2014年12月21日日曜日

「救い主の宿るところ」ルカによる福音書 2:1-7

救い主イエス・キリストは多くの人からは見向きもされないところで誕生しました。ゆきとどいた備えのある部屋の中ではなく、飼い葉桶の中に布でくるまれて寝かせられました。誰もこの幼子を世の救い主だとは思いません。それでも、神さまは幼子イエスを誕生させ、わたくしたちの救い主としてお与えくださったのです。

救い主イエス・キリストの誕生は、造り主なる神さまが造られたこの世へとくさびとして打ち込んだ、それまでの歴史を一変させる出来事です。それまでは、造り主なる神さまを離れ、そのため死んで滅びて終わることへと向かう他なかったこの世でした。その世に生きるわたくしたちに神さまは、キリストの支配のもと、造り主であるご自身を知らせ、死を越えて神と共にある生を生きることへとわたくしたちを向かわせます。救い主の誕生はわたくしたちの生を変えたのです。
この重大さは決定的であるものの、救い主の誕生という出来事は、まことに小さなところから始まりました。救い主の誕生は決定的な重大さを持ちながらも、まことに密やかに、人が知ろうとしないところで、始められたのです。始められていたのです。

それはまるで、女性が妊娠して子を宿すということと同じく見えます。母体となる女性は、受精したその時や着床したその時をおよそ知らないまま、しばらくの期間をへて、やがて自分の身に始められている命の事実を知ることでしょう。自分が知るに至るその前に、既に神さまは子を宿すという命の事実を始められたのです。密やかに始められていたのです。
この日お生まれになったイエスが救い主キリストであると公に言い始められたのは、この御子が十字架の死から復活させられてからのことでした。この復活に造り主なる神さまの御意志を聞き取った者たちによって始められたのです。これもまた、まことに小さなところからの始まりでした。

救い主イエス・キリストは今や天からわたくしたちへと手を差し伸べ、ご自身が支配する世にわたくしたちを生かしておられます。神さまが「こう造ろう」と願われたその生へとわたくしたちを生きる者となさるのです。

わたくしたちをお造りになった神さまと共にある生をわたくしたちに歩ませるため、救い主はわたくしたちの内に誕生しました。死を越えて神と共にある生をいよいよわたくしたちに生かすため、神さまは一人一人をお選びになり、わたくしたちの救い主の誕生という命の事実を告げ知らせる礼拝へと招いておられます。

2014年12月14日日曜日

「人の定め、神の定め」ルカによる福音書 1:57-66

「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。主の御使いにそう言われ、祭司ザカリアは口が利けないままでした。年をとった妻エリサベトが身ごもった後も、そうでした。御使いのお告げの通りエリサベトが男の子を産んでからも、ザカリアは口が利けないままでした。

男の子が生まれて八日目、神さまが定めた律法に従って、男の子に割礼を施す日が来ました。併せてこのとき、男の子に名をつけることになりました。割礼のために集まってきた人々は、父親の名をとってザカリアと名付けようとしました。けれども妻エリサベトは、ヨハネと名付けることを求めます。主が御使いによって夫ザカリアに男の子の誕生を約束してくださったとき、その名をヨハネと名付けるよう命じられていたからです。

御使いのお告げを知らない人々は、エリサベトの求めがおかしなものと聞こえ、父ザカリアに確認します。するとザカリアは、文字を書く板に「ヨハネこそ、この子の名である」と記しました。人々はふしぎに思いましたが、さらに驚かされたのは、ヨハネという名が付けられたこの時、ザカリアの口が開き、舌がほどけたことです。ザカリアは神さまへの賛美を口にします。

神さまはザカリアに、時が来れば実現する神の言葉を告げておられました。ザカリアはこの言葉と共にあったのです。それは今生きて働かれる神さまが共におられたということです。

神殿の聖所で神さまの御前に香をたくのは、神さまがお定めになった大切な務めでした。その役を担った祭司ザカリアでしたが、神さまの御前で、今生きて働かれる神さまが共におられるということを信じられませんでした。口が利けなくなったことで彼は自らの内奥を不信にしていたことを知りました。

