2015年7月26日日曜日

「キリストと共に歩む」ヨハネによる福音書21:15-25


(しゅ)イエスはペトロに()いました。「あなたは、(わか)いときは、自分(じぶん)(おび)()めて、()きたいところへ()っていた。しかし、(とし)をとると、両手(りょうて)()ばして、()(ひと)(おび)()められ、()きたくないところへ()れて()かれる」。(しゅ)イエスはペトロの殉教(じゅんきょう)予告(よこく)します。
わたくしたちはペトロと(こと)なりますが、わたくしたちも、(みずか)らの肉体(にくたい)において()ぬということを、()けて(とお)れません。わたくしたちも、(わか)いときには()きたい(ところ)()っていても、(とし)をとると、()きたくないところへ()れて()かれることになる、と(みずか)らを()して()うことができます。
ただ、わたくしたちは、(なに)絶望(ぜつぼう)虚無(きょむ)()かってひとり()れて()かれるというのではありません。十字架(じゅうじか)()んで死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスが、(とも)におられます。この(しゅ)がわたくしたちの大牧者(だいぼくしゃ)です。わたくしたちのすべてを()り、その(うえ)見捨(みす)てることなく、()きるにも()ぬにもわたくしたちと(とも)におられます。
わたくしたちの(いのち)(つく)(ぬし)(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、お(つく)りになった(いのち)責任(せきにん)(まっと)うしてくださいます。(かみ)さまの御心(みこころ)(ひと)()(しゅ)イエスを(しん)じる(もの)が、ひとりも(ほろ)びないで、永遠(えいえん)(いのち)()ることです(3:16)。(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させ、この(ひと)()が、()んでなお(てん)(ちち)なる(かみ)さまから()(はな)されなかったことを、(あき)らかにしてくださいました。この(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)において(あらわ)された、永遠(えいえん)(いのち)()かって、わたくしたちは(みずか)らの()においても、この()()()すことを(ゆる)されているのです。
わたくしたちは、自分(じぶん)()けてこの()(しゅ)イエスにおささげしますから、(しゅ)イエスを(しん)じる責任(せきにん)自分(じぶん)にあると(かんが)えるかもしれません。ただ一方(いっぽう)で、自分(じぶん)(よわ)さや()けをおぼえ、(しゅ)イエスを(しん)じると()いながら(やぶ)れを(かか)(あゆ)んできたかもしれません。しかしそのわたくしたちのところに(しゅ)イエスは()ておられます。(やぶ)れを(かか)えるわたくしたちの、この(いのち)責任(せきにん)(しゅ)イエスが()ってくださいます。復活(ふっかつ)の主イエスは、()きるにも()ぬにもわたくしたちと(とも)(あゆ)んでくださるのです。

