2015年8月30日日曜日

「あなたに呼び掛ける声」マタイによる福音書4:18-25


(しゅ)イエスは、漁師(りょうし)であるペトロとアンデレに()いました。「わたしについて()なさい。人間(にんげん)をとる漁師(りょうし)にしよう」と。わたし(しゅ)イエスがあなた(がた)を、人間(にんげん)をとる漁師(りょうし)にする、「わたしがあなた(がた)をそうする」と()います。つまり、「人間(にんげん)をとる漁師(りょうし)」としてペトロたちをそこに()たせる責任(せきにん)を、(しゅ)イエスが()っているのです。そこにおいては、(なに)か、(ほか)(ひと)から称賛(しょうさん)されるかどうかとか、失敗(しっぱい)したらどうしようとか、そのような、(なに)自分(じぶん)自分(じぶん)()てなくてはならないという責任(せきにん)()げつけられているのではありません。むしろそのような自己責任(じこせきにん)から()(はな)命令(めいれい)(しゅ)イエスはここで(あた)えておられるのです。
(しゅ)イエスは「わたしがあなた(がた)をそうする」と()います。たとえわたくしたちが()(たお)されても、なおこの()(しゅ)のご(よう)のために()ててくださる()(かた)が、(とも)におられます。「わたしについて()なさい」「あなたがたは、わたしの(あと)()なさい」という()()けは、なおこの()(しゅ)のご(よう)のために()ててくださる、()えることのない()()けとして、(しゅ)イエスから(とど)けられています。(しゅ)イエスの(あと)(したが)うということは、ご自身(じしん)のご(よう)のため、この()をなお()ててくださる御方(おかた)への、()えることのない信頼(しんらい)()きるということです。
(かみ)さまは(なん)のため自分(じぶん)(いのち)(つく)ったのか。(なん)(はたら)きのため自分(じぶん)()しておられるのか。その(かみ)さまの()しにかなった(みち)(あゆ)ませるため、(しゅ)イエスが()()けます。その(みち)が、意味(いみ)のある、わたくしたちを()かす希望(きぼう)(みち)であることを、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()げています。(しゅ)イエスはご自身(じしん)()からの復活(ふっかつ)(あか)しして、たとえわたくしたちが()(たお)されても、なおこの()をご()(しん)のご(よう)のために()()がらせる(かみ)がおられることを、(あき)らかにされました。()(むか)えるわたくしたちの(いのち)に、なお(あと)(したが)()かせるべく()()ける御方(おかた)(とも)におられます。わたくしたちの(いのち)はその誕生(たんじょう)から、根本(こんぽん)から、すべて(つく)(ぬし)祝福(しゅくふく)(とも)にあり、まさに(きた)らんとする(いのち)()途上(とじょう)にあるのです。この(かた)()()ける(こえ)(したが)って、わたくしたちもこの(かた)(あと)を、なお(あゆ)ませて(いただ)けるのです。