けれどもそのところにこそ、神さまは御手を及ぼされます。ザカリアを大いに慈しむ神さまは、彼に今生きて働かれる神さまへの信仰を与えました。そうでなければ、人の定めに従って、人々の言う通りザカリアと名付ければ良かったのです。そうではない道を神さまはザカリアに行かせました。神さまが共にいる、神の約束が実現する道を行かせるのです。イエス・キリストの誕生は、今生きて働かれる神がわたくしたちと共におられるという約束をわたくしたちにも告げています。キリストの十字架の死からの復活はわたくしたちの生の根本に届けられた、共におられる神の約束なのです。

2014年12月7日日曜日

「神からいただいた恵み」ルカによる福音書 1:26-38

「こんなはずではなかったのに」。自分が思い描いていたのとは全く異なる状況に陥ってしまい、マリアのそばにいた者たちは、そうつぶやいて立ちすくんだかもしれません。当のマリアも御使いの言葉に戸惑い、考え込みました。けれどもマリアは、それで終わりませんでした。立ちすくんでしまうような中で、立ち上がるところを与えられたからです。

マリアは、「主があなたと共におられる」という約束のもと、立ち上がらせられました。それはこのときばかりではありません。宿した子を産むに至るまでも、繰り返し自らを問われ、神に問い、この約束にすがりました。最愛のわが子を十字架で失ったときも、神からのこの約束がただ一つの希望であったにちがいありません。

何かマリアが特別な才能を持っていたから、御使いのお告げを聞いて素直にそれに従えたというのではなく、むしろマリアは何も持たないおとめでした。また、いいなずけのいる未婚のおとめが神の子を懐胎したと公言するなら、石で打たれてもおかしくありませんでした。マリアは立つところを全く失うのです。

そのマリアに、神さまは立つところを与えてくださいました。「主があなたと共におられる」という約束がこの身に成ることへと立ち上がらせられました。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言います。立ちすくんでしまいそうになる中で、何度もこの言葉を口にしたことでしょう。そのマリアと共に主がおられました。

自分の思いとは別に、周りの状況が進んでいく。しかもそれがどこへ向かっているのか、見えないでいる。不確かな立場におかれる中で、もし確かな道があるのなら、わたくしたちはそこを進みたいと願うでしょう。「主があなたと共におられる」は、「主があなたを知っておられる」という約束でもあります。わたくしたちが不確かでも、主は知っておられる。この主は、わたくしたちの命の造り主です。

「あなたはわたしの自慢の子、わたしの誇りだ」と造り主なる神さまがわたくしたちを御覧になり、御手の中を歩ませておられます。どれだけ自分が不確かな歩みをしているように思えても、造り主の変わらぬ意志の下にわたくしたちは守られ、神が召し出した道を歩む者とされているのです。その道を共に歩んでくださる主イエス・キリストがおられます。十字架の死から復活させられ、死を越えて共におられるこの方が、神からの恵みとしてわたくしたちに差し出されているのです。

2014年11月23日日曜日

「神の手に守られて」ヨハネによる福音書 10:22-42

朝、羊飼いは羊の囲いにやって来ます。羊飼いは自分の群を連れ出し、青草の原で食ませ、水場で憩わせようと囲いにやって来るのです。羊は羊飼いを待っています。門を通って入って来るのが、自分のまことの羊飼いです。耳をすまして声を聞き、自分の名が呼ばれるのを心待ちにしています。

主イエスは、ご自身とご自身の民とを羊飼いと羊の群との関係にたとえ、羊飼いイエスがその群を守りきると約束しました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」。

主イエスはここで、ご自身の手からだれも主イエスの羊である者たちを奪い取ることはできないと言います。さらには、この者たちが主イエスの手に守られているということがすなわち天の父なる神さまの手に守られているのであり、誰もその手から奪い取ることはできないのだ、と言います。これはわたくしたちへと語り掛けられた約束です。

主イエスの声に聞き従う羊であるわたくしたち。そのわたくしたちに主イエスは永遠の命を与えており、決して滅びないと約束します。もはや主の手からわたくしたちを奪い取ることのできる者は誰もいない。わたくしたち自身でさえ、です。

