2015年12月27日日曜日

「あなたの中にある光」マタイによる福音書6:19-24


わたくしたちは(かみ)(うつ)(かがみ)です。(てん)(ちち)なる(かみ)さまはご自身(じしん)(えい)(こう)(うつ)(かがみ)としてわたくしたちを(つく)りました。その(かがみ)がまことに(かみ)へと()くよう、(しゅ)イエスはわたくしたちを(みちび)きます。(かみ)から(そそ)がれる栄光(えいこう)はわたくしたちに(あたら)しい(いのち)をはじめます。
(かみ)さまは、ご自身(じしん)()せて、ご自身(じしん)にかたどって、(ひと)アダムを(つく)りました(創世記1:26)。ところがアダムは、この(かみ)似像(にすがた)(そこ)ないます。その原因(げんいん)を、創世記(そうせいき)はアダムの堕罪(だざい)()ます。()って()べるなと(めい)じられていた()からアダムは()()って()べてしまった。()(ひら)自分(じぶん)(はだか)であると気付(きづ)いたアダムは、(かみ)(まえ)()つことを()け、自分(じぶん)(かく)します。(かみ)にかたどって(つく)られた自分(じぶん)姿(すがた)(かみ)()せて(つく)られた自分(じぶん)()じたのです。
(その)のすべての()から()って()べることを(みと)められ、(つく)(ぬし)栄光(えいこう)存分(ぞんぶん)()け、(いのち)(あた)えられたアダム。そのアダムが、(かみ)(まえ)(おお)きく(いき)することができなくなった。(かみ)似像(にすがた)(そこ)なったアダムは、(かみ)(まえ)()関係(かんけい)(そこ)ないました。しかし、このアダムへと、(かみ)さまは「(かわ)(ころも)(つく)って()せられた(創世記3:21)」。(かみ)さまはアダムをなおご自身(じしん)(まえ)()たせます。
(かわ)(ころも)(つく)るからには、(ひと)つの(いのち)犠牲(ぎせい)になります。その(いのち)(かみ)のものです。(かみ)さまは、アダムのため(いのち)犠牲(ぎせい)にし、(かわ)(ころも)()せました。(てん)(ちち)なる(かみ)さまはわたくしたちをも、(かみ)(まえ)()関係(かんけい)回復(かいふく)させるため、(しゅ)イエス・キリストを(あた)えました。
(しゅ)イエスがわたくしたちのため(じゅう)字架(じか)犠牲(ぎせい)となりました。(かみ)さまはこの(いのち)によって、わたくしたちを()かします。(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させ、この(かた)をわたくしたちに()せる(ころも)としました。わたくしたちもまた、洗礼(せんれい)(さず)かることをもって、この(てん)にある(ころも)()させて(いただ)きます。
この、(てん)(ちち)なる(かみ)さまの(まえ)にあるわたくしたちの(しゅ)へと、(しゅ)イエスはわたくしたちをなおも(みちび)くのです。

2015年12月20日日曜日

「とこしえの王の到来」マタイによる福音書2:1-12


(しゅ)イエスがわたくしたちの(おう)として即位(そくい)するということは、すなわち、わたくしたちが自分(じぶん)(おう)として()()(うしな)う、ということです。失脚(しっきゃく)するということです。わたくしたちは、(あたら)しい(おう)誕生(たんじょう)()げられても、それが自分(じぶん)地位(ちい)立場(たちば)(うしな)うことであり、(ほろ)んで()わることを意味(いみ)するなら、そのような()らせの(まえ)に、(めん)()かって()ってゆくことはできません。
しかし、わたくしたちが失脚(しっきゃく)しても、()からわたくしたちを復活(ふっかつ)させる(かた)がこの()(おう)となって、とこしえにこの()()()がらせてくれるのなら、この誕生(たんじょう)()らせの(まえ)()つことができます。自分(じぶん)にとって失脚(しっきゃく)()らせでありながら、なお、この(おう)()かって「よろしくお(ねが)いします」と自分(じぶん)(ささ)げ、()つことを()ます。
(しゅ)イエス・キリストがわたくしたちのとこしえの(おう)としてやってきました。この(おう)(かみ)(たみ)牧者(ぼくしゃ)として、()()えてとこしえの(いのち)へとわたくしたちを(みちび)きます。この(かた)()(さき)に、とこしえの(いのち)(そな)えているのです。とこしえの(おう)のもとにある(いのち)にわたくしたちを()かすべく、(しゅ)イエス・キリストはわたくしたちの(おう)としてやってきました。わたくしたちのこの()失脚(しっきゃく)は、この(かた)のもとにあっては(いのち)(はじ)まりであるのです。
(しゅ)イエスの十字架(じゅうじか)()からの復活(ふっかつ)は、この、わたくしたちの(いのち)(はじ)まりを意味(いみ)します。(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)は、この(かた)がわたくしたちの(おう)として、ご自身(じしん)復活(ふっかつ)(いのち)をこの()()こすことを約束(やくそく)します。この(おう)(まえ)にひれ()し、()()える(いのち)へとこの()(ささ)げる(みち)を、(てん)(ちち)なる(かみ)さまはわたくしたちに備えました。この(よろこ)びを占星術(せんせいじゅつ)学者(がくしゃ)たちは(いただ)いて、(おお)いに(よろこ)びました。たとえ、自分(じぶん)失脚(しっきゃく)しても、(しゅ)イエスがこの()(おう)として、とこしえにわたくしたちが()きる(せき)(にん)(にな)います。この(おう)のもと、(そな)えられた(みち)を、わたくしたちも「よろしくお(ねが)いします」とこの()をお(ささ)げして(むか)えるのです。

