2014年11月23日日曜日

「神の手に守られて」ヨハネによる福音書 10:22-42

朝、羊飼いは羊の囲いにやって来ます。羊飼いは自分の群を連れ出し、青草の原で食ませ、水場で憩わせようと囲いにやって来るのです。羊は羊飼いを待っています。門を通って入って来るのが、自分のまことの羊飼いです。耳をすまして声を聞き、自分の名が呼ばれるのを心待ちにしています。

主イエスは、ご自身とご自身の民とを羊飼いと羊の群との関係にたとえ、羊飼いイエスがその群を守りきると約束しました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」。

主イエスはここで、ご自身の手からだれも主イエスの羊である者たちを奪い取ることはできないと言います。さらには、この者たちが主イエスの手に守られているということがすなわち天の父なる神さまの手に守られているのであり、誰もその手から奪い取ることはできないのだ、と言います。これはわたくしたちへと語り掛けられた約束です。

主イエスの声に聞き従う羊であるわたくしたち。そのわたくしたちに主イエスは永遠の命を与えており、決して滅びないと約束します。もはや主の手からわたくしたちを奪い取ることのできる者は誰もいない。わたくしたち自身でさえ、です。

主イエスは、この約束をわたくしたちが信じることを求めます。主イエスをわたくしたちのまことの羊飼いとして信頼を置いてよいというのです。何かこの約束がないかのようにして、自分自身を永遠の命を得るに値しない者とする必要はない。永遠の命を与えられた者として、主イエスの手からけっして離れえない者として、わたくしたちは地上の生を与えられている。

天の父なる神さまが、わたくしたちの命を造られました。この神さまはわたくしたちが自分の生に絶望したままでいることを願っておられません。神さまは御子イエスをわたくしたちの羊飼いとして与えました。そしてこの方を十字架の死から復活させたことにより、命の造り主である神さまの声を響かせてくださいました。神はわたくしたちの父として、死を越えてわたくしたちの名を呼んでくださいます。十字架の死さえも、御父から御子を奪うことはできませんでした。死をも絶望としない父なる神さまの手にわたくしたちは守られているのです。

2014年11月9日日曜日

「主はわたしの牧者」ヨハネによる福音書 10:1-6

「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください(民数記27:16)」。そうモーセは神さまに祈りました。飼う者のいない羊は生きて行けません。目があまり見えないので、自分だけでは生きられないのです。群に寄り添う他ありません。その群も、荒れ野の中、飼う者なくしては草原へ行くことも、水場へ行くこともできません。まことの羊飼いのもとでなければ、そこへとたどり着かないのです。

わたくしたちには導き手が必要です。導く者の声を聞き、従って歩みたいのです。指導者モーセは自らの生涯を終える前に、後継者ヨシュアを任命します。モーセは約束の地に入ることができません。そして約束の地に民が入るために、導き手としてヨシュアを任命して、彼に委ねるのです。その関係をモーセは羊飼いと羊の関係になぞらえて祈りました。

主はわたしの牧者である。そう告白できるところに、神さまを自分の主と信じる幸いがあります。けれどもわたくしたちは、牧者であるこの方の声が聞こえないというときがあります。主がわたしの牧者であるはずなのに、その声が聞こえない。周りの人は聞いているのかもしれません。しかし自分には聞こえないのです。周りの人はどんどん先へ行き、自分だけ取り残される。周りへの単なる追従は、やがてまた渇きます。誰かに届けられた声というのではなく、このわたしに声が届けられることが必要なのです。そこで求められているのは「わたしとあなた」という二人称の関係です。わたしの存在が問題となっているのです。このわたしの名を呼ぶ声が。

主イエスはご自身を羊飼いにたとえ、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言います。「あなたはわたしが牧する羊」とわたくしたちの名を呼んで、わたくしたちがこの方を主とする関係に、入らせるのです。この方がわたくしたちの存在をかけて生きられる相手であることを、わたくしたちの存在を存在たらしめる神であることを、天の父なる神さまは十字架で死んだこの御子を死者の中から復活させてわたくしたちに明らかにしてくださいました。キリストの復活は、この方が天からの御方であることのしるしです。門は開かれました。自分の名を呼ばれ、存在をかけて生きる相手を見出したとき、わたくしたちは希望をもって歩むことができるのです。

2014年11月2日日曜日

「わたしたちに現される栄光」ローマの信徒への手紙 8:18-25

わたくしたちは苦しみにあったとき、その原因が知りたくなります。お腹が痛くなったら、あのとき食べた食べ物だろうか、お腹が冷えたからだろうかと思い巡らします。災いにあったら、何か自分が悪いことをしたからではないかと勘ぐることさえあります。いずれにしても、原因のない苦しみなど受け入れ難いですし、何かその原因を突き止めることができればそれだけでも、その苦しみを受け入れられたように思います。

そうやって、わたくしたちは苦しみにあったとき、過去にさかのぼって原因を探求します。しかしそのわたくしたちに聖書は語り掛け、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と、わたくしたちを将来の目的へと引き上げます。

たとえわたくしたちが苦しみの中にあったとしても、さらには、苦しみのうちに死んでしまったとしても、なおわたくしたちに現されるべき栄光が備えられている。その希望ある将来へとわたくしたちが向かわしめられているというのです。その根拠として聖書は主イエス・キリストが十字架の死から復活させられたという、神の栄光を証します。

死んで終わる生というのは、虚無に向かって生きることです。生きる目的が虚無だというのなら、そこでわたくしたちは生きる意味も失いかねません。そのような生をわたくしたちは生きられませんし、死を受け入れることは困難です。聖書は、この虚無に服する苦しみをわたくしたちが負って生きてきたと指摘します。そして死で終わる生という、滅びに隷属する他なかったわたくしたちが、しかしその滅びを打ち破られ、神の子とされて復活する日を迎えることを約束します。

なにか、苦しみがなくなるというのではありません。苦しみから逃れて、希望が与えられるのではないのです。むしろ苦しみの中で、希望へと向かう道が備えられた。それが主イエス・キリストの十字架の死と死からの復活がわたくしたちに証しする、わたくしたちに備えられた栄光の道です。

栄光を与えられる将来がキリストによってわたくしたちに約束されています。そのわたくしたちにとって、今ある苦しみは、意味のないものではありません。この苦しみもこれまでの歩みも、すべてが、栄光を与えられる日のためにキリストが備えてくださった道の途上にあった。聖書はその将来の希望へとわたくしたちを引き上げ、なお苦しみの中にあっても栄光の日を待ち望ませているのです。