2014年12月21日日曜日

「救い主の宿るところ」ルカによる福音書 2:1-7

救い主イエス・キリストは多くの人からは見向きもされないところで誕生しました。ゆきとどいた備えのある部屋の中ではなく、飼い葉桶の中に布でくるまれて寝かせられました。誰もこの幼子を世の救い主だとは思いません。それでも、神さまは幼子イエスを誕生させ、わたくしたちの救い主としてお与えくださったのです。

救い主イエス・キリストの誕生は、造り主なる神さまが造られたこの世へとくさびとして打ち込んだ、それまでの歴史を一変させる出来事です。それまでは、造り主なる神さまを離れ、そのため死んで滅びて終わることへと向かう他なかったこの世でした。その世に生きるわたくしたちに神さまは、キリストの支配のもと、造り主であるご自身を知らせ、死を越えて神と共にある生を生きることへとわたくしたちを向かわせます。救い主の誕生はわたくしたちの生を変えたのです。
この重大さは決定的であるものの、救い主の誕生という出来事は、まことに小さなところから始まりました。救い主の誕生は決定的な重大さを持ちながらも、まことに密やかに、人が知ろうとしないところで、始められたのです。始められていたのです。

それはまるで、女性が妊娠して子を宿すということと同じく見えます。母体となる女性は、受精したその時や着床したその時をおよそ知らないまま、しばらくの期間をへて、やがて自分の身に始められている命の事実を知ることでしょう。自分が知るに至るその前に、既に神さまは子を宿すという命の事実を始められたのです。密やかに始められていたのです。
この日お生まれになったイエスが救い主キリストであると公に言い始められたのは、この御子が十字架の死から復活させられてからのことでした。この復活に造り主なる神さまの御意志を聞き取った者たちによって始められたのです。これもまた、まことに小さなところからの始まりでした。

救い主イエス・キリストは今や天からわたくしたちへと手を差し伸べ、ご自身が支配する世にわたくしたちを生かしておられます。神さまが「こう造ろう」と願われたその生へとわたくしたちを生きる者となさるのです。

わたくしたちをお造りになった神さまと共にある生をわたくしたちに歩ませるため、救い主はわたくしたちの内に誕生しました。死を越えて神と共にある生をいよいよわたくしたちに生かすため、神さまは一人一人をお選びになり、わたくしたちの救い主の誕生という命の事実を告げ知らせる礼拝へと招いておられます。

2014年12月14日日曜日

「人の定め、神の定め」ルカによる福音書 1:57-66

「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。主の御使いにそう言われ、祭司ザカリアは口が利けないままでした。年をとった妻エリサベトが身ごもった後も、そうでした。御使いのお告げの通りエリサベトが男の子を産んでからも、ザカリアは口が利けないままでした。

男の子が生まれて八日目、神さまが定めた律法に従って、男の子に割礼を施す日が来ました。併せてこのとき、男の子に名をつけることになりました。割礼のために集まってきた人々は、父親の名をとってザカリアと名付けようとしました。けれども妻エリサベトは、ヨハネと名付けることを求めます。主が御使いによって夫ザカリアに男の子の誕生を約束してくださったとき、その名をヨハネと名付けるよう命じられていたからです。

御使いのお告げを知らない人々は、エリサベトの求めがおかしなものと聞こえ、父ザカリアに確認します。するとザカリアは、文字を書く板に「ヨハネこそ、この子の名である」と記しました。人々はふしぎに思いましたが、さらに驚かされたのは、ヨハネという名が付けられたこの時、ザカリアの口が開き、舌がほどけたことです。ザカリアは神さまへの賛美を口にします。

神さまはザカリアに、時が来れば実現する神の言葉を告げておられました。ザカリアはこの言葉と共にあったのです。それは今生きて働かれる神さまが共におられたということです。

神殿の聖所で神さまの御前に香をたくのは、神さまがお定めになった大切な務めでした。その役を担った祭司ザカリアでしたが、神さまの御前で、今生きて働かれる神さまが共におられるということを信じられませんでした。口が利けなくなったことで彼は自らの内奥を不信にしていたことを知りました。

けれどもそのところにこそ、神さまは御手を及ぼされます。ザカリアを大いに慈しむ神さまは、彼に今生きて働かれる神さまへの信仰を与えました。そうでなければ、人の定めに従って、人々の言う通りザカリアと名付ければ良かったのです。そうではない道を神さまはザカリアに行かせました。神さまが共にいる、神の約束が実現する道を行かせるのです。イエス・キリストの誕生は、今生きて働かれる神がわたくしたちと共におられるという約束をわたくしたちにも告げています。キリストの十字架の死からの復活はわたくしたちの生の根本に届けられた、共におられる神の約束なのです。

2014年12月7日日曜日

「神からいただいた恵み」ルカによる福音書 1:26-38

「こんなはずではなかったのに」。自分が思い描いていたのとは全く異なる状況に陥ってしまい、マリアのそばにいた者たちは、そうつぶやいて立ちすくんだかもしれません。当のマリアも御使いの言葉に戸惑い、考え込みました。けれどもマリアは、それで終わりませんでした。立ちすくんでしまうような中で、立ち上がるところを与えられたからです。

マリアは、「主があなたと共におられる」という約束のもと、立ち上がらせられました。それはこのときばかりではありません。宿した子を産むに至るまでも、繰り返し自らを問われ、神に問い、この約束にすがりました。最愛のわが子を十字架で失ったときも、神からのこの約束がただ一つの希望であったにちがいありません。

何かマリアが特別な才能を持っていたから、御使いのお告げを聞いて素直にそれに従えたというのではなく、むしろマリアは何も持たないおとめでした。また、いいなずけのいる未婚のおとめが神の子を懐胎したと公言するなら、石で打たれてもおかしくありませんでした。マリアは立つところを全く失うのです。

そのマリアに、神さまは立つところを与えてくださいました。「主があなたと共におられる」という約束がこの身に成ることへと立ち上がらせられました。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言います。立ちすくんでしまいそうになる中で、何度もこの言葉を口にしたことでしょう。そのマリアと共に主がおられました。

自分の思いとは別に、周りの状況が進んでいく。しかもそれがどこへ向かっているのか、見えないでいる。不確かな立場におかれる中で、もし確かな道があるのなら、わたくしたちはそこを進みたいと願うでしょう。「主があなたと共におられる」は、「主があなたを知っておられる」という約束でもあります。わたくしたちが不確かでも、主は知っておられる。この主は、わたくしたちの命の造り主です。

「あなたはわたしの自慢の子、わたしの誇りだ」と造り主なる神さまがわたくしたちを御覧になり、御手の中を歩ませておられます。どれだけ自分が不確かな歩みをしているように思えても、造り主の変わらぬ意志の下にわたくしたちは守られ、神が召し出した道を歩む者とされているのです。その道を共に歩んでくださる主イエス・キリストがおられます。十字架の死から復活させられ、死を越えて共におられるこの方が、神からの恵みとしてわたくしたちに差し出されているのです。