主イエスは、この約束をわたくしたちが信じることを求めます。主イエスをわたくしたちのまことの羊飼いとして信頼を置いてよいというのです。何かこの約束がないかのようにして、自分自身を永遠の命を得るに値しない者とする必要はない。永遠の命を与えられた者として、主イエスの手からけっして離れえない者として、わたくしたちは地上の生を与えられている。

天の父なる神さまが、わたくしたちの命を造られました。この神さまはわたくしたちが自分の生に絶望したままでいることを願っておられません。神さまは御子イエスをわたくしたちの羊飼いとして与えました。そしてこの方を十字架の死から復活させたことにより、命の造り主である神さまの声を響かせてくださいました。神はわたくしたちの父として、死を越えてわたくしたちの名を呼んでくださいます。十字架の死さえも、御父から御子を奪うことはできませんでした。死をも絶望としない父なる神さまの手にわたくしたちは守られているのです。

2014年11月9日日曜日

「主はわたしの牧者」ヨハネによる福音書 10:1-6

「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください(民数記27:16)」。そうモーセは神さまに祈りました。飼う者のいない羊は生きて行けません。目があまり見えないので、自分だけでは生きられないのです。群に寄り添う他ありません。その群も、荒れ野の中、飼う者なくしては草原へ行くことも、水場へ行くこともできません。まことの羊飼いのもとでなければ、そこへとたどり着かないのです。

わたくしたちには導き手が必要です。導く者の声を聞き、従って歩みたいのです。指導者モーセは自らの生涯を終える前に、後継者ヨシュアを任命します。モーセは約束の地に入ることができません。そして約束の地に民が入るために、導き手としてヨシュアを任命して、彼に委ねるのです。その関係をモーセは羊飼いと羊の関係になぞらえて祈りました。

主はわたしの牧者である。そう告白できるところに、神さまを自分の主と信じる幸いがあります。けれどもわたくしたちは、牧者であるこの方の声が聞こえないというときがあります。主がわたしの牧者であるはずなのに、その声が聞こえない。周りの人は聞いているのかもしれません。しかし自分には聞こえないのです。周りの人はどんどん先へ行き、自分だけ取り残される。周りへの単なる追従は、やがてまた渇きます。誰かに届けられた声というのではなく、このわたしに声が届けられることが必要なのです。そこで求められているのは「わたしとあなた」という二人称の関係です。わたしの存在が問題となっているのです。このわたしの名を呼ぶ声が。

主イエスはご自身を羊飼いにたとえ、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言います。「あなたはわたしが牧する羊」とわたくしたちの名を呼んで、わたくしたちがこの方を主とする関係に、入らせるのです。この方がわたくしたちの存在をかけて生きられる相手であることを、わたくしたちの存在を存在たらしめる神であることを、天の父なる神さまは十字架で死んだこの御子を死者の中から復活させてわたくしたちに明らかにしてくださいました。キリストの復活は、この方が天からの御方であることのしるしです。門は開かれました。自分の名を呼ばれ、存在をかけて生きる相手を見出したとき、わたくしたちは希望をもって歩むことができるのです。

2014年11月2日日曜日

「わたしたちに現される栄光」ローマの信徒への手紙 8:18-25

わたくしたちは苦しみにあったとき、その原因が知りたくなります。お腹が痛くなったら、あのとき食べた食べ物だろうか、お腹が冷えたからだろうかと思い巡らします。災いにあったら、何か自分が悪いことをしたからではないかと勘ぐることさえあります。いずれにしても、原因のない苦しみなど受け入れ難いですし、何かその原因を突き止めることができればそれだけでも、その苦しみを受け入れられたように思います。

そうやって、わたくしたちは苦しみにあったとき、過去にさかのぼって原因を探求します。しかしそのわたくしたちに聖書は語り掛け、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と、わたくしたちを将来の目的へと引き上げます。

たとえわたくしたちが苦しみの中にあったとしても、さらには、苦しみのうちに死んでしまったとしても、なおわたくしたちに現されるべき栄光が備えられている。その希望ある将来へとわたくしたちが向かわしめられているというのです。その根拠として聖書は主イエス・キリストが十字架の死から復活させられたという、神の栄光を証します。

