2015年9月27日日曜日

「神に信頼する者の幸い」マタイによる福音書5:17-20


「すべてのことが実現(じつげん)し、天地(てんち)()えうせるまで、律法(りっぽう)文字(もじ)から一(てん)(かく)()()ることはない」。わたくしたちが()きるにも()ぬにも、()(まえ)にしても、(かみ)さまはご自身(じしん)(まえ)()()われる、と(しゅ)イエスは()います。
()(まえ)(かみ)との真剣(しんけん)対話(たいわ)(もと)められます。こちらも(かみ)さまに()い、(かみ)さまの()(もと)めます。なぜこうしてわたしは()ぬのか。(なん)のためこの不自由(ふじゆう)(つづ)くのか。この(いのち)(つく)った(かみ)生死(せいし)支配(しはい)する(かみ)(ただ)しさを(もと)めます。
そこでなお、この()(かみ)祝福(しゅくふく)し、(かみ)祝福(しゅくふく)(みち)をなお(そな)える事実(じじつ)()()められるなら(さいわ)いです。ただわたくしたちは、それほど(つよ)(こころ)でいられない。わたくしたちを祝福(しゅくふく)する(かみ)(たい)し、()()()ざしてしまうことがないとはとても()えません。そのわたくしたちが、(しゅ)(とも)におられる、と()ることは、(なん)としても(ひつ)(よう)です。そのわたくしたちのところに、(しゅ)イエス・キリストが()たのですから。
わたくしたちの(しゅ)が、十字架(じゅうじか)()において、わたくしたちにはなし()ない、(かみ)(たい)する()()たしてくださいました。(かみ)さまは(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させて、この(かた)の、十字架(じゅうじか)(ささ)げた(いのち)が、「律法学者(りつほうがくしゃ)やファリサイ()人々(ひとびと)()にまさる」ものであることを、証明(しょうめい)してくださいました。この(しゅ)イエス・キリストが、()(まえ)()()彷徨(さまよ)うわたくしたちの、まことの(しゅ)として、わたくしたちのところに()ました。この()に、(しゅ)イエスが()たしてくださった()()たされるためにです。ご自身(じしん)によって(てん)(くに)(はい)らせ、ご自身(じしん)によって律法(りっぽう)預言者(よげんしゃ)聖書(せいしょ)(おし)えをわたくしたちのこの()()たし完成(かんせい)してくださいます。わたくしたちのところにやって()たこの(しゅ)イエス・キリストに、ただ信頼(しんらい)することこそ、(てん)(くに)(はい)(みち)です。(しゅ)イエス・キリストは()られました。(てん)(くに)はこの(かた)においてやって()ました。わたくしたちのまことの(しゅ)によって、わたくしたちも、(てん)(くに)へと(はい)らせられるのです。

2015年9月20日日曜日

「あなたの光が輝くため」マタイによる福音書 5:13-16


「あなたがたの(ひかり)人々(ひとびと)(まえ)(かがや)かしなさい」と(しゅ)イエスは()います。(かみ)さまは(しゅ)イエス・キリストを(あた)え、わたくしたちの(いのち)(ひかり)(とも)してくださいました。この(ひかり)自分(じぶん)(とも)したのではありません。すぐ()すために()をつけたのではありません。(しゅ)イエスによって(かみ)さまの(まえ)永遠(えいえん)()きる(いのち)をわたくしたちは(いただ)いたのです。その(いのち)(かがや)きをそのまま(かがや)かすことを(しゅ)イエスは(もと)めます。
換言(かんげん)すれば、(かみ)さまは御自身(ごじしん)(うつ)()(かがみ)として、わたくしたちに(いのち)を与えてくださいました。(かみ)さまの(ひかり)()びて、その(かがや)きを(うつ)()(かがみ)として、(しゅ)イエスは(かみ)さまの(まえ)にわたくしたちを()たせます。(かがみ)ですから、相手(あいて)(ほう)()いてこそ、(ただ)しく(うつ)()すことが出来(でき)ます。(かみ)さまが(かがや)いておられるのを、(かがみ)であるわたくしたちが(うつ)()すのであり、(かみ)さまがともし()をわたくしたちに(とも)してくださるから、わたくしたちは(かがや)くのです。
ならば、人々(ひとびと)(たい)する(かがや)きは、(かみ)さまに(たい)して(はな)(かがや)きと(こと)なるものではありません。(かみ)さまの(まえ)(かがや)くことなく、人々(ひとびと)(まえ)(かがや)くことなど、出来(でき)るでしょうか。むしろ(かみ)さまの(まえ)(しゅ)イエスがわたくしたちを()たせておられるので、その(かがや)きが人々(ひとびと)(まえ)へと(うつ)()されるのです。
まず、(かみ)さまの(まえ)塩味(しおあじ)のある(しお)として()たされ、(かがや)きを(はな)(もの)として()たされる。それが、わたくしたちが(まね)かれる礼拝(れいはい)です。(しゅ)イエスは礼拝(れいはい)においてご自身(じしん)復活(ふっかつ)をわたくしたちに(あか)しし、わたくしたちがこの(かた)によって(かみ)さまに()(もど)されたことを()()らせ、「あなたがたは()(しお)である」「あなたがたは()(ひかり)である」と宣言(せんげん)しておられます。
これは、地上(ちじょう)元気(げんき)なうちだけ()われるのではありません。(なに)出来(でき)なくなってしまったその(とき)にも(しゅ)イエスによって(かた)()けられています。(なに)出来(でき)るわけではないこの()を、(てん)(ちち)なる(かみ)さまの(まえ)()たせる(しゅ)イエス・キリストが、わたくしたちと(とも)にいます。わたくしたちは真心(まごころ)をもってこの(かた)信頼(しんらい)し、()(しお)()(ひかり)として()ててくださる(しゅ)イエスへと、この()をお(ささ)げしてまいるのです。

