2014年6月29日日曜日

「この身を輝かす神」ヨハネによる福音書 6:16-21

夕方を過ぎて辺りが暗くなっている中、弟子たちは湖の向こう岸へと舟をこぎ出しました。これからどんどん暗くなり、弟子たちは闇に向かって進んでゆくようなものです。

それでも弟子たちはうろたえませんでした。強い風が吹いて来るのも、夜のこの湖ではよくあることです。湖が荒れても、自分たちなら何とかなると思いました。彼らは、この湖を仕事場とする漁師なのですから。しかし、自分たちの当たり前が覆される出来事が起こりました。主イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、弟子たちは恐れました。

わたくしたちは、自分の当たり前がそうではなくなったとき、足元を揺るがされます。自分の常識が通じなくなることを恐れます。そのときわたくしたちは光の中にあっても闇の中にいるのと同じです。通じていた言葉が通じなくなる。出来ていたことが出来なくなる。あってはならぬことが起こっているから、揺るがされるのです。

その中にあって、主イエスはわたくしたちと共におられ、「わたしだ。恐れることはない」「わたしがいる」と宣言しておられます。たとえわたくしたちの側から否もうとも、この方はなお共におられ、わたくしたちを揺るがない土台の上においてくださる。主イエスは死を越えてわたくしたちと共におられ、目指す地へと到らせてくださいます。

主イエスの十字架の死は、何としてでもこの方を神から引き離そうとする、人間が招いた結果です。人々は主イエスが父なる神の御子であることを否定し、そこから引きずり降ろそうとしたのです(19:7)。けれども十字架で死んだその主イエスを、神さまは復活させました。十字架の死さえも、父である神さまのもとからこの御子を引き離すことは出来ませんでした。主イエスの十字架の死からの復活はこの父と子の絆が死を越えるものであったことを証しているのです。

この十字架で主イエスがご自身の命をささげられたことによって、天の父なる神さまはわたくしたちの命を神の子として買い取ってくださいました。わたくしたちもまた、父の手もとにある。死によってさえも引き離されることのない父と子の結びつきにおかれ、揺らぐことのない土台をわたくしたちは据えられているのです。

夕方から暗闇へと進みゆくわたくしたちは何も孤独に知らないところへ向かうのではありません。死から復活された主イエスが、目指す地へたどり着かせるべく、わたくしたちと共におられるからです。

2014年6月15日日曜日

「私をいかす神の喜び」ヨハネによる福音書 6:1-15

神さまが喜んでおられるのは、わたくしたちを永遠の命に生かすことです。わたくしたちの命をお造りになった神さまは、この命を喜んでおられ、死を越えて永遠の命に生かすことを願っておられる。

そのように神さまがわたくしたちを御覧になっていることへとわたくしたちの目を引き上げようと主イエスはフィリポに問いかけました。神さまがわたくしたちをどれほど豊かに用いようとしておられるのか、ここで示そうとされるのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。

フィリポの見積もりは、人々の目におかしなものではありませんでした。主イエスと共にそこに座った男たちはおよそ五千人でした。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。

もう一人の弟子アンデレは、役に立たないと見えた少年をこの議論にわざわざ登場させて、価値のないものと見積もります。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。

アンデレの話の進め方はともかくとして、これらの見積もりはわたくしたちの地上の価値判断として特別なものではありません。また、そのような地上の判断をわたくしたちが常日頃行っていることを、主イエスも非難していません。主イエスは、わたくしたちの地上の見積もりをはるかに越えて、わたくしたちが神の国で永遠の命に生かされることを教えたいのです。ここでなさったしるしは、神の国を先取りして人々に映し出しました。

主イエスは少年が持っていたパンと魚を、座っている人々に分け与えられました。彼らが満たされたとき、残ったパンの屑を集めると、十二の籠がいっぱいになりました。地上の見積もりの通りとはならず、少年が持っていたパン五つと魚二匹は、五千人を満たして、溢れ出て、さらに余りあるものとなったのです。

天の父なる神さまは、そのようにわたくしたちが神の国で豊かに用いられるべく地上の命を与えられていると御覧です。たとえ自らに価値を見出せなくても、足りない者だと見えたとしても、そのわたくしたちを、神の国において、わたくしたちの見積もりをはるかに越えて活かしてくださるのです。永遠の命に生かされるわたくしたちは、神さまの喜びに万人が与るために用いられます。この喜びの場へと主イエスはわたくしたちを引き出しておられるのです。

2014年6月8日日曜日

「失って得る神からの恵み」ヨハネによる福音書 16:1-15

主イエスが都エルサレムで弟子たちと夕食をとっておられたときのことです。十字架につけられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の席で、主イエスは弟子たちに話しかけ、これからの弟子たちの歩みを励ましました。

あなたがたは「イエスの弟子である、僕(しもべ)である」ということで、世から憎まれるかもしれない。けれども世はその前にわたしイエスを憎んでいたのだ。そしてわたしは世の支配者に裁かれ、十字架で死ぬ。わたしはあなたがたと一緒にいなくなり、去って行く。
弟子たちはこれを聞き、悲しくて仕方がありませんでした。

続けて主イエスは言いました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る(7)」。

弟子たちは聞いて解ったわけではありません。けれどもこうおっしゃったのです。そして、主イエスが弟子たちのもとを去って行くことが、弟子たちのためになるという。
これまで弟子たちは、目で見える姿で、手で触れられるところに、主イエスがいるのが当たり前でした。主イエスが十字架で死んでゆかれ、彼らは当たり前のことを失います。それは己に死ぬということです。けれども主イエスはそれが彼らのためになると言う。

弟子たちはこれから、自分を何者だと言うのでしょうか。主イエスが去った後も、主イエスの弟子であり僕であると告白するなら、それは独りでその状況に向き合うことになります。主イエスはもうそこにいないからです。

けれどもその告白において、「弁護者」が側に来ておられることを知る、と主イエスは言います。そしてこの弁護者がわたくしたちに立つべきところを得させる。迫害され立場を失っても、なお立つべきところがある。それは、十字架で死んだ主イエスを復活させた神さまがお与えになる、永遠の命です。死を越えて与えられる永遠の命にわたくしたちも生かされるのです。

これまで弟子たちは主イエスの側にいながらも、ただ外から眺めていたに過ぎませんでした。主イエスの十字架の死もそうです。けれどもこれが自分を救うための死であったことを、主イエスの復活を証しする真理の霊がわたくしたちに悟らせます。そして、主イエスを復活させた神さまが死んだわたくしたちをも復活させ、永遠の命を与えてくださると告白することにおいて、わたくしたちもいよいよ命の道を進ませて頂けるのです。