2015年5月24日日曜日

「神による救いの表明」ヨハネによる福音書 18:15-27


(しゅ)イエスは()(わた)された(よる)大祭司(だいさいし)から尋問(じんもん)されて()いました。「わたしは、()()かって公然(こうぜん)(はな)した」。「わたしが(なに)(はな)したかは、それを()いた人々(ひとびと)(たず)ねるがよい。その人々(ひとびと)がわたしの(はな)したことを()っている」。(しゅ)イエスはご自身(じしん)()いた(もの)たちによって、ご自身(じしん)について証言(しょうげん)することを(もと)めます。大祭司(だいさいし)屋敷(やしき)でもそうならば、ペトロが(しゅ)イエスについて証言(しょうげん)することを(もと)められています。しかし、ペトロは自分(じぶん)(しゅ)イエスの弟子(でし)ではない、と()います。まして、(しゅ)イエスが()(すく)(かみ)()であるとは証言(しょうげん)しませんでした。御後(みあと)(したが)うことを(みずか)(ちか)ったペトロですが、(かれ)(おも)(どお)りにはなりませんでした。(しゅ)イエスは(さき)()っていました。「(にわとり)()くまでに、あなたは三()わたしのことを()らないと()うだろう」と。
けれども、そのような弟子(でし)たち、(しゅ)イエスの(おし)えを()いた(もの)たちを(とお)して、なお、(しゅ)イエスはご自身(じしん)とご自身(じしん)(つか)わした(ちち)なる(かみ)さまの(おも)いを、()(つた)えようとしました。そしてこれは、(てん)(ちち)なる(かみ)さまのご意志(いし)でもありました。このため、(ちち)なる(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ御子(みこ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させ、弟子(でし)たちに復活(ふっかつ)(しゅ)イエスとの出会(であ)いを(あた)えます。(しゅ)イエスは復活(ふっかつ)されたご自身(じしん)弟子(でし)たちに(あら)わし、聖霊(せいれい)(そそ)いでくださいました。
(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)は、()()かって()げられた、(かみ)による(すく)いの表明(ひょうめい)です。わたくしたちの(いのち)(つく)(ぬし)である(かみ)さまは、ユダヤ(じん)のみならず「()()かって公然(こうぜん)と」、(つく)られたわたくしたちを(すく)うというご意志(いし)(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)において(あらわ)してくださいました。
(いま)や、この(かみ)さまの(おも)いを実現(じつげん)するため、わたくしたちのところまで(しゅ)イエスは()てくださり、ご自身(じしん)十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)()(つた)えておられます。主イエスは「この(かた)こそ()(すく)(かみ)()キリストである」と告白(こくはく)する(みち)にわたくしたちを()()がらせてくださいます。この(こえ)()くわたくしたちを、()()えて()()がらせてくださいます。(しゅ)イエスがわたくしたちの(しゅ)として御後(みあと)(したが)わせ、永遠(えいえん)(いのち)(みち)(ともな)ってくださるのです。