2015年12月13日日曜日

「慈しみはとこしえに」マタイによる福音書6:9-15


わたくしたちが(ゆる)すということと、神さまがわたくしたちを(ゆる)すということとは、表裏(ひょうり)一体(いったい)です。そして、(さき)()って(かみ)さまが、(しゅ)イエス・キリストの(じゅう)()()()によってわたくしたちの(つみ)(ゆる)してくださいました。先立(さきだ)ってわたくしたちを(あわ)れみ、(いつく)しみ、ご自身(じしん)(おも)いとわたくしたちを一つにしよう、とわたくしたちを(むか)える、(てん)(ちち)なる(かみ)さまがおられます。
(てん)(ちち)なる(かみ)さまは、復活(ふっかつ)(しゅ)(いのち)によってわたくしたちの将来(しょうらい)を、()()えて(ひら)きます。一方(いっぽう)、わたくしたちが(ひと)(たい)しても自分(じぶん)(たい)しても(ゆる)さないでいることは、自分(じぶん)をも相手(あいて)をも、その()()(しょう)じた過去(かこ)へと埋没(まいぼつ)させます。
この「(ゆる)さない(つみ)」が(みじ)めであるのは、()にゆく自分(じぶん)とも和解(わかい)()ないことからも(わか)ります。たとえ自分(じぶん)で、()にゆく自分(じぶん)肯定(こうてい)してみたとしても、()をこえてわたくしたちを支配(しはい)する(かみ)さまと和解(わかい)したことになりません。(みずか)らの()(まえ)()(つく)くし、どうにもできないでいる、そのわたくしたちへと、しかし(しゅ)イエスは()られます。
(かみ)さまとの和解(わかい)は、(なに)口先(くちさき)のもの、表面的(ひょうめんてき)問題(もんだい)ではありません。それではわたくしたちは絶望(ぜつぼう)から()()がることなどできません。むしろ(かみ)(ゆる)され和解(わかい)させられることは、わたくしたちの(せい)根本(こんぽん)問題(もんだい)です。わたくしたちの(いのち)根本(こんぽん)から(かみ)和解(わかい)させられるかどうか、という()いです。
そしてこの()いに、「(しか)り、そうだ」という、(かみ)との和解(わかい)宣言(せんげん)を、(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)()げます。それは、自分(じぶん)のこの(いのち)との和解(わかい)(あた)えられることです。わたくしたちの(せい)根本(こんぽん)から自分(じぶん)和解(わかい)するということです。自分(じぶん)(ゆる)すということです。
この(いのち)(つく)った(かみ)()(まえ)から、()まれて今日(こんにち)(いた)るまで、そして()()えてとこしえに(すべ)てこの自分(じぶん)を、(かみ)(まえ)に「()し」とする、(しゅ)イエス・キリストがおられます。わたくしたちもこの(かた)へと(みずか)らをお(ささ)げし、やって()られた(しゅ)をお(むか)えいたしましょう。

2015年12月6日日曜日

「われらの日用の糧」マタイによる福音書6:9-11


(しゅ)イエスは、「わたしたちに必要(ひつよう)(かて)今日(きょう)(あた)えてください」と(いの)るようわたくしたちに(めい)じます。そこで(いの)(もと)めますのは、()たるべき()わりの()にわたくしたちを()かす(かて)です。(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)(いのち)です。この(かた)(いのち)(かみ)さまはわたくしたちに(あた)えます。(しゅ)イエスは、ご自身(じしん)()ますのを、今日(きょう)(よろこ)んで(むか)えるよう(みちび)くのです。
(しゅ)イエスは、(なに)かわたくしたちが、「()()いできればそれで十分(じゅうぶん)」といった物質(ぶっしつ)のみを中心(ちゅうしん)とする()(かた)から(みちび)()します。また一方(いっぽう)、「(かみ)言葉(ことば)のみで十分(じゅうぶん)」といった、(にく)にならない精神(せいしん)のみの()(かた)からも、わたくしたちを()()します。そのような、「(にく)(たい)(やしな)(かて)」か、「(いのち)(やしな)(かて)」か、といった、「どちらか」でも「どちらも」でもない、別々(べつべつ)ではない(ひと)つの(かて)必要(ひつよう)を、(てん)(ちち)なる(かみ)さまはご存知(ぞんじ)です。わたくしたちが()(まえ)から(ねが)(まえ)からご存知(ぞんじ)です(八)。
この、わたくしたちの(つく)(ぬし)なる(てん)(ちち)なる(かみ)さまが、御子(みこ)イエス・キリストをわたくしたちに(あた)えてくださいました。()()えて(てん)からの(いのち)をわたくしたちに()させるため、この(かた)()から復活(ふっかつ)させてくださいました。わたくしたちの()()こう(がわ)になお、わたくしたちを()かす(かみ)言葉(ことば)(そな)えられている。その(てん)からの(こと)()を、わたくしたちの(いのち)(つく)(ぬし)なる(かみ)さまは十字架(じゅうじか)()んだ(しゅ)イエスを死者(ししゃ)(なか)から復活(ふっかつ)させて、(あた)えてくださったのです。
(しゅ)イエスは「わたくしたちに必要(ひつよう)(かて)」であるご自身(じしん)にわたくしたちを(あずか)らせるため、聖餐(せいさん)(さだ)めました。御子(みこ)イエスは、(てん)(ちち)なる(かみ)さまの全権(ぜんけん)()びて、ご自身(じしん)をわたくしたちのこの()へと(あた)えてくださいます。
(しゅ)イエス・キリストは、わたくしたちのこの()にやって()ます。(しゅ)は、わたくしたちに永遠(えいえん)(いのち)(あた)えます。このわたくしたちの(しゅ)信頼(しんらい)し、わたくしたちもこの()をささげ、(あた)えられたわたくしたちの(しゅ)をお(むか)えいたしましょう。