2015年4月26日日曜日

「神の栄光に与らせる御方」ヨハネによる福音書 17:1-5

御子イエスは父なる神さまへの祈りの中で、「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました」と言いました。ここで「すべての人を」と訳された言葉は文字どおりには、「すべて肉なる者を」という言葉です。全て肉なるものを支配する権能を主イエスは与えられた。だとすればそれまで、すべて人を支配していたのは何だったのでしょうか。

ここで比較されているのは、わたくしたちの死です。命ある人は皆やがて死ぬ。すべて肉なる者を支配するのは、死です。しかしこの死に勝利する方として、主イエスは肉をもって復活させられました。父なる神さまは御子イエスを復活させることにより、死に勝って、わたくしたちの死にまさるわたくしたちの支配者であることを、証しされました。この、死に対する勝利をもって、すべて肉なる者を支配する御方として、主イエスはわたくしたちのために祈っておられます。今や「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができる」。主イエスはそうしてくださるのです。

主イエスは、この永遠の命について、「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言います。主イエスはここで「唯一まことの」と強調されましたが、これは神さまとは、何かわたくしたちの側から、あれこれ数ある中より神さまを選び出すような御方ではないからです。もしわたくしたちが神を選ぶとすれば、およそわたくしたちは自分の願いに適う神々をその都度偶像として刻むことでしょう。けれども、唯一まことの神さまはそのようにわたくしたちが選んだり、意にかなうよう作り出したりする御方ではありません。主イエスは言いました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ(15:16)」。わたくしたちが選ぶのではない、むしろ神さまの方がわたくしたちを選びます。わたくしたちを選んで、ご自身との交わりに生かしてくださいます。

主イエス・キリストの十字架の死からの復活を告げ知らせることによって、わたくしたちの歩みに介入し、御前に立ちあがらせる、わたくしたちの命の造り主がおられます。そこで立ち上がらせられる永遠の命は、なにかわたくしたちの命を延命する命ではありません。また何か、憂い悩みを繰り返す、死すべき命の再生ではありません。主イエスは、まったき身をもってわたくしたちを、神さまの栄光の前に立ちあがらせ、永遠の命の交わりを得させてくださいます。

2015年4月12日日曜日

「悲しみを喜びに変える神」ヨハネによる福音書 16:16-24

わたくしたちにとりまして、何でも臆せずに話せる相手がいるというのは、大きな喜びです。信頼し、心を委ねることのできる相手がいる。自分の良いところだけでなく、欠けたところも知っている。さらには自分がまだ知らない自分についても、もう知っており、それを承知で受け入れてくれている。また、相手も自分のことを信頼してくれている。そのような相手と再び会い、この相手の前に立つことは、他の何によっても得られない喜びです。

わたくしたちと天の父なる神さまとの関係というのはそのように与えられています。主イエスは「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と言い、このことを証しておられます。

わたくしたちにも、洗礼の喜び、神さまの御前に立つ喜びが与えられます。この喜びは、ちょうど「一人の人間が世に生まれ出た喜び」のように、神さまとの関係によって新しい命が芽生えた喜びとしてわたくしたちに備えられています。この新しい命の喜びは、復活の喜び、わたくしたちのこの身が復活させられるという喜びをもって完成させられます。そこにおいては、思い煩いも悩みも、欠けや弱さもない。全てに勝利された神さまの計らいによって新しい命の喜びに満たされます。この喜びを奪い去る者はいない。父なる神さまとわたくしたちとの関係を奪い去る者はいません。

わたくしたちの地上の歩みは、この終わりの日の完成へと向かうべく途上の歩みとして与えられています。世にあっては、このわたくしたちの喜びをまだ喜べないでいる者たちとの関わりがあります。そこにおいて悲しみ、苦しみも経験します。主イエスがおられないのではないか、この方との関係がそこにはないのではないかと見えるからです。けれども、主イエスはこれが産みの苦しみだと言います。産みの苦しみをへて与えられる、命の喜びがあると言うのです。そこに主イエス・キリストがおられるからです。

この喜びをわたくしたちへと届けるべく、産みの苦しみをへてわたくしたちのところにまで、主イエス・キリストの十字架の死と死者の中からの復活とが、宣べ伝えられてきました。わたくしたちが礼拝に迎えられ、神さまの御前に立つ新しい命の喜びにあることを、産みの苦しみをへて喜んでいる先人たちがいます。そしてわたくしたちも、より多くの者と共に喜びをいただく者とされています。主イエス・キリストがわたくしたちの歩みと共におられるからです。