2014年10月26日日曜日

「見えるようになるため」ヨハネによる福音書 9:13-41

わたくしたちの造り主である神さまは、聖書の御言葉を通してご自身を証し、わたくしたちに知らしめ、神さまを礼拝する民の一員としてわたくしたちを召し出しておられます。

その神さまをわたくしたちは目で見ることができませんが、神さまはご自身の独り子イエス・キリストを世に与え、この独り子によってご自身の真実を人間の目に明らかにしてくださいました。その真実を主イエスは端的に言い表します。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだ(6:40)」と。天の父なる神さまは十字架で死んだ独り子イエスを死者の中から復活させて、この主イエスの言葉がまことに神の真実であることを、人間の目に明らかにしてくださいました。

とはいえ、今日のわたくしたちは主イエスの姿を目で見ることができません。復活された主イエスは天に昇られたからです。そこでわたくしたちには、わたくしたちを救う主イエス・キリストを見ないで信じることが求められていることになります。

それでも、主イエスを見ずにに信じる幸いがわたくしたちに与えられている、と主イエスは言います。「見ないのに信じる人は、幸いである(20:29)」。見ないで信じることが幸いである理由は、わたくしたちの救い主をこの目で見る日が、やがて与えられるからです。見ないで終わるのではありません。わたくしたちの造り主であられ、救い主であられ、わたくしたちを永遠の命に生かす神を、間近に見てひざまずき、礼拝する日が与えられるのです。

この神さまの真実を先取りして、主イエスは生まれつき目の見えなかった男に出会い、彼の目を開きました。しかしまだ男は主イエスを見ていません。見ない中で、主イエスを救い主と信じはじめます。その彼を主イエスはまた見出して、彼にご自身を顕わしました。この男が見ずに信じた、主イエスのお姿を、今や見えるようにしたのです。彼は単に肉体の目を開かれただけではなく、先んじて神を見る信仰の目を開かれていたのです。そしてこのとき主イエスのお姿を見、彼は救い主をこの目で見てひざまずく(礼拝する)幸いを与えられました。

わたくしたちも主イエスを知ることにより信仰の目を開かれ、神の真実を知り、やがてこの身をもって神を見る日が与えられます。主イエスは天から聖霊を降してその幸いへとわたくしたちを引き出しておられます。わたくしたちもこの幸いに与るのです。

2014年10月19日日曜日

「神の業が現れるため」ヨハネによる福音書 9:1-12

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちはそう主イエスに尋ねました。本人を目の前にして、何ともぶしつけな質問をしたものだ、と聞こえてまいります。ただ、わたくしたちも、自らの生まれながらの問題に直面した時に、真剣に自分にそう問うことがあるのではないでしょうか。

今自分がこうあるのは、また、生まれながら自分がこうあるのは、何か自分に問題があったからではないか。わが子が生まれながらこうあるのは、親である自分に問題があったのではないだろうか。原因を過去の自分に問い、ときに自分を責めることまでしてしまいます。

主イエスは答えます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。主イエスは、この生まれつき目が見えない人は、何か本人が罪を犯したからそうなっているのではない、と否定します。また、この人の両親が罪を犯したからそうなったのでもない、と否定します。罪とは神さまに背き、神さまを見ないで、神さまなしで生きてゆこうとすることです。その結果として神さまがこの人を目が見えないように誕生させたのか。そうではない。誰かの罪の結果によって、この人は生まれつき目が見えないのではない、と言うのです。そしてむしろ「神の業がこの人に現れるため」と言い、過去へと原因を捜し求める者の目を、「神の業が現れる」という将来の目的へと向かって開きます。

言い換えますならばそれは、将来に原因がある、ということです。しかもその将来が、死で終わる、無に帰するだけの将来ではなく、死を越えて永遠の命に生かされる将来であるならば、その将来を原因とする今の生は希望へと向かうのであり、これまで歩んできた生まれながらの道のりもまた、その希望へと向かうものであったということになります。

この、将来の希望へと生の転換をもたらすために、天の父なる神さまは御子イエスをご自身のもとから遣わされました。主イエスはその生涯を通してこの神の業に仕え、十字架の死をもって、仕え尽くされました。そしてこの主イエスを父なる神さまは死者の中から復活させることによって、死を越えて永遠の命に生きる将来がわたくしたちに備えられていることを、決定的に示してくださいました。その神さまは、今や教会を通して、わたくしたちに御霊を注いで、将来の希望へと歩む生を与えておられます。

