2014年4月27日日曜日

「世の救い主を知る喜び」ヨハネによる福音書 4:16-30, 39-42

わたくしたちは、礼拝を献げる対象が本物であることを求めます。偽物の神など、拝んでも仕方がないですし、期待も出来ません。わたくしたちは本物の神さまを知ることによってまことの礼拝を献げたいと願うのです。

主イエスがサマリアを訪れた当時、サマリア人はゲリジム山で礼拝しました。かつてここには神殿があり、そこにおいて主なる神を礼拝する歩みが続けられて来ました。

一方、ユダヤ人はエルサレムに神殿を建て、主なる神を礼拝しました。この両者は、もとは同じヤコブ(イスラエル)の家系でしたが、ユダヤ人はエルサレムに神殿を建てると、サマリア人を神殿から斥けました。かつてサマリアは大国アッシリアの支配下で、移住して来た異教徒と混じり合ってしまった。サマリア人は純潔を失ったとユダヤ人には見えたのです。それでサマリア人はゲリジム山に神殿を建て、主なる神を礼拝しました。

どこで礼拝することがまことの礼拝なのか。女の問いに対し主イエスはしかし、ご自身によって明らかにされた父なる神さまを礼拝することを求めます。主イエスは、世の罪を取り除くための神の子羊としてやって来られ、十字架の死を遂げてくださいました。神さまはご自身の独り子を十字架の死に差し出してまで、世を救おうとされた。その主なる神さまの御意志を、神さまは死者の中から主イエスを復活させて明らかにされた。この主イエスが女の前に、ここに来ている。

主イエスは「今がその時である」と女に告げ、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時」が来ていると言います。そこで問われるのは、「礼拝するあなたは何者なのか」です。女は主イエスに自らのありのままを告げました。自分の真実が隠されたまま神を礼拝するのではないのです。神の前に、主イエスの前に、わたくしたちの全ては知られています。わたくしたちが知らないことも、知りたくないことも、知らなかった振りをしていることも、全てをご存知です。その上で神さまは、主イエスを十字架の死に引き渡されたのです。

わたくしたちの命の造り主なる神さまが、わたくしたちの命を受け入れてくださっています。女は主イエスのもとに水がめを置いたまま、町に行きました。わたくしたちは礼拝において、自分の真実を主イエスのもとに置かせていただくのです。この方のもとに招かれ、わたくしたちも重荷を降ろさせて頂きます。そこに、渇くことのない命があるのです。

2014年4月20日日曜日

「イエスを復活させた神」ヨハネによる福音書 20:1-18

何者かがわたしの主を取り去ってしまった。悲しみのうちに立ち尽くすマリアに、復活された主イエスは語り掛けました。原文を見ると、マリアへの呼び掛けはここで特別に「マリアム」とあります。彼女の母国語での呼び掛けです。福音書は、彼女の心の奥底にまで届く言葉をもって主イエスがここでマリアに語り掛けたことを伝えるのです。

振り向いてそれが主イエスだと分かると、彼女は喜びのうちに主イエスにすがりつきます。けれどもマリアに主イエスは言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。

マリアは、生前の主イエスとの関係が再び与えられたのだと思いました。そして、この関係を手放してなるものかと必死にしがみついていた。けれども主イエスはこれを退けます。それはマリアがこのとき、主イエスの復活を単にラザロの蘇生(第11章)のように、やがて死ぬことになる生に生き返ったのだと受け止めていたからです。

しかし主イエスはもう死ぬことのない、死の支配を受けない、死に勝利した方として死から復活されました。天の父なる神さまのもとへ上る方として死者の中から復活させられたのです。天の父なる神さまは、何か人間の欲や求めによってつなぎ止めることが出来るような偶像となるべくして主イエスを復活させたのではありません。反対に、わたくしたちがこの方につなぎ止められるべく復活させられました。この方につなぎ止められ、この方によって神のもとへとわたくしたちを引き上げるために(17)。

そうなるべく、主イエスはマリアに語り掛け、御自身を顕わし、マリアを新たに生かします。それゆえマリアはもう、空の墓にとどまることはありません。マリアは主イエスの命令に従って、主イエスの言葉を告げに弟子たちのところへ行きます。無から命を創造する神、天の父なる神さまのもとに引き上げてくださる主イエスに、しっかりとつなぎ止められていることを知ったからです。主イエスは言いました、「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない(16:22)」。

死すべきわたくしたちが、しかし死をへても永遠の命に復活させられるべく、主イエス・キリストにつながれています。その主イエスの語り掛けを、わたくしたちも礼拝において聞くのです。わたくしたちを新たに生かす主イエス・キリストを神さまは復活させられました。

2014年4月13日日曜日

「永遠の命に至る水」ヨハネによる福音書 4:1-15

「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。その願いは、わたくしたちにも共通します。わたくしたちも、からからに渇いたこの心を何とかしたいと願い、しかし何とも出来ない負の現実に打ちのめされ、言葉を失う。そこでもし、渇くことがないようになるなら。その水を願うのです。

女の渇きは、彼女の事情によります。五人の男と結婚・離婚を繰り返し、今共に暮らす相手は、正式の夫ではない(18)。当時の水汲みは主に女性の仕事でした。ですがこの女は町中の井戸で水を汲めません。他の女たちに「否」を突き付けられているからです。町外れのヤコブの井戸も、他の女たちが汲みに来る時間は避けて、あつく太陽が照りつける真昼にしか、この女は水を汲みに来ることが出来なかった。

わたくしたちが自らに「否」を突き付けられるのは、何も自分がしたことばかりによるわけではありません。不治の病や先天的な病を負っていることを知った時、わたくしたちは少なからず、自分という存在に対して「否」を突き付けられた思いになるのではないでしょうか。また自らの行いと関係がない分、かえって納得できない不条理な「否」として突き付けられます。

女は「渇くことがない水」を求めましたが、主イエスは「また渇く」と言われました。女が願うようなものは、すぐまた渇く。そのようなうたい文句の代物は、世に数知れません。しかしそれによって満たされるのは、一時でしかない。自らに「否」を突き付けられ、渇きを覚えながらも、どうしようもなく立ち尽くしているのが、この女であり、わたくしたちなのです。

その女に、主イエスは「水を飲ませてください」と頼みました。この女に「永遠の命に至る水がわき出る」はずだからです。そんなものを自分に与えられているとは、女は思いません。わたくしたちもそうでしょう。しかしそれほどまでに、わたくしたちの命の向かう方向が、見失われている。その生きた水を、わたくしたちに得させるため、主イエスは十字架で死なねばなりませんでした。わたくしたちの命を、神さまのもとに買い戻し、永遠の命に至るものとするために。

その主イエスを、神さまは死人の中から復活させて、永遠の命をわたくしたちに与える御意志を明らかにされました。それは造り主による、造られたわたくしたちへの「然り」「良し」を告げるものです。そしてキリストに結ばれてわたくしたちの命が、永遠の命に至ることを、礼拝においてわたくしたちに宣言しておられるのです。