死んで終わる生というのは、虚無に向かって生きることです。生きる目的が虚無だというのなら、そこでわたくしたちは生きる意味も失いかねません。そのような生をわたくしたちは生きられませんし、死を受け入れることは困難です。聖書は、この虚無に服する苦しみをわたくしたちが負って生きてきたと指摘します。そして死で終わる生という、滅びに隷属する他なかったわたくしたちが、しかしその滅びを打ち破られ、神の子とされて復活する日を迎えることを約束します。

なにか、苦しみがなくなるというのではありません。苦しみから逃れて、希望が与えられるのではないのです。むしろ苦しみの中で、希望へと向かう道が備えられた。それが主イエス・キリストの十字架の死と死からの復活がわたくしたちに証しする、わたくしたちに備えられた栄光の道です。

栄光を与えられる将来がキリストによってわたくしたちに約束されています。そのわたくしたちにとって、今ある苦しみは、意味のないものではありません。この苦しみもこれまでの歩みも、すべてが、栄光を与えられる日のためにキリストが備えてくださった道の途上にあった。聖書はその将来の希望へとわたくしたちを引き上げ、なお苦しみの中にあっても栄光の日を待ち望ませているのです。

2014年10月26日日曜日

「見えるようになるため」ヨハネによる福音書 9:13-41

わたくしたちの造り主である神さまは、聖書の御言葉を通してご自身を証し、わたくしたちに知らしめ、神さまを礼拝する民の一員としてわたくしたちを召し出しておられます。

その神さまをわたくしたちは目で見ることができませんが、神さまはご自身の独り子イエス・キリストを世に与え、この独り子によってご自身の真実を人間の目に明らかにしてくださいました。その真実を主イエスは端的に言い表します。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだ(6:40)」と。天の父なる神さまは十字架で死んだ独り子イエスを死者の中から復活させて、この主イエスの言葉がまことに神の真実であることを、人間の目に明らかにしてくださいました。

とはいえ、今日のわたくしたちは主イエスの姿を目で見ることができません。復活された主イエスは天に昇られたからです。そこでわたくしたちには、わたくしたちを救う主イエス・キリストを見ないで信じることが求められていることになります。

それでも、主イエスを見ずにに信じる幸いがわたくしたちに与えられている、と主イエスは言います。「見ないのに信じる人は、幸いである(20:29)」。見ないで信じることが幸いである理由は、わたくしたちの救い主をこの目で見る日が、やがて与えられるからです。見ないで終わるのではありません。わたくしたちの造り主であられ、救い主であられ、わたくしたちを永遠の命に生かす神を、間近に見てひざまずき、礼拝する日が与えられるのです。

この神さまの真実を先取りして、主イエスは生まれつき目の見えなかった男に出会い、彼の目を開きました。しかしまだ男は主イエスを見ていません。見ない中で、主イエスを救い主と信じはじめます。その彼を主イエスはまた見出して、彼にご自身を顕わしました。この男が見ずに信じた、主イエスのお姿を、今や見えるようにしたのです。彼は単に肉体の目を開かれただけではなく、先んじて神を見る信仰の目を開かれていたのです。そしてこのとき主イエスのお姿を見、彼は救い主をこの目で見てひざまずく(礼拝する)幸いを与えられました。

わたくしたちも主イエスを知ることにより信仰の目を開かれ、神の真実を知り、やがてこの身をもって神を見る日が与えられます。主イエスは天から聖霊を降してその幸いへとわたくしたちを引き出しておられます。わたくしたちもこの幸いに与るのです。

2014年10月19日日曜日

「神の業が現れるため」ヨハネによる福音書 9:1-12

「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。弟子たちはそう主イエスに尋ねました。本人を目の前にして、何ともぶしつけな質問をしたものだ、と聞こえてまいります。ただ、わたくしたちも、自らの生まれながらの問題に直面した時に、真剣に自分にそう問うことがあるのではないでしょうか。

