2014年7月27日日曜日

「永遠の命の食べ物」ヨハネによる福音書 6:51-59

わたくしたちが発する言葉の背後には、わたくしたちの思いがあります。わざわざ考えることもなく口から出る言葉もありますが、それも自分の心にある思いが言葉として出たのでしょう。そしてわたくしたちが言葉を発するからには、その背後にある自分の思いを相手に知ってもらいたいものです。そうすることでこちらの言葉をより正しく受け取ってもらえるだろうからです。

わたくしたちがお弁当を作るときもそうではないでしょうか。食べてもらう相手の顔を思い浮かべながら作ったお弁当は、作ってもらった者にとって格別のものになります。食べる相手があまりよく分からなかったら、せっかく上等の素材を使ってもその持ち味が十分に届きにくいのではないかと思われます。これは食べる側もそうでしょう。わたくしたちは作ってくれた人の顔を思い浮かべながら、その人の気持ちや自分への思いを、お弁当を食べることで受け取っているに違いないのです。素材の持ち味はいよいよ豊かに、食べる者へ届くでしょう。

主イエスはご自身が「天から降って来た生きたパンである」と言います。そして「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と約束します。聞いていたユダヤ人たちはどうしてそんなことが出来るのか、と互いに議論しますが、主イエスは十字架の死にご自身をささげることを通して、主イエスのもとに集められた者たちに「永遠の命を得させる」と約束したのです。そして死から復活された主イエスは、ご自身を弟子たちに顕わされ、わたくしたちには復活の告知である御言葉と聖餐を通して、聖霊を降すことによってこの約束に与らせます。

主イエスは神の言葉です。主イエスの復活の知らせは天の父なる神さまにさかのぼるものです。神さまは主イエスを死者の中から復活させることによって、造り主である神さまの思いを明らかにされました。その、造られたわたくしたちへの思いを、届けようと願っておられます。

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだ」と主イエスは言います。そしてまことにその神さまの思いをわたくしたちが信じるために、主イエスはわたくしたちに御言葉と聖餐とをもって、ご自身を差し出しておられます。まことの信仰をもってわたくしたちがこの神さまの思いを受け取り、永遠の命に生きるよう、天から降ってきたパンをわたくしたちに食べさせてくださるのです。

2014年7月20日日曜日

「復活へと招く神」ヨハネによる福音書 6:41-50

わたくしたちの命はどこからやって来てどこへと向かうのでしょうか。主イエスは、天の父なる神さまがわたくしたちの命をお造りになったと御覧です。またこの命を、死を越えて永遠の命に生かすことへと神さまが導いておられると御覧です。主イエスはその眼差しへとわたくしたちの心を引き上げ、天にあるわたくしたちの命へと目を向けさせます。

主イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言ったとき、これを聞いたユダヤ人は信じられず、つぶやきはじめました。彼らは主イエスの父も母も知っており、どのような生い立ちであるかも知っていましたから、主イエスが天に属するという主張は受け入れられなかったのです。

わたくしたちは、地上のものにしか目が行き届かないとき、「自分には何もない」とつぶやきます。朽ちるものしか見ないで、その背後にある神さまの御心が見えないからです。主イエスの教えを聞いていた彼らの先祖たちもかつて、荒れ野で天からのパンを神さまから頂きながら、つぶやきました。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない(民数記11:4-6)」。

朽ちるものにしか向かないわたくしたちの心を主イエスは永遠なるものへと向けさせます。神さまのもとにある、永遠の命へと向けさせるのです。主イエスはわたくしたちのつぶやきを信仰へと変えます。そのため、十字架の死にご自身を明け渡されました。天の父なる神さまの御心へとご自身を差し出されました。

主イエスが十字架で死なれたということは、誰にとっても明らかな事実でした。変わることのない出来事でした。けれどもこの死んだ主イエスが復活されたとき、そこに人々は新しい事実を突き付けられました。朽ちるわたくしたちを永遠の命に生かす神がおられる。主イエスの復活を彼らは主イエスの家系によって納得したのではありません。命の造り主なる神さまが復活させたという「神からの教え」へと彼らは引き上げられたのです。

この主イエスの復活の知らせがわたくしたちの元に届けられました。天の父なる神さまはわたくしたちを教会の礼拝に招き、ご自身のもとにある永遠の命を得ることへと引き寄せておられます。わたくしたちも信じる者とならせ、死を越えて復活させる日へと招いておられるのです。

2014年7月13日日曜日

「終わりの日の復活」ヨハネによる福音書 6:34-40

わたくしたちの命は、天と地とそこに満ちるものを無からお造りになった神さまがお造りになりました。神さまは造られたわたくしたちの命を保ち、生きるをも死ぬをも支配しておられます。そしてわたくしたちを、死を越えて永遠の命に生かすことを願っておられます。この神さまの願い、神さまの御心を、わたくしたちに告げ、いよいよわたくしたちのこの身に成し遂げるために、主イエスは天から降られました。

主イエスはご自分のもとに来る者たちに、この神さまの御心を信じるよう求めます。そしてこの、神さまの御心を信じるということと、主イエスを信じることを同じこととして、主イエスはわたくしたちに求めます。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」。

主イエスはそして、わたくしたちが主イエスを信じるために、十字架で死んでゆかれるのです。神さまのわたくしたちへの御心を信じるということは、死んだわたくしたちを復活させ永遠の命を得させるということを信じることであり、その神さまに信頼する態度を主イエスは十字架の死において全うしてくださいました。

はじめ、主イエスの十字架の死を、そのように受け止める者は誰もいませんでした。弟子たちもそうでした。けれども復活された主イエスと出会った弟子たちは、主イエスの十字架の死が、永遠の命を得させる神さまの御心を信じる態度の極みであったことを、知らされました。十字架の死を通して主イエスが神さまへの信頼に生き抜いたということを、知ったのです。そして、主イエスを信じる者へと変えられました。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。そう宣言してくださった主イエスの言葉を、主イエスの復活の光によって照らされ、この主イエスの言葉が、神の御心が、この身に成し遂げられると信頼することへと変えられたのです。新たに生かされたのです。

今や神さまはわたくしたちを礼拝へと招き、主イエスのもとに迎え入れておられます。主イエスを信じる者とならせ、わたくしたちをこの方と一つとし、この方にあらわされた永遠の命にわたくしたちを生かしておられます。わたくしたちもまた神さまの御心が成し遂げられる者としてここから新たに生かされる。この身を復活させられる日が来るのです。