(のぼ)らせ、(ただ)しい(もの)にも(ただ)しくない(もの)にも(あめ)()らせてくださる」。これは(てん)(ちち)なる(かみ)さまの(おお)いなる眼差(まなざ)しです。(てん)(ちち)なる(かみ)さまが、万物(ばんぶつ)支配(しはい)し、わたくしたちの(おも)いをこえ、万事(ばんじ)(えき)としてくださる。その眼差(まなざ)しへと(しゅ)イエスはわたくしたちを()()げます。
ただ、(かみ)さまが万事(ばんじ)(えき)とするからといって、「自分(じぶん)たちは(なん)でもやって()い」、という(わけ)ではありません。それでは(かみ)さまを信頼(しんらい)したことにはなりません。
一方(いっぽう)、「もうわたくしたちが(なに)をしても無駄(むだ)だ、しなくても()い」、という(わけ)でもありません。(しゅ)イエスは()います。「(もと)める(もの)には(あた)えなさい(42)」と。それは(ちち)なる(かみ)さまがそうだからです。ですから、わたくしたちも(てん)(ちち)なる(かみ)さまに全幅(ぜんぷく)信頼(しんらい)をもって(もと)めるよう(しゅ)イエスは()います。この(ちち)なる(かみ)さまこそ、この御方(おかた)(あらが)ってやまないわたくしたちを、なお(あい)()御方(おかた)であるからです。
(じつ)に、(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、(かみ)さまに反抗(はんこう)するわたくしたちに(たい)し、復讐(ふくしゅう)せず、刃向(はむか)かうことをしませんでした。むしろ、十字架(じゅうじか)()へと(かみ)()イエスを()()すまでして、わたくしたちと(とも)にいて、わたくしたちを(あい)することを()められなかったのです。(しゅ)イエスは(のち)にご自身(じしん)()して()います。「(ひと)()が、(つか)えられるためではなく(つか)えるために、また、(おお)くの(ひと)身代金(みのしろきん)として自分(じぶん)(いのち)(ささ)げるために()た(20:28)」と。(もと)める(もの)(あた)え、わたくしたちを(かみ)()として永遠(えいえん)(いのち)()かす、わたくしたちの(ちち)なる(かみ)さまがおられるのです。その(かみ)さまが、わたくしたちの永遠(えいえん)(ちち)であることを、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させることによって、わたくしたちに宣言(せんげん)してくださいました。
なおわたくしたちは完全(かんぜん)ではありません。しかし(しゅ)イエスはそこへと()かう(もの)として、わたくしたちを(さき)んじて()()しておられるのです。

2015年10月18日日曜日

「神の然りを然りとする」マタイによる福音書5:33-37


「あなたがたは、『(しか)り、(しか)り』『(いな)(いな)』と()いなさい」。(かた)言葉(ことば)二心(ふたごころ)なく、真実(しんじつ)(つらぬ)くよう(しゅ)イエスは(めい)じます。(かみ)さまの(しか)りを(しか)りとし、(かみ)さまの(いな)(いな)とするよう(めい)じます。
わたくしたちがいくら(ちか)っても、(かみ)さまが(しか)りとした将来(しょうらい)を、(いな)()えることはできません。その反対(はんたい)もそうです。わたくしたちの将来(しょうらい)は、わたくしたちの(いのち)(つく)(ぬし)なる(かみ)さまの()にかかっている。その(かみ)(しか)りを、(しか)りとするよう、(しゅ)イエスは(もと)めます。
(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()けられ、()んでゆかれました。それは、(かみ)(もと)めながらも、(かみ)(とも)にいますという真実(しんじつ)()()めず、(かみ)不在(ふざい)()()きる人間(にんげん)()によって()()けられた(いな)でした。
けれども(かみ)さまは、この(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。(かみ)さまは、(かみ)(とも)にいますという真実(しんじつ)が、()()えて真実(しんじつ)であり、人間(にんげん)()によっても()においても(いな)とされ()ないことを、(あか)ししてくださったのです。
(かみ)さまが、わたくしたちに()こされる(しか)りを(あらわ)してくださいました。もはや(かみ)さまはわたくしたちの(いのち)()んで(おわ)わることに対し、(いな)()()け、わたくしたちが死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられる(しか)りを、(うご)かざる(しか)りとして宣言(せんげん)してくださいました。
なにか「建前(たてまえ)(しか)りだけど、本音(ほんね)(いな)です」などということはありません。(かみ)さまの(しか)りは、どこまでも(しか)りであられます。だから、この(かみ)さまの(しか)りを、あなたの(しか)りとするよう、(しゅ)イエスはわたくしたちに(もと)めます。
じつに、わたくしたちが洗礼(せんれい)()け、信仰(しんこう)告白(こくはく)することは、この(かみ)(しか)りをこの()(しか)りとして()()めさせて(いただ)くことです。また聖餐(せいさん)(あずか)り、くり(かえ)し、この(かみ)(しか)りをこの()(しか)りとして、確認(かくにん)させて(いただ)くのです。
それは(なに)自分(じぶん)でつかみ()るというよりも、(かみ)さまが(しゅ)イエスにおいて、もうこの()()()してくださった永遠(えいえん)(いのち)を、ただで(いただ)くことです。(かみ)(しか)りを(たし)かに()き、しっかりと()()らせて(いただ)きましょう。

