2015年1月25日日曜日

「実を結ぶ一粒の麦」ヨハネによる福音書 12:12-26

この日、祭りに来ていた大勢の群衆は、主イエスがエルサレムに来ると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出ました。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」。そう叫び続け、まるで王を迎える仕方で(詩篇118:25-26)彼らは主イエスを迎えました。

人々はエルサレムの都へ凱旋に来た王として主イエスを迎えましたが、主イエスは軍馬にまたがってやって来たのではありませんでした。主イエスはろばの子を見つけ、それに乗って都へ入ります。ろばは謙遜と柔和を象徴します。神さまは全ての戦いを終わらせ、全地に平和をもたらしてくださる(ゼカリヤ書9:9-10)。そのとこしえの王として神さまは御子イエスを遣わされましたが、何か武力や政治的な力によって王として君臨しようとするのではなかったのです。

主イエスは言います。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る(24-25)」。主イエスはご自身が十字架の死を遂げることによって、神の栄光を受けるのだと言うのです。

ただ、これらのことははじめ、誰にも分かりませんでした。主イエスに付き従って来た弟子たちにさえ分かりませんでした(16)。そしてエルサレムの大群衆は主イエスが自分たちの期待する王ではないと見限ると、その手の裏を反すようにして、主イエスを十字架につけて殺すよう叫びます(19:15)。主イエスは十字架につけられ、死んでゆかれました。

ところが週の初めの日、主イエスは死者の中から復活され、弟子たちにご自身を現されました。はじめはそれが主イエスだと分かりませんでしたが、ようやく弟子たちはこの方が復活された主イエスだと知ります。そして、天地の造り主である神さまが、この主イエスを死者の中から復活させてくださったという確信を与えられ、神さまがここに旧約聖書の預言を実現してくださったと知らされたのでした。

この主イエスの復活は、わたくしたちの死の先にもなお神さまの支配があることを証しします。「わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」と主イエスは言います。この方と共に死んだわたくしたちは、この方によって永遠の命をもたらされます。この身が朽ち行くとも、復活の主の光はますます照り渡り、このわたくしたちさえも多くの実を結ぶものへと新たにされるのです。

2015年1月11日日曜日

「陰府にまで降られた神」ヨハネによる福音書 11:28-57

病気で死んでしまったラザロ、死んでもう四日もたつラザロを主イエスは復活させて、墓から出て来させました。死んだラザロの復活は、彼の死を悲しむ誰の心にもそれまでなかったことです。たしかに、ラザロがまだ死んでなかったら、これまで数々の病を癒した主イエスによって彼を癒せたかもしれない。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」姉妹マリアもそう思いました。ただ、もう手遅れであり、死という事実は誰の目にも変わらぬ事実として横たわったのです。

ところが、この死んだラザロを主イエスは復活させました。そしてこのラザロを復活させることによって、主イエスは栄光を受けられたのです。主イエスは先立って言っていました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである(4)」。

主イエスが受けた栄光、それはこの方が天から遣わされた方であり(42)、神さまは主イエスを遣わすことによって世をお救いになるということです(27)。ここで主イエスはラザロを復活させて、命じていのちを現れさせることができるという、造り主としての栄光を現されたのです。

一方、主イエスがベタニアでこのしるしを行ってその栄光を現されたことにより、ユダヤの最高法院は主イエスを殺そうとたくらみはじめます(53)。やがてユダヤ人の過越祭がやって来ます。その祭の前日に主イエスは十字架で処刑されました。天から遣わされた神の子は十字架で死ななければなりませんでした。神の栄光を受けた御子は死んで葬られ、陰府にまで降られなければならなかったのです。

ですがこのことは、陰府にまで神の栄光が現されたと告げる出来事となりました。それは神さまが主イエスを死者の中から復活させたからです。神さまはいのちをもたらす造り主としての働きをそこにまで及ぼされ、救いの御手を差し伸べられました。このことは、もはやどこにあっても、死んだとしても、そこに造り主として主はおられ、ご自身の栄光を現わすことがおできになるということの証しです。主イエスは、わたくしたちが死んでもなお命の造り主として共におり、死を越えて意味を持つ言葉を掛け、わたしたちを生かすと宣言しているのです。「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます(詩篇139)」。