2015年9月13日日曜日

「義に飢え渇く人々は幸い」マタイによる福音書5:1-12


()()(かわ)人々(ひとびと)は、(さいわ)いである、その(ひと)たちは()たされる」と(しゅ)イエスは()います。()は、わたくしたちを祝福(しゅくふく)する(かみ)さまに(たい)する、わたくしたちの姿勢(しせい)()います。(かみ)さまは、わたくしたちを祝福(しゅくふく)しておられます。その祝福(しゅくふく)(たい)(ただ)しい関係(かんけい)をわたくしたちに(もと)めます。その関係(かんけい)旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)律法(りっぽう)(あらわ)されており、(かみ)(あい)(ひと)(あい)するという関係(かんけい)が、その中心(ちゅうしん)です。ただ、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)(たい)するわたくしたちの姿勢(しせい)は、なお(かみ)さまから祝福(しゅくふく)()けなければ、(かみ)さまへと()(なお)りません。(かみ)さまがわたくしたちの姿勢(しせい)(ただ)してくださるので、(かみ)さまへと()(なお)れるのです。そのため(かみ)さまは(しゅ)イエスをわたくしたちに(あた)えてくださいました。この(しゅ)イエスを()()れ、(かみ)さまとの関係(かんけい)(ただ)しくなることを、(しゅ)イエスは(もと)めます。
しかしそれに()(かわ)くとはどういうことでしょうか。(あき)らかなのは、この人々(ひとびと)自分(じぶん)たちや自分(じぶん)(まわ)りに()がないと()ているということです。
なぜわたしはこのように()きねばならないのか、なぜわたしはこう()なねばならないのか、という()いがあります。()きる価値(かち)()価値(かち)見出(みいだ)せない。だから()きるのも()ぬのも、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)のもとにあるとは(おも)えない。そこでわたくしたちは(かみ)さまとの(ただ)しい関係(かんけい)危機(きき)(さら)されています。
()()えれば、(かみ)さまの()()うているのです。なぜ(かみ)さまは(ただ)しい御方(おかた)なのに、わたしがこのように()きねばならないのか、わたしがこう()なねばならないのか、と。そこに(かみ)さまの()(かみ)さまの(ただ)しさが(しめ)されることが、(なん)としても必要(ひつよう)です。そうでなければ、わたくしたちはなお()きても()んだようであり、その価値(かち)見出(みいだ)せず()(かわ)き、()つところを見失(みうしな)います。
ですが(しゅ)イエスは(さいわ)いだと()います。それは、(しゅ)イエスが()たからです。わたくしたちのために十字架(じゅうじか)()んでくださった(しゅ)イエスが()たからです。()きるにも()ぬにも、わたくしたちの責任(せきにん)()い、(とも)にいてくださる(しゅ)イエスが、わたくしたちを(かみ)さまとの(ただ)しい関係(かんけい)へと(みちび)きます。その関係(かんけい)(まっと)うされる(てん)(くに)にわたくしたちを()たせてくださるのです。