2015年5月17日日曜日

「屠られた神の小羊」ヨハネによる福音書 18:1-14


ヨハネによる福音書(ふくいんしょ)は、(しゅ)イエスが十字架(じゅうじか)()んだ()が、過越祭(すぎこしさい)でささげる小羊(こひつじ)(ほふ)()であったと(つた)えます(13:1)。(しゅ)イエスは(ほふ)られた(かみ)小羊(こひつじ)として、十字架(じゅうじか)()をもって(かみ)さまにご自身(じしん)をささげられたのです。
過越祭(すぎこしさい)はイスラエルの人々(ひとびと)(しゅつ)エジプトを記念(きねん)する(まつり)です。エジプトでイスラエルの人々(ひとびと)支配(しはい)していたファラオの()から(かれ)らを解放(かいほう)するため、(かみ)さまは数々(かずかず)(わざわ)いを()こし、その最後(さいご)に、エジプト(じゅう)初子(ういご)()つという(わざわ)いを()こします。その(よる)(かみ)さまはエジプトの(くに)(めぐ)り、初子(ういご)をすべて()たれました。けれども、イスラエルの人々(ひとびと)には(あらかじ)め、指導者(しどうしゃ)モーセを(とお)してこのように(おこな)うことが(もと)められていました。それは、この()(きず)のない一(さい)(おす)小羊(こひつじ)(ほふ)って、その()(いえ)()(ぐち)の二(ほん)(はしら)鴨居(かもい)()ること、その(よる)(にく)()()いて()べることです(出エジプト12)。この(いえ)()った()はしるしとなり、()()たならば、(かみ)さまはその()(ぐち)()()されます。(ほろ)ぼす(もの)(いえ)(はい)って()つことはないのです。
(しゅ)イエスは、この(ほふ)られた(かみ)小羊(こひつじ)として、ご自身(じしん)十字架(じゅうじか)でささげられました。(しゅ)イエスはご自身(じしん)言葉(ことば)()たされます。「あなたが(あた)えてくださった(ひと)を、わたしは一人(ひとり)(うしな)いませんでした(9)」「わたしが保護(ほご)したので、(ほろ)びの()のほかは、だれも(ほろ)びませんでした(17:12)」。(しゅ)イエスは十字架(じゅうじか)()において、わたくしたちを(ほろ)ぼす(もの)から(まも)るべく、(みずか)らを(かみ)さまに()(わた)されたのです。
この(しゅ)イエスを(かみ)さまは死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させました。この復活(ふっかつ)において(かみ)さまは、ご自身(じしん)(ひと)()イエスを十字架(じゅうじか)()()(わた)してまで、わたくしたち一人(ひとり)ひとりを(あい)しておられること、(ひと)()(しん)じる(もの)一人(ひとり)(ほろ)びないで、永遠(えいえん)(いのち)()ることを(3:16)、(あか)ししてくださいました。そしていよいよ、その(かみ)さまのご意志(いし)をわたくしたちのこの()約束(やくそく)すべく、御子(みこ)イエス・キリストの復活(ふっかつ)記念(きねん)する礼拝(れいはい)へとわたくしたちを(まね)き、この(かた)十字架(じゅうじか)()()からの復活(ふっかつ)()(つた)えておられます。

2015年5月3日日曜日

「あなたを聖とする神」ヨハネによる福音書 17:6-19

御子イエスはご自身へと父なる神さまが与えた者たちについて、「彼らを聖なる者としてください」と、父なる神さまに祈りました。そして「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」と十字架の死を前にしたご自身の思いを、ここで確認します。

ここで「ささげる」と訳された言葉と「聖なる者とする」と訳された言葉は同じです。口語訳聖書ではどちらも「聖別する」と訳されました。「ささげる」という訳は「聖なる者とする」という言葉を知る上で助けとなります。旧約聖書において聖とは天地創造の神の本質を表し、誰かを聖別するということはすなわち、その人を神のために取り分けて、神のものとして神へとささげることを意味するからです(たとえばレビ記20:26)。

わたくしたちの命を造られた神さまは聖なる御方です。御子イエスもこの祈りの中で、「聖なる父よ」と呼び求めます。ただ、この神さまが聖であるということは、なにか聖なる御方としてわたくしたちとは関係のないどこかにいるということを意味するのではありません。むしろ、わたくしたちの命の造り主なる神さまは、聖なる者ではなかったわたくしたちのところへとやって来られ、御手を伸ばして、わたくしたちへと関わることを願います。もし、神さまが単独で聖なる方としてあり続けることを望むのなら、そうなさるでしょう。わたくしたちに知られることもなく、関わりを持つこともなく、どこかで聖なる方としておられれば良かったのです。
ですが、わたくしたちの命を造られた神さまは、そうではありません。お造りくださったわたくしたち一人ひとりを追い求め、捜し出し、ご自身のもの、聖なる者として、神さまの前に立たせる御方です(創世記3:9)。

「彼らを聖なる者としてください」と御子イエスは父なる神さまに祈ります。造り主なる神さまが聖であることを、このわたくしたちへと及ぼしてくださるよう祈り求めておられる主イエス・キリストがおられます。

造り主なる神さまは、聖である御自身の本質をわたくしたちへと及ぼし、わたくしたちを聖なる者となさいます。この御方がそうしてくださるわたくしたちの聖なる父だということを、神さまは御子イエスを十字架の死から復活させて明らかにされました。父なる神さまはこの復活の知らせをわたくしたちへと告げ、わたくしたちをもご自身のものとして永遠の命の交わりに生かしてくださいます。