2014年10月12日日曜日

「独り子を差し出した神」ヨハネによる福音書 8:48-59

神さまはアブラハムに命じました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい(創世記22:2)」。待ちに待って与えられた独り子イサクを、神さまは犠牲としてささげるよう命じたのです。神さまに従うアブラハムは、独り子イサクを神さまの命じられた所へ連れ、築いた祭壇の上、薪の上に彼を縛って横たえます。

アブラハムが刃物をとってイサクを屠ろうとしたその時、神さまはアブラハムに呼び掛けました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。

アブラハムが目を上げて見ると、背後の茂みに子羊が角をとられているのを見つけます。彼はイサクの代わりにこの子羊を焼き尽くす献げ物として神さまにささげ、その場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました。

アブラハムが見させて頂いたのは、万事を益とするために今もなお働いておられる、主なる神さまの摂理です。わたくしたちの思いを越えて、主はわたくしたちを良きところへと導いてくださる。そのご計画を、神さまはその独り子をさえお与えになって実現させられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)」。ここに言い表された摂理のもと、主イエスはわたくしたちを生かします。

わたくしたちにはどうにもできない現実があります。病もその一つです。そこに道が閉ざされているなら、現実に向き合うのはとても困難です。けれども、このわたくしたちの命の造り主である神が、なお道を備えているのであれば。すべてわたくしたちを支配する諸々の力を越えて、万事を益としてくださる神の支配(平安)へと道が備えられているのであれば、わたくしたちも神さまに従って、その道を行かせて頂きたいと願わないでしょうか。死を越えてわたくしたちに永遠の命を得させるために、わたくしたちの救い主として、主イエス・キリストは十字架の死から復活させられました。この主イエスにおいて、神さまが予め見ておられる、わたくしたちのために備えられた命の道があります。主イエスに従い、わたくしたちもその道を共々に進ませて頂くのです。

2014年10月5日日曜日

「よりどころとなる真理」ヨハネによる福音書 8:39-47

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3:16)」。これは聖書が一貫してわたくしたちに伝える真理です。わたくしたちがよりどころとして生かされるために神さまがわたくしたちにお与えになった真理です。

この真理がわたくしたちにとっても真理となるために、主イエスは真理の霊(聖霊)によってわたくしたちのところに来ておられます。主イエスは主イエスが語られる神さまの真理をよりどころとすることを求めます。わたくしたちを聖霊によって新たに生かしたいのです。

実はわたくしたちは、それぞれに何かを真理として生きています。他の人が見てそれが偽りとして見えても、当人がよって立っているのが、その人にとっての真理です。主イエスが語っているのも、そのように何かしらを真理としている人に対してです。ここでユダヤ人が主イエスの語る真理を受け入れず信じないのは、その真理によって自分の存在が脅かされるからです。

わたくしたちもそういうところがあります。わたくしたちは自分の存在が脅かされるのであれば、届けられた真理を受け入れようとはしません。たとえその真理がどれだけ確かなものであったとしても、今の自分を失ってしまうような真理であれば、そこに立とうとはしません。わたくしたちは自分の存在を覆されるような真理であれば、信じたくないのです。

けれども、そのわたくしたちが否応なく存在を脅かされる状況に陥ったとすれば、どうでしょうか。自分の存在が絶望へと向かうのでなく、希望へと進みたいと願うでしょう。たとえば、わたくしたちは自分の命がいつか死ぬということを誰も否定できませんが、その死においてわたくしたちの存在は避けられない危機を迎えます。しかしそこで、わたくしたちの存在が希望へと覆されるのなら。希望の道が真理としてあるのなら、そこに行きたいと願うのではないでしょうか。

その希望の道がある。あなたがよりどころとして良い真理がここにある、と言って主イエス・キリストがわたくしたちのところにやって来られました。わたくしたちがこの方をよりどころとして生かされるべく、天の神さまは礼拝へと招いておられます。わたくしたちを迎え、教会を通して、御言葉の説教と聖餐をとおして、主イエス・キリストをわたくしたちに差し出し、死を越える命の希望へとわたくしたちを救おうとしておられるのです。