2015年6月28日日曜日

「成し遂げられた償い」ヨハネによる福音書 19:28-30


(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)(うえ)で、すべてのことが(いま)()()げられたのを御覧(ごらん)になりました。そして、ヒソプの(えだ)()()された()いぶどう(しゅ)()けとり、「()()げられた」と()って、(あたま)()れて(いき)()()られました。
この十字架(じゅうじか)()()()った人々(ひとびと)はヒソプを()て、過越(すぎこし)小羊(こひつじ)(ほふ)られるその()(しゅ)イエスが十字(じゅうじ)()()んだことを(つよ)(おぼ)えさせられました。この、過越祭(すぎこしさい)準備(じゅんび)()、ヒソプはエルサレムのどの家庭(かてい)にもありました。正午(しょうご)には神殿(しんでん)祭司(さいし)らが(きず)のない一(さい)小羊(こひつじ)(ほふ)ります。その(ほふ)られた小羊(こひつじ)()を、ヒソプの(えだ)(いえ)入口(いりぐち)()ります((しゅつ)エジプト()12:21)ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)は、この十字架(じゅうじか)(しゅ)イエスを、()(つみ)()(のぞ)(かみ)小羊(こひつじ)として、(かみ)さまが(てん)からお(つか)わしくださった、と(あか)します。
(しゅ)イエスは(いき)(ひき)()られました。ここで原文(げんぶん)には「(れい)()(わた)した」という言葉(ことば)使(つか)われています。(しゅ)イエスはご()(しん)(れい)を、(てん)(ちち)なる(かみ)さまに(わた)されました。その(せい)なる(れい)を、(ちち)なる(かみ)さまは、御子(みこ)イエスの復活(ふっかつ)()(つた)えることにおいて、わたくしたちに(そそ)いでおられます。(ちち)なる(かみ)さまはわたくしたちをも、御子(みこ)(じゅう)字架(じか)による(つぐな)いに(あずか)らせ、(しゅ)イエスの(まな)()しへと()()げておられるのです。
(しゅ)イエスは「すべてのことが(いま)()()げられた」と、わたくしたちを()(らん)です。この(しゅ)イエスの(まな)()しの(なか)を、(かみ)さまはわたくしたちに(あゆ)ませます。わたくしたちは、(ほろ)ぼされるままに(ほろ)ぼされて()わってしまうのではありません。()()えて、完成(かんせい)へと()かって、永遠(えいえん)(いのち)()かす(かみ)が共におられます。「永遠(えいえん)(いのち)とは、唯一(ゆいいつ)のまことの(かみ)であられるあなたと、あなたのお(つか)わしになったイエス・キリストを()ることです(17:3)」と(しゅ)イエスは(まえ)(ばん)()いました。(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、ご自身(じしん)御子(みこ)イエスを十字架(じゅうじか)()()(わた)してまで、わたくしたちを(すく)おうとされました。(いま)礼拝(れいはい)へとわたくしたちを(まね)き、御子(みこ)十字架(じゅうじか)()からの復活(ふっかつ)をわたくしたちに()()らせ、わたくしたちへと()()した永遠(えいえん)(いのち)(あかし)しておられます。

2015年6月7日日曜日

「あなたを救う神の真理」 ヨハネによる福音書 18:28-40


(しゅ)イエスは()いました。「わたしは真理(しんり)について(あか)しをするために()まれ、そのためにこの()()た。真理(しんり)(ぞく)する(ひと)(みな)、わたしの(こえ)()く」と。(しゅ)イエスが(あか)しをした真理(しんり)とは(なん)でしょうか。この(かた)はこう()ったことがあります。「わたしは(みち)であり、真理(しんり)であり、(いのち)である。わたしを(とお)らなければ、だれも(ちち)のもとに()くことができない(14:6)」と。御子(みこ)イエスご自身(じしん)こそ真理(しんり)であり、この(かた)(とお)って(ちち)なる(かみ)のもとに()く、()()えて永遠(えいえん)(いのち)(いた)(みち)が、わたくしたちにも(ひら)かれている、と()います。
この(しゅ)イエスがわたくしたちを(すく)(かみ)さまの真理(しんり)であることを、(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させて、(あか)ししてくださいました。(しゅ)イエスはご自身(じしん)生涯(しょうがい)(とお)して、また、復活(ふっかつ)させられたご自身(じしん)弟子(でし)たちに(あら)わすことにおいて、この真理(しんり)(あか)ししました。これは、わたくしたちの(いのち)(つく)(ぬし)である(かみ)さまの、わたくしたちへと(そな)えた真理(しんり)であり、(いま)(しゅ)イエス・キリストの十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)()()らされることにおいて、この真理(しんり)はわたくしたちへと()()されています。
(しゅ)イエスは()います。「真理(しんり)(ぞく)する(ひと)(みな)、わたしの(こえ)()く」。真理(しんり)真理(しんり)であるからには、(だれ)にとっても真理(しんり)であるはずです。ですがその真理(しんり)自分(じぶん)()かす真理(しんり)でないなら、わたくしたちはその(まえ)()てません。わたくしたちにとってそのような真理(しんり)直面(ちょくめん)しないほうがよいでしょう。それを()かないようにして、なかったようにして、どこか(べつ)のところに()(ほか)ありません。ただ、(ほか)のどこに()つのでしょうか。人間(にんげん)否定(ひてい)できるような真理(しんり)真理(しんり)ではありませんし、この()(すく)真理(しんり)()き、この(まえ)()つことが、やはりわたくしたちには必要(ひつよう)です。
そのわたくしたちを()かし()()がらせる真理(しんり)が、わたくしたちへと(とど)けられています。(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させた、(いのち)(つく)(ぬし)なる(かみ)さまのわたくしたちへの真理(しんり)です。この真理(しんり)(ぞく)する(もの)とされ、(しゅ)イエスの言葉(ことば)()くことにおいてこそ、わたくしたちは(いのち)()るのです。