2015年7月19日日曜日

「神からの命の食べ物」ヨハネによる福音書21:1-14


(あみ)は、(おお)きな(さかな)でいっぱいでした。ペトロが(りく)()()げてみると、(さかな)は百五十三(ひき)もありました。しかも、(あみ)(やぶ)れていません。(おどろ)きのあまり()()まっている弟子(でし)たちに、(しゅ)イエスは()()けます。「さあ、()て、(あさ)食事(しょくじ)をしなさい」。
もう、(だれ)もわざわざ(しゅ)イエスに、「あなたはどなたですか」と()うことをしませんでした。この食卓(しょくたく)主人(しゅじん)(だれ)で、(なん)食卓(しょくたく)(あずか)っているのか、よく(わか)かっていたからです。(なに)()りないことがあるかのように、()必要(ひつよう)はありません。(かれ)らは(しゅ)イエスが(そな)えてくださった、(かみ)からの(いのち)()(もの)によって(やしな)われます。これは()()えますなら、「(しゅ)がおられるという出会(であ)いこそ、わたくしたちにとって(かみ)からの(いのち)()(もの)である」ということです。弟子(でし)たちが()わないのは、「(しゅ)がおられる」という出会(であ)いによって(かれ)らが()たされているからなのです。
(しゅ)イエスの(あい)しておられた弟子(でし)は、(おも)いも()けず大漁(たいりょう)(あた)えられ、「(しゅ)だ」「(しゅ)がおられる」と告白(こくはく)させられました。この告白(こくはく)は、「わたしはある」とご自身(じしん)(あらわ)してくださった(出エジプト記第三章)(しゅ)にお(こた)えする言葉(ことば)です。この告白(こくはく)をもたらす出会(であ)いをわたくしたちにも(あた)えようと、(かみ)さまは死者(ししゃ)(なか)から(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させて、「わたしはある」というご自身(じしん)(あか)ししてくださいました。(しゅ)イエスは礼拝(れいはい)へと(まね)き、聖書(せいしょ)言葉(ことば)(とお)して、ご自身(じしん)復活(ふっかつ)をわたくしたちに()()らせます。この(しゅ)との出会(であ)いは、(かみ)からの(いのち)()(もの)として、わたくしたちを()たします。
()きるにも()ぬにも、わたくしたちの(しゅ)として、(しゅ)イエス・キリストが(とも)におられる。その(しゅ)が、わたくしたちへと(かた)りかけ、「(しゅ)がおられる」(みち)へとわたくしたちを()()がらせておられます。(かみ)からの(いのち)食卓(しょくたく)用意(ようい)して、わたくしたちに()()け、礼拝(れいはい)へと(まね)(しゅ)がおられます。「わたしはある」とキリストの復活(ふっかつ)において宣言(せんげん)された(かみ)言葉(ことば)(まえ)にわたくしたちも()()がらされ、「(しゅ)がおられる」(みち)をまことに(しゅ)イエスと(とも)(すす)ませて(いただ)くのです。

2015年7月12日日曜日

「信じる人は幸いである」ヨハネによる福音書 20:24-31


(しゅ)イエスはトマスに()いました。「わたしを()たから(しん)じたのか。()ないのに(しん)じる(ひと)は、(さいわ)いである」。(しゅ)イエスは、十字架(じゅうじか)()んだご自身(じしん)(かみ)さまが死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させたと(しん)じることへ、わたくしたちを(みちび)きます。ただ、トマスのように、自分(じぶん)(しん)じるに()るしるしをわたくしたちも(ねが)うかもしれません。福音書(ふくいんしょ)は「このほかにも、イエスは弟子(でし)たちの(まえ)で、(おお)くのしるしをなさった」と()います。ですがそれら()かず、()いたことによって、目的(もくてき)()たそうとします。
つまり、ほかの()かれなかったしるしに意味(いみ)がないわけではないものの、ここに()かれたことこそ、わたくしたちが「イエスは(かみ)()メシアであると(しん)じるため」、また、「(しん)じてイエスの()により(いのち)()けるため」に意味(いみ)()つ、と強調(きょうちょう)します。このことを、トマスの()()(ごと)のすぐ(あと)(しる)しました。(ほか)にもしるしはあったけれども、それらを()ないで(しゅ)イエスのご復活(ふっかつ)(しん)じることを、福音書(ふくいんしょ)(もと)め、そこに(さいわ)いがあると(あか)しします。
トマスはおそらく、このとき(しゅ)イエスに()れることはありませんでした。けれども、()れて()ろうとした以上(いじょう)のことを、(しゅ)イエスからトマスは(しめ)されました。トマスは(しゅ)イエスにひれ()して(さけ)びます。「わたしの(しゅ)、わたしの(かみ)よ」と。トマスは、復活(ふっかつ)させられた(しゅ)イエスのお姿(すがた)に、(てん)(ちち)なる(かみ)さまの御顔(おかお)()させて(いただ)きました。
()ないで(しん)じることへと(しゅ)イエスが(みちび)くのは、信仰(しんこう)(てん)から(あた)えられる賜物(たまもの)であるからです。納得(なっとく)しうるしるしを自分(じぶん)獲得(かくとく)したから(しん)じるというのではない。この、(てん)からの賜物(たまもの)(かみ)起源(きげん)をもつ信仰(しんこう)(あた)え、わたくしたちを(しん)じる(もの)とならせようと、(しゅ)イエス・キリストが(みちび)いておられます。
この(かた)は、礼拝(れいはい)において聖書(せいしょ)言葉(ことば)(かた)()かせ、不確(ふたし)かなわたくしたちの()(つか)(みちび)いておられます。わたくしたちがこの(かた)(しん)じるのは、ただこの(しゅ)イエスが(みちび)いておられることによります。(いま)だこの信仰(しんこう)告白(こくはく)するに(いた)らなかったときにも、「あなたのためにわたしイエスは()に、復活(ふっかつ)させられた」と()()らせ、()ずに(しん)じる(さいわ)いへと(みちび)いておられたのです。