今自分がこうあるのは、また、生まれながら自分がこうあるのは、何か自分に問題があったからではないか。わが子が生まれながらこうあるのは、親である自分に問題があったのではないだろうか。原因を過去の自分に問い、ときに自分を責めることまでしてしまいます。

主イエスは答えます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。主イエスは、この生まれつき目が見えない人は、何か本人が罪を犯したからそうなっているのではない、と否定します。また、この人の両親が罪を犯したからそうなったのでもない、と否定します。罪とは神さまに背き、神さまを見ないで、神さまなしで生きてゆこうとすることです。その結果として神さまがこの人を目が見えないように誕生させたのか。そうではない。誰かの罪の結果によって、この人は生まれつき目が見えないのではない、と言うのです。そしてむしろ「神の業がこの人に現れるため」と言い、過去へと原因を捜し求める者の目を、「神の業が現れる」という将来の目的へと向かって開きます。

言い換えますならばそれは、将来に原因がある、ということです。しかもその将来が、死で終わる、無に帰するだけの将来ではなく、死を越えて永遠の命に生かされる将来であるならば、その将来を原因とする今の生は希望へと向かうのであり、これまで歩んできた生まれながらの道のりもまた、その希望へと向かうものであったということになります。

この、将来の希望へと生の転換をもたらすために、天の父なる神さまは御子イエスをご自身のもとから遣わされました。主イエスはその生涯を通してこの神の業に仕え、十字架の死をもって、仕え尽くされました。そしてこの主イエスを父なる神さまは死者の中から復活させることによって、死を越えて永遠の命に生きる将来がわたくしたちに備えられていることを、決定的に示してくださいました。その神さまは、今や教会を通して、わたくしたちに御霊を注いで、将来の希望へと歩む生を与えておられます。

2014年10月12日日曜日

「独り子を差し出した神」ヨハネによる福音書 8:48-59

神さまはアブラハムに命じました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい(創世記22:2)」。待ちに待って与えられた独り子イサクを、神さまは犠牲としてささげるよう命じたのです。神さまに従うアブラハムは、独り子イサクを神さまの命じられた所へ連れ、築いた祭壇の上、薪の上に彼を縛って横たえます。

アブラハムが刃物をとってイサクを屠ろうとしたその時、神さまはアブラハムに呼び掛けました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。

アブラハムが目を上げて見ると、背後の茂みに子羊が角をとられているのを見つけます。彼はイサクの代わりにこの子羊を焼き尽くす献げ物として神さまにささげ、その場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました。

アブラハムが見させて頂いたのは、万事を益とするために今もなお働いておられる、主なる神さまの摂理です。わたくしたちの思いを越えて、主はわたくしたちを良きところへと導いてくださる。そのご計画を、神さまはその独り子をさえお与えになって実現させられるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(ヨハネ3:16)」。ここに言い表された摂理のもと、主イエスはわたくしたちを生かします。

わたくしたちにはどうにもできない現実があります。病もその一つです。そこに道が閉ざされているなら、現実に向き合うのはとても困難です。けれども、このわたくしたちの命の造り主である神が、なお道を備えているのであれば。すべてわたくしたちを支配する諸々の力を越えて、万事を益としてくださる神の支配(平安)へと道が備えられているのであれば、わたくしたちも神さまに従って、その道を行かせて頂きたいと願わないでしょうか。死を越えてわたくしたちに永遠の命を得させるために、わたくしたちの救い主として、主イエス・キリストは十字架の死から復活させられました。この主イエスにおいて、神さまが予め見ておられる、わたくしたちのために備えられた命の道があります。主イエスに従い、わたくしたちもその道を共々に進ませて頂くのです。

2014年10月5日日曜日

「よりどころとなる真理」ヨハネによる福音書 8:39-47

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3:16)」。これは聖書が一貫してわたくしたちに伝える真理です。わたくしたちがよりどころとして生かされるために神さまがわたくしたちにお与えになった真理です。

この真理がわたくしたちにとっても真理となるために、主イエスは真理の霊(聖霊)によってわたくしたちのところに来ておられます。主イエスは主イエスが語られる神さまの真理をよりどころとすることを求めます。わたