2014年9月21日日曜日

「無から有を造る神」ヨハネによる福音書 8:21-30

主イエスは天の父なる神さまを指して言いました。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである(29)」。主イエスが行うことは、いつも父なる神さまの御心に適って、この方を喜ばせている。

主イエスがいつもしていること、それは、神さまがお造りになった一人一人を主イエスのもとに招き、神さまの御前に立つ者として新たに生かすことです。このわたくしたちのために主イエスはいつも祈っておられます。

主イエスはわたくしたち一人一人を、天地創造の神の御業に与らせたいのです。神さまは無から有をお造りになるお方です。そのようにして天と地とそこに満ちるものは造られました。また、わたくしたちの命が造られました。そしてこの造り主なる神さまがわたくしたちの命を保ち、わたくしたちに再創造をおこして、わたくしたちを永遠の命に生かそうとしておられる。この父なる神さまと共にあって主イエスはわたくしたちの世に遣わされ、わたくしたちを迎え入れてくださっているのです。

わたくしたちは初めての人と会うとき、緊張します。この相手が自分を受け入れてくれるだろうか、自分はこの相手を受け入れられるだろうか、と。相手が集団ならなおさらです。行ったことのない集会。知らない人たちとの食事会。そこに自分が受け入れてもらえるだろうか。入れるだろうか、居てもいいのだろうか。不安を覚えます。

主イエスは言いました。「わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行う」。わたくしたちを招いて、そう言います。わたくしたちが主イエスによって導かれ、神さまの御前に立つことを、天の父なる神さまは喜んでおられるからです。その御心を主イエスは知っておられるのです。

父なる神さまは御子イエスを十字架の死から復活させて、十字架の死さえも、父であるご自身と御子イエスとを引き離すことが出来なかったことを証しました。陰府に降られた主イエスをも父なる神さまは御手の中においておられたのです。この、死をもってしても分かたれることのない関係へと主イエスはわたくしたちを招きます。たとえどのようにわたくしたちが死んだとしても、天の父なる神さまは御子イエスの十字架の死のゆえに、わたくしたちを神の国に受け入れ、永遠の命に生かしてくださる。これはわたくしたちに差し出された大きな約束です。

2014年9月14日日曜日

「開かれた新しい道」ヨハネによる福音書 8:1-11

主イエスが神殿の境内で人々に教えておられると、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女を連れてきました。彼らは主イエスに問います。「こういう女は石で打ち殺せと律法で命じられている。あなたはこの女に何と言うのか」。

彼らは主イエスを裁き人として立たせ、この女にどう判断を下すのか問うたのです。律法に反する行動について主イエスが容赦するようなことがこれ以上あれば、それは彼らにとって認められませんでした。もし彼女を石で打ち殺すな、と主イエスが言うなら、いよいよ今度は主イエスを捕えて裁きにかけようというのです。
主イエスは沈黙されます。そしてしつこく問う彼らに対し主イエスは「まず、罪のない者がこの女に石を投げるように」と言いました。

すると年長者から一人また一人と、その場を立ち去り、主イエスとその女だけがそこに残りました。主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言い、女に新しい道を進ませます。

その道は、主イエスが十字架の死をもってささげた命によって世に開かれた、永遠の命の道です。主イエスは何か世にあって人を罪の内につなぎ止めるために天からやって来られたのではなく、十字架の死に自らを差し出して、その命によって人を罪から取り戻そうとされるのです。このため、ご自身が命をささげて開かれた新しい命の道をこの女に歩ませます。それは、恥じ入ってその場を立ち去った人々に対してもそうです。彼らは主イエスに出会ったことで、自分が罪ある者だということを改めて知りました。しかし主イエスはその彼らを罪の内に留まらせるのではなく、ご自身によって開かれた道を歩ませるのです。

主イエス・キリストを信じるということは、この方をわたしの裁き人として受け入れることであり、この方が十字架で死んでささげた命によって、このわたしが新しい命の道を行かせて頂くことです。わたくしたち一人一人に、永遠の命を与えるために、神さまは主イエスを十字架の死から復活させました。そこに新しい道を開かれました。この方がわたくしたちの裁き主であるからには、わたくしたちは罪の中から解き放たれ、もはやわたくしたちの罪も死も、わたくしたちをつなぎ止めません。罪なきこの方が十字架の死において、わたくしたちの罪を負いきったからです。この主イエス・キリストにおいてわたくしたちは、新しい命の道を行かせて頂けるのです。