2015年8月23日日曜日

「死の陰の地に射した光」マタイによる福音書4:12-17


(しゅ)イエスはガリラヤ地方(ちほう)(かえ)って「()(あら)めよ、(てん)(くに)(ちか)づいた」と()(つた)えました。この()()けは、(なに)漠然(ばくぜん)とした言葉(ことば)漠然(ばくぜん)とした相手(あいて)()けられているのではありません。わたくしたちの(しゅ)イエスが、「あなたは(かみ)()(かえ)れ」と()()けています。
それは、(しゅ)イエスが、わたくしたちの(せい)をあきらめていないからです。(つく)(ぬし)なる(かみ)さまと(とも)にある(いのち)をあきらめていないからです。(しゅ)イエスはわたくしたちを、()()かって()わる(せい)から、()()えて(つく)(ぬし)(とも)にある(せい)へと()かします。わたくしたちを(てん)(くに)永遠(えいえん)(いのち)()かすことを、(しゅ)イエスはあきらめておられません。
この(しゅ)イエスは、十字架(じゅうじか)()において、わたくしたちの(いのち)代価(だいか)支払(しはら)った(かた)です。「(ひと)()が、(つか)えられるためではなく(つか)えるために、また、(おお)くの(ひと)身代金(みのしろきん)として自分(じぶん)(いのち)(ささ)げるために()た(20:28)」。そう(しゅ)イエスはご自身(じしん)(あか)しします。この(しゅ)イエスが、わたくしたちの(いのち)をあきらめていない。
()(あらた)めよ」との命令(めいれい)は、この(おも)いから(かた)られています。わたくしたちの(いのち)(つく)(ぬし)(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、わたくしたちをご自身(じしん)(まえ)に、ご自身(じしん)(とも)に、永遠(えいえん)()かそうとしておられる。この(ちち)なる(かみ)さまの(おも)いに()(かえ)るように。わたくしたちが()(おわ)わる(せい)埋没(まいぼつ)することから、(しゅ)イエスは永遠(えいえん)(いのち)へとわたくしたちを()()しておられるのです。
ただそのわたくしたちも、(かみ)さまの(おも)いからすぐに(はな)れてしまいます。暗闇(くらやみ)()み、()(かげ)()()むほかない、()んで(おわ)わりの(いのち)(おちい)ってしまう。ですからわたくしたちは、この(いのち)(つく)った(かみ)さまの(おも)いを、なおも()ることが必要(ひつよう)です。()(かえ)()かされることが、(なん)としても必要(ひつよう)です。(しゅ)イエスはわたくしたちの(いのち)をあきらめておられません。その(しゅ)イエスがわたくしたちを礼拝(れいはい)へと(まね)き、ご自身(じしん)十字架(じゅうじか)での()と、()からの復活(ふっかつ)()(つた)えておられます。わたくしたちの(せい)は、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)(ひかり)(なか)()れられています。この事実(じじつ)()(つづ)ける(さいわ)いを、(しゅ)イエスはご自身(じしん)におこされた(かみ)のご支配(しはい)()(つた)え、わたくしたちに(あた)えておられるのです。

2015年8月16日日曜日

「あなたの神を拝み仕えよ」マタイによる福音書4:1-11


(しゅ)イエスは()()悪魔(あくま)から誘惑(ゆうわく)()けました。「(かみ)()なら、これらの(いし)がパンになるように(めい)じたらどうだ」と。これに(たい)(しゅ)イエスは()います。「『(ひと)はパンだけで()きるものではない。(かみ)(くち)から()る一つ一つの言葉(ことば)()きる』(申命記8:3)と()いてある」と。しかしこのような(かんが)えは(なに)熱狂(ねっきょう)じみて、理想(りそう)()いかけ()ぎのようにわたくしたちは()えるかもしれません。
ただこれらは、()(まえ)にしたわたくしたちにとって、現実(げんじつ)のこととして()こえてきます。明日(あす)どうなるかなど(わか)らない(いのち)()きるわたくしたちにとっては、パンだけではなく、(かみ)言葉(ことば)こそが必要(ひつよう)です。
(しゅ)イエスもそうでした。十字架(じゅうじか)(まえ)にした(ばん)(しゅ)イエスはゲツセマネで(てん)(ちち)なる(かみ)さまに(いの)りました。そこで(もと)めたのは、(かみ)さまの言葉(ことば)です。(ちち)なる(かみ)さまの御心(みこころ)です。「(ちち)よ、できることなら、この(さかずき)をわたしから()()らせてください。しかし、わたしの(ねが)いどおりではなく、御心(みこころ)のままに(26:39)」。たしかに、このときもわたくしたちはお(なか)()るでしょうし、パンを()べねば(はじ)まらないことでしょう。ですがそこで()べて()たされても、満足(まんぞく)しません。()きるために()きる(もの)にはパンが必要(ひつよう)ですが、()ぬために()きる(もの)には、(かみ)言葉(ことば)必要(ひつよう)です。わたくしたちの(いのち)となる(かみ)さまの言葉(ことば)が、この自分(じぶん)()(さき)からやって()必要(ひつよう)があります。
そのわたくしたちのために、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させ、わたくしたちが()()えて(あずか)(いのち)(あきら)らかにしてくださいました。(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)によって、わたくしたちの()(さき)からこの()へと、(かみ)言葉(ことば)(あたえ)えてくださったのです。
わたくしたちの()(さき)(かみ)さまが、希望(きぼう)(そな)えておられます。(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)において(しめ)された、(いのち)希望(きぼう)です。この希望(きぼう)()かす(かみ)言葉(ことば)として、(しゅ)イエスはわたくしたちの()()えてわたくしたちと(とも)におられます。この言葉(ことば)によって(かみ)さまは(しゅ)イエス・キリストと(とも)にある(あたら)しい(いのち)をこのところから(はじ)めてくださるのです。