2015年10月11日日曜日

「ただ神にのみ栄光あれ」マタイによる福音書5:27-32


あなたの()が、姦通(かんつう)(つみ)(おか)させるなら、その()をえぐり()して()てなさい。()がそうさせるなら、その()()()って()てなさい。(しゅ)イエスはそう()います。(なに)も、実際(じっさい)にそうやって(かみ)(まえ)()て、というのではありません。そのように自分(じぶん)()()てても、(おな)じことはなおこの()()こります。
(つまず)きを()けられない、(みずか)らの(つみ)をどうにも出来(でき)ないわたくしたちです。しかしこの()をなお、(しゅ)イエスによって(かみ)(まえ)()たせるため、(しゅ)イエスはわたくしたちの(もと)()(くだ)さいました。(しゅ)イエスは死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられました。その(しゅ)イエスが、十字架(じゅうじか)()(しめ)し、「わたしの(なが)した()によってあなたの(つみ)(ゆる)された」と宣言(せんげん)しておられます(26:28)。この(あがな)いの()に、わたくしたちも()んでなお(あずか)らせて(いただ)けるのです。ただ(しゅ)イエスによって、わたくしたちも(かみ)()とする契約(けいやく)(はい)らせられる。死んでなおここから(はじ)まる(いのち)を、(かみ)さまはわたくしたちに(そな)えて(くだ)さいました。

2015年10月4日日曜日

「執り成す者の幸い」マタイによる福音書5:21-26


「まず()って兄弟(きょうだい)仲直(なかなお)りをし、それから(かえ)って()て、(そな)(もの)(ささ)げなさい。あなたを(うった)える(ひと)一緒(いっしょ)(みち)()場合(ばあい)途中(とちゅう)(はや)和解(わかい)しなさい」そう(しゅ)イエスは()います。たしかに、兄弟(きょうだい)隣人(りんじん)他者(たしゃ)との問題(もんだい)(すべ)解決(かいけつ)し、清廉(せいれん)潔白(けっぱく)()(かみ)さまの(まえ)()つことを(ねが)います。ただ、そのような相手(あいて)簡単(かんたん)和解(わかい)できるとは(おも)えません。わたくしたちは他者(たしゃ)との関係(かんけい)において、そのようなすっきりとした(こた)えを相手(あいて)から()るのは困難(こんなん)(おも)います。むしろその関係(かんけい)において()()くしているのではないでしょうか。その(なか)でわたくしたちは(かみ)さまを(れい)(はい)しています。それは(しゅ)イエスの(おし)えと(はん)することかもしれません。しかしわたくしたちは、そうせざるを()ない。それは(しゅ)イエス・キリストこそが、このわたくしたちのどうにもできないでいる兄弟(きょうだい)との関係(かんけい)解決(かいけつ)へと(みちび)いてくださると(しん)じるからです。
この(しゅ)イエスは、(うえ)から(ささ)えるのではありません。
わたくしたちはと()えば仲裁(ちゅうさい)なら、仲直(なかなお)りすべき相手(あいて)自分(じぶん)よりも(おお)きな(ちから)()つの(ひと)に、()()しを(もと)めます。たとえば、同僚(どうりょう)との関係(かんけい)なら先輩(せんぱい)上司(じょうし)にお(ねが)いするようにです。そこでは、(うえ)からの()()しを(もと)めていると()えます。またそこで期待(きたい)するのは、(たが)いの()(てん)(みと)めあって仲裁(ちゅうさい)()()つことです。
(しゅ)イエスは(した)からわたくしたちを(ささ)えておられます。(しゅ)イエスは(かみ)()でありながら、()すべき(ひと)となってくださいました。(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()をもって、()すべきわたくしたちの()(つか)えてくださったのです。腹立(はらだ)たしい、ばかで(おろ)かと(おも)えるこの自分(じぶん)(てい)(へん)にまでへりくだってくださり、「そのあなたは()い」と御覧(ごらん)になっている。それは、ご自身(じしん)によって(かみ)さまの(まえ)()たされるべきわたくしたちが、この自分(じぶん)底辺(ていへん)にいるからです。(しゅ)イエスはわたくしたちを(した)から(ささ)え、(かみ)さまに(たい)()()しておられる。(かみ)さまは()すべき(もの)を、わたくしたちが(こころ)(ころ)したままにしておかれないのです。