2015年7月5日日曜日

「十字架の栄光」ヨハネによる福音書 19:31-42



(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)(うえ)(いき)()()られました。このとき、(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()によって、(かみ)さまを(しん)じ、(かみ)さまへと(みずか)らをおささげする(もの)たちが(あた)えられました。
アリマタヤ出身(しゅっしん)のヨセフは、(しゅ)イエスの弟子(でし)でありながら、ユダヤ(じん)たちを(おそ)れて、そのことをこれまで(かく)していました。その(かれ)が、総督(そうとく)ピラトのもとに(すす)()て、(しゅ)イエスのお(からだ)()()ろしたいと(ねが)います。ピラトはこれを(みと)め、(しゅ)イエスのお(からだ)をヨセフに()()らせます。
十字架(じゅうじか)から()()ろした(しゅ)イエスのお(からだ)(はか)(ほうむ)るのに、ニコデモも(すす)()ました。ニコデモはかつて、(よる)ひそかに(しゅ)イエスのもとを(たず)ねて()たことがあります。ユダヤ(じん)たちの()(いん)一人(ひとり)でしたが、(かれ)人目(ひとめ)をはばかって、(よる)(あいだ)(しゅ)イエスのもとを(たず)ねました。そのニコデモが、没薬(もつやく)沈香(じんこう)()ぜたものを百リトラ(およそ33キログラム)も()に入れて、(しゅ)イエスの(ほうむ)りのために()ってきました。
(かみ)からの(ほま)れ(栄光(えいこう))よりも、(にん)(げん)からの(ほま)れ(栄光(えいこう))の(ほう)(この)んだ(12:43)ヨセフとニコデモが、十字(じゅうじ)()()んだ(しゅ)イエスと出会(であ)い、(かみ)さまの栄光(えいこう)のために、大胆(だいたん)にも(みずか)らを()()したのです。
福音書(ふくいんしょ)記者(きしゃ)ヨハネもまた、(しゅ)イエスの()によって、(みちび)()されました。ヨハネは十字架(じゅうじか)()んだこの(しゅ)イエスが(かみ)()メシアであると(しめ)され、これが真実(しんじつ)であると(あか)しします。
真実(しんじつ)(やく)された言葉(ことば)(かみ)さまの(しん)()(あらわ)言葉(ことば)です。(かみ)さまの真理(しんり)人間(にんげん)()めつけることはできません。それでもヨハネは(みずか)らの(あか)しが真実(しんじつ)だと()います。(かみ)さまが、十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させることをもって、ヨハネにこの真理(しんり)(あか)ししてくださったゆえにです。
(かみ)さまはヨハネ、ヨセフ、ニコデモを十字架(じゅうじか)(しゅ)イエスの(まえ)()たせ、この御方(おかた)(かみ)()メシアとお(しめ)しくださいました。そして十字架(じゅうじか)(しゅ)にあって(みずか)らをご自身(じしん)へとささげる(もの)たちを復活(ふっかつ)(しゅ)イエスの(いのち)(あずか)らせます。この十字架(じゅうじか)(しゅ)(まえ)に、(かみ)さまはわたくしたちをも(まね)いておられます。