2015年3月29日日曜日

「互いに愛し合いなさい」ヨハネによる福音書 15:11-27

「互いに愛し合いなさい」。そう主イエスはわたくしたちに命じておられます。神さまはそのようにわたくしたちを愛しておられるからです。ですから主イエスも「わたしがあなたがたを愛したように」とおっしゃいます。

「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。そうおっしゃって神さまは人を造りました(創世記1:26)。「かたどって」「似せて」造るべき「我々」なる御方とは、父・子・聖霊なる三位一体の神さまです。御父と御子との分離され得ない、その名を呼び交す関係へと、御霊によってわたくしたちを参与させる神さまです。人はそのように神の前に立つ者として、この方と互いに名を呼び交す愛の関係に生きるべく造られました。

人はその関係を断ってしまいます。取って食べるなと命じられた木から取って食べたアダムは、神との関係を損なってしまい、神の前に立てなくなりました。彼は「わたしは裸ですから」と神の顔を避けて、木の間に隠れます(3:10)。人は死ぬ者、土の塵に返るものとなりました(3:19)。

けれどもそのアダムのもとに神は行かれ、関係を回復すべく招きます。そして世に対し御子イエス・キリストを与え、わたくしたちが神のものであることを決定的に告げられました。愛の関係を喪失し神なく生きるわたくしたちに対する裁きをその身に負って、御子は十字架で死にました。そして、わたくしたちを神のものとして生かす、父と子の死を越える永遠の命の交わりがあることを、御父は御子を死者の中から復活させて明らかにしてくださいました。

この父なる神から「わたしの子よ」と呼ばれる関係に御子によって与らせるべく、御父は御子の死と復活をわたくしたちに宣べ伝え、御霊を注いでおられます。御子は言います。「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。

神を礼拝するのも、キリストを信じて信仰に入るのも、わたくしたちの側からの行為として思えるかもしれません。たしかにわたくしたちは決断をし、備えて、礼拝に来るのです。けれどもそのわたくしたちに先んじてわたくしたちをお選びになった神さまがおられます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と主イエスはわたくしたちにおっしゃっておられます。神に愛された喜びがわたくしたちから溢れ出て、すべての人へと行き渡るようにと、御父と御子との一体の関係にわたくしたちを迎えておられるのです。

2015年3月15日日曜日

「この身を立ち上がらせる方」ヨハネによる福音書 14:15-31

主イエスは言いました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。父・子・聖霊なる三位一体の神さまの第三位格である聖霊について、主イエスは弁護者(パラクレートス)と言う言い方をなさいました。このパラクレートスというギリシャ語は日本語にしにくい言葉と言われます。以前の訳では「助け主」、「慰むる者」とありました。そちらが自分の心に届く、という方もおられることでしょう。ですが、主イエスがここでお語りになった聖霊が、どのようにわたくしたちに働いておられるのか、弁護者という表現はよく表しています。

「弁護者」という言い方は裁判の場面を思い起こさせます。そこで裁かれているのは他でもない自分です。ここでの裁きとは、神さまの前の裁きです。神さまの前にあって、わたくしたちはとても立つことができません。一人でそんな所に行くことなどできません。行けば死んでしまいます。自分が裁きに耐え得ない者であることを、およそわたくしたちは知っているからです。

けれども、その自分の傍らに立って、自分を助けてくれる弁護者がいるのです。立ち得ないはずのわたくしたちを神さまの前に立ち上がらせてくださる弁護者として、主イエスはご自身とは別の弁護者を、聖霊を、お遣わしくださいます。わたくしたちもこの弁護者なる聖霊によって、神さまの前に立ち立ち上がらされ、命を得るのです。

また、地上の歩みを見渡しても、裁きとは言いませんが、進路や病、死という自分との関係において、また、共に生きる者たちとの関係において、面と向かって立つことの難しい課題をわたくしたちは負います。直に対面したらとても立てそうにないので、面と向かうことを避けることもあるでしょう。自分との関係も、たとえば自分の死についても、面と向かわずに済ませられるのなら、そうしたいと願うのではないでしょうか。ただ、わたくしたちには避けて通れない道です。その避けて通れない道を伴ってくださり、わたくしたちが自らの現実に対して両足でしっかりと立ち上がって行くために、聖霊が共におられます。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」。

神さまの恵みはいつも先立って、わたくしたちへと届けられます。十字架の死に御子イエスを差し出された神さまは、聖霊をわたくしたちに与えて御子の復活を示し、「わたしの愛する子よ」と呼び掛け、御自身の懐にわたくしたちを抱き寄せておられます。

2015年3月1日日曜日

「差し出された神の命」ヨハネによる福音書 13:21-38

主イエスはご自身が十字架につけられる前日の晩、弟子たちと夕食を共になさいました。そして食事の席から立った主イエスは弟子たちの足を一人ひとり洗い、ぬぐって差し上げました。主であるイエスがしもべとなって弟子たちに仕えることにより、神さまがどのように彼らを愛しておられるのかを、お示しになったのです。

洗い終えて主イエスは弟子たちに言いました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。主イエスの教えはいつもここへ向かっていました。お互いに愛し合い、隣人他者に自らを差し出すこと。自らに死んで得る命があることを、主イエスはいつも教えておられました。ヨハネによる福音書はこの主イエスの教えを受けた者たちがとった二つの態度を伝えます。シモン・ペトロとイスカリオテのシモンの子ユダです。

ユダは主イエス一行の金入れを預かっていました。同じ週の日曜日のことですが、ベタニアという村で主イエスがマリアから高価な香油を注がれたとき、彼は言いました。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。ユダは愛するということをお金に換算することができました。それは現実的かもしれません。ですが彼は愛するということに冷めていたとも見受けられます。お互いに愛し合い友のために命を捨てるなど、とても当てにならない、非現実的だと彼は聞いたのです。

ペトロはその逆の態度を取ります。彼は情熱をもって、主イエスの教えを実行しようと意気込みます。「あなたのためなら命を捨てます」と。ですがこのペトロも三度も主イエスを知らないと言い、裏切ってしまいました。

愛する者たちに裏切られた主イエスは、十字架につけられ、死んでゆかれます。ですがその死において、主イエスはご自身の命を、愛すべき者たちへと差し出してくださいました。そしてここに、命の造り主なる神さまは御自身の栄光を現してくださいました。それはわたくしたちが与るべく差し出された、父なる神の命でした。

「互いに愛し合いなさい」という教えを願いながら全うできないわたくしたちがいます。ですがその弱さをぬぐってもらいなさい、と復活させられた主イエスは自らをわたくしたちに差し出します。親の愛は子にとって代えることの出来ない宝です。父なる神の愛をまず受けるように、と主イエスは十字架で献げられた命を差し出して、わたくしたちを招かれるのです。