2015年8月9日日曜日

「失って得る命の到来」マタイによる福音書3:13-17


(しゅ)イエスは(めい)じました。「あなたがたは()って、すべての(たみ)をわたしの()()にしなさい。(かれ)らに(ちち)()聖霊(せいれい)()によって洗礼(せんれい)(さず)け、あなたがたに(めい)じておいたことをすべて(まも)るように(おし)えなさい(28:19,20)」。
教会(きょうかい)洗礼(せんれい)(さず)ける根拠(こんきょ)(しゅ)イエスが(めい)じたからに(ほか)なりません。ただそのことは、(つみ)ある(もの)()に、(しゅ)イエスが洗礼(せんれい)(さず)けるよう(めい)じた、ということでもあります。
その、わたくしたちが()ける洗礼(せんれい)を、このとき(しゅ)イエスはヨハネから()けました。ヨハネも、(しゅ)イエスによって(つみ)から(すく)われなければならない(たみ)一人(ひとり)です。しかしこのヨハネから、(つみ)なき(しゅ)イエスが洗礼(せんれい)()けました。そしてわたくしたちは、この(しゅ)イエスが()けた洗礼(せんれい)()けます。(しゅ)イエスは、わたくしたちと(とも)洗礼(せんれい)()け、わたくしたちに(つか)えておられるのです。
わたくしたちが信仰(しんこう)告白(こくはく)するときには、(しゅ)イエスが(ちち)なる(かみ)さまから「わたしの(あい)する()」と()ばれたように、わたくしたちも(かみ)(あい)する()とされて、信仰(しんこう)告白(こくはく)します。このわたくしたちと(とも)(しゅ)イエスがおられます。わたくしたちに(つか)え、わたくしたちと(とも)(しゅ)イエスが告白(こくはく)してくださいます。(しゅ)イエスが(かみ)(あい)する()であり、この(しゅ)イエスがわたくしたちに(つか)えてくださるので、わたくしたちも、(ちち)よと()べるのです。
わたくしたちは、(なに)も、()()せるところなく孤独(こどく)生涯(しょうがい)(おく)り、()んでゆくのではありません。むしろ(かみ)(あい)する()として、(かみ)との(まじ)わりに()かし、()()えてわたくしたちを(あら)たに()かす(しゅ)イエス・キリストが(とも)にいます。その(しゅ)イエスが(けつ)してわたくしたちを見捨(みす)てないことを、(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()をもって(あかし)してくださいました。そして(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、この御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させて、御父(みちち)御子(みこ)との(まじ)わりが()によっても途絶(とだ)えないことを(あか)してくださいました。(しゅ)イエスはわたくしたちの()()えてやって()られました。この御子(みこ)イエスと(とも)にあってわたくしたちも、()()えて(てん)(ちち)なる(かみ)さまに()()けられ、(かみ)(とも)にある永遠(えいえん)(いのち)()かされるのです。