2015年2月22日日曜日

「足を洗い合う交わり」ヨハネによる福音書 13:1-20

聖書は、神が愛であると言います。この愛には、愛する対象があります。対象なく神は愛だと言うのではありません。ほかでもないこのわたしを神が愛する対象として愛しておられるという事実を指して、聖書は神が愛だと言うのです。主イエスはこの「愛する」ということの両者を明らかにし、弟子たちを愛する神の愛を受け入れてもらおうと、彼らの足を洗いました。

主イエスが弟子たちの足を洗うことでお示しになったのは、まず、主であるお方自らがしもべとなって弟子たちに仕えてくださった、ということです。主イエスはしもべとして弟子たちに仕えることを通して、弟子たちをこの上なく愛し抜かれました。

そしてもうひとつ、主イエスがお示しになったのは、愛されることを受け入れることによってこそ、注がれた愛は愛として分かる、ということです。ペトロははじめ、自分の足を主イエスに洗ってもらうことを拒みました。しかしそのペトロへと主イエスはやって来られ、彼の足を洗おうとされます。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。ペトロを愛する主イエスを、ペトロが受け入れることを主イエスは求めておられるのです。

そして「わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れる」と主イエスは言います。わたくしたちを愛するこの主イエスを遣わすことによって、神さまはわたくしたちを愛されるからです。天の父なる神さまは独り子イエスを世に与え、十字架でご自身の命を差し出すことにおいて、わたくしたちを愛し、わたくしたちにお仕えくださいました。

そこまでしてわたくしたちと関わり、わたくしたちを愛して、永遠の命得させることが、わたくしたちの命をお造りくださった神さまの永遠の思いでありました。この愛を、神さまは十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させて、明らかにしてくださいました。神さまは何の条件もなくわたくしたちを愛し抜かれるのです。

無条件の愛は、無条件に受け入れられてこそ、その愛に与ります。ですがわたくしたちは条件なく神を受け入れたり自らを差し出したりはしていないかもしれません。ありのままの自分が愛されていることを受け入れるのはありのままの自分を差し出すことにおいてです。そこで、いよいよ神の無条件の愛を条件なく受け入れ、永遠の命に生かされるよう、神さまは礼拝へとわたくしたちを招き、主イエス・キリストを証して、御許にわたくしたちを迎え入れておられるのです。

2015年2月15日日曜日

「世を救うために来た御子」ヨハネによる福音書 12:36b-50

主イエスは「父の命令は永遠の命である」と言います。わたくしたちの命を造った神さまは、わたくしたちを永遠の命に生かそうと、わたくしたちに命を与えました。そしてわたくしたちが死で終わる生ではなく、死んで多くの実りを結ぶ一粒の麦として(24)永遠の命に至るために、主イエスはご自身が遣わされて来たと言います。

これは意外なことです。世の常識は死が全ての終わりであり、死をもってわたくしたちの命は滅びるとおよそわたくしたちは心に思っているからです。主イエスはそのわたくしたちの心を、造り主なる神さまとの関係へと向けさせます。

わたくしたちは誰ひとりとして、自分勝手に生まれてきたわけではありません。自分で自分の命を造り出したのではないのです。そうであれば、誰かが自分の命を造ったからこそ、この自分がいるのでありましょう。聖書はそれが天地万物の造り主である神さまだと証します。わたくしたちの父母はわたくしたちの誕生のため神さまによって掛け替えのないものとして用いられたのです。

この神さまがわたくしたちをお造りになった思いは永遠の命に生きることにある、と主イエスは言います。そうであるならば、もしわたくしたちが死で全て終わる命を生きると、それはわたくしたちの命を造った神さまの思いに添わないままになります。神さまとわたくしたちとの関係は損なったままになる。主イエスは言います。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。

けれどもそのわたくしたちを、造り主とのまことの関係に回復させるために、主イエス・キリストは十字架で命をささげてくださったのでした。そして、神さまが死者の中から復活させた主イエスは言うのです。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。

ヨハネによる福音書は、この主イエスの復活において、主イエスが受けた栄光が明らかにされた、と証します。主イエスがお受けになった栄光、それは十字架の死に独り子を差し出してまで世をお救いになろうとされた神さまの、わたくしたちへの思いです。永遠の命を得させるという造り主の命令を全うするために、主イエスは世に与えられ、十字架において、神の栄光をお受けになりました。その栄光が、復活を告げ知らされたわたくしたちにも及ぼされているのです。

2015年2月1日日曜日

「光の子となるために」ヨハネによる福音書 12:27-36

主イエスはわたくしたちが光の子となるため、世に来られました。わたくしたちが光の子となって、神さまの言葉によって命を得て生かされることを、わたくしたちの造り主なる神さまが願っておられるからです。光の子は光を浴び続けます。光に照らされ、光に満たされ、光の中を生かされます。わたくしたちが神さまの言葉に照らされ、満たされ、生かされるよう、主イエスは世に来られたのでした。

その主イエスも、これから暗闇の中を歩まれます。この週の金曜日には主イエスは十字架で殺されてしまう、苦難の歩みをこれから進まれるのです。主イエスは世からののしられ、さげすまれ、ただひとり捨てられて、十字架で死んでゆかれました。その苦難の歩みを支配していたのは、主イエスに死をもたらす人間の言葉です。死という闇に埋没させる人間の言葉を浴びながら、主イエスは十字架へと引き渡され、死んでゆかれたのでした。

その主イエスに、天の父なる神さまの声が聞こえたと福音書は伝えます。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が天から聞こえた、と(27)。たしかに主イエスはこの方を死へと到らせる人間の言葉によって覆われ、十字架で殺されます。けれどもその主イエスに天の父なる神さまは再び栄光を現そうと言う。そして神さまは、十字架で死んだ主イエスを復活させて、人間に命をもたらす神の言葉を、復活させられた主イエスによって輝かせられました。この光で神さまは世を覆い尽くすのです。

わたくしたちは、何の言葉によって生きているでしょうか。ときにわたくしたちは、自分が言ってしまった言葉や、人に言われた言葉によって、闇の中に閉じ込められたようになっていることがあります。それも、昔に言われた言葉、ずっと前に言ってしまった言葉に引きずられていることがあります。そこから抜け出したと思っていても、ふとしたことからまた「あの言葉」に舞い戻り、囚われてしまう。

そのわたくしたちに主イエスは言います。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。主イエスはわたくしたちの闇を共に負って、十字架で死んでくださると言うのです。その死んだ主イエスに現された神の栄光に包まれて生きるように、と。わたくしたちを死んでも生かす神の言葉が主イエス・キリストによって与えられました。わたくしたちが聞き続けるべき言葉はここにあります。この言葉を浴びて、全て満たされて、光の子としてわたくしたちも歩ませて頂けるのです。