2014年5月25日日曜日

「その声を聞く者は生きる」ヨハネによる福音書 5:19-30


主イエスは、ご自身の十字架の死と死からの復活をわたくしたちに知らせることによって、わたくしたちを生かそうとします。主イエスはご自身をわたくしたちに証します。

そのわたくしたちとは、死へと向かう生を生きていた者たちです。過去から現在、そして将来と進みゆくその先にあるのは、わたくしたちの死であり、無で終わるということです。

しかし主イエスの証しは、わたくしたちが死を越えて命を得る、ということをわたくしたちに知らせます。わたくしたちはこれまで、自分たちが死ぬことへ向かうと考えていたかもしれません。けれども、死を越えて生きることへと今や向かわしめられている、と主イエスは言うのです。「父が死者を復活させて命をお与えになる」と。

そうしますと、わたくしたちに永遠の命を得させる父なる神さまの御支配は、将来から現在のわたくしたちへと向かって来ているのであり、さらに過去へと向かうことになります。もしわたくしたちの終わりが虚無ではなく、永遠の命であるならば、今あるわたくしたちはそこへと向かう者とされているのであり、それに値する意味ある生とされているのです。さらには、主イエスを知らずにいたわたくしたちの過去もまた、わたくしたちが得る永遠の命へと向かうものであったということになります。これはわたくしたちの思いをはるかに越えています。

この迫り来る将来とは「あなたは生きる」「わたしはあなたを生かす」とおっしゃる父なる神さまの言葉が響き渡る世界です。実現する世界です。その神さまの声が、主イエスの十字架の死からの復活によって産声を上げました。そしてわたくしたちのところにまで届けられました。

この声をわたくしたちの内に響かせるために、主イエスはわたくしたちを礼拝へと招いてくださいました。迎えられたわたくしたちは、復活された主イエスの御言葉によって、父なる神さまの声を聞くのです。わたくしたちの命の造り主の声を聞くのです。

死へとただ向かう他なかったわたくしたちの生が変えられました。死を越えてわたくしたちを生かす、父なる神さまの声の響く世界へと、主イエスはわたくしたちを引き出しておられます。将来から御手を伸ばし、今のわたくしたちへと及ぼしている神さまは、わたくしたちを遡って、わたくしたちの過去にも、父祖の代にまでも御声を響かせます。この知らせを知ることのなかった、既に墓に眠る者の先駆けとして、わたくしたちは礼拝に迎えられたのです。


2014年5月11日日曜日

「新しい世界に生きる」ヨハネによる福音書 4:43-54

わたくしたちが何かを信じるということはまるで、その信じる対象が奏でる楽曲に包まれて生きるようなものです。わたくしたちが生きる世界にはどのような音が響いているでしょうか。どのような声が響いているでしょうか。わたくしたちが意識していたとしても、していなかったとしても、わたくしたちは何かしら信じているものの声が響き渡る世界に生きている。そこに何が響き渡っているのか。

カファルナウムにいた王の役人は、この時までどのような声が響き渡る世界に生きていたでしょう。この役人を取り巻いていたのは、「もうだめだ」という声です。自分が愛する息子が死にかかっている。そのなかで、誰に聞いても「もうだめだ」というような声を聞くのです。あきらめろと言われているのです。それがこの役人を包んでいた声でした。そのような世界に生きなければなりませんでした。しかしそう簡単にあきらめることなどできるでしょうか。一度はあきらめようとしたとしても、なおあきらめられない自分というものもそこに見出すのではないでしょうか。

この役人はすべてを投げ打って主イエスのもとにやって来ました。カファルナウムの町から、主イエスがいるカナの町まで、およそ二六キロメートル。それは役人にとって、その日のうちにつくことの出来ない距離でした。死にかかっている息子をおいて、いわば大ばくちをうって、主イエスに行っていやしてもらえるよう願いに来たのです。

この願い出に対して主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言い、あなたの注文通りの奇跡など起こらない、と答えました。そして「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と続けて言われました。主イエスはこの役人を、「あなたの息子は生きる」という声の響き渡る世界に新たに生かしたのです。その言葉が満ちる世界へと彼を引き出したのです。

わたくしたちの命の造り主である神さまは、十字架で死んだ主イエスを死人の中から復活させることによって、死を越えてなお意味を持つ言葉をわたくしたちの世界に新たに響かせられました。それは「あなたは生きる」という神の言葉です。この「あなたは生きる」という神の言葉を、わたくしたちの死を越えてすべての者に届けられるべく神さまは響かせておられます。その神の言葉が響く世界へと主イエス・キリストはわたくしたちを引き出して、わたくしたちを新たに生かしておられるのです。

2014年5月4日日曜日

「刈り入れの喜び」ヨハネによる福音書 4:27-38

わたくしたちの世界や、わたくしたち自身の歩みは、滅びで終わってしまうのでしょうか。それとも、いつか終わったとしても、尽きることのない繁栄をもたらされるのでしょうか。

わたくしたちが知っている命は、やがて終わるものです。そしてこれが滅びで終わるからには、わたくしたちが出来ることと言えば、現状を維持することが精一杯でしょう。進みゆく時間は、わたくしたちに結果として負をもたらすことへと進められます。そのわたくしたちがなぜなおも生きるのか。わたくしたちの命の意味は無によって飲み込まれてしまいかねません。

けれども、わたくしたちの終わりが、本当の終わりが、尽きることのない繁栄であるのなら、わたくしたちの今はそこへと向かわしめられる今となります。たしかに、この歩みが衰えて行くなかでわたくしたちは労苦するかもしれません。そうであっても、この今が、尽きることのない繁栄へと、永遠の命へと至るのであれば。わたくしたちの今は永遠の命との関わりにおいて何らかの意味を持つはずです。豊かにわたくしたちを生かす、意味を持つはずです。

主イエスは言いました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである(34)」。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである(6:38-40)」。永遠の命をわたくしたちに知らせ、得させることが主イエスの食べ物だと言います。主イエスは、ご自身が持っているこの食べ物をわたくしたちに与えたい。わたくしたちの今が永遠の命を得るべく与えられた今であることを、共に喜びたい。そう願ってわたくしたちを礼拝へと招き、わたくしたちに語り掛けます。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35)」。

主イエス・キリストが復活されました。わたくしたちの命の造り主である神さまが、十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させました。そこにおいて神さまは、死で終わるのではない、たとえ死んでも、尽きることのない永遠の命があることを、わたくしたちのこの身に得させることを、わたくしたちに宣言しておられます。もう信じてよいものとして、わたくしたちは招かれ、永遠の命の道を得る道を新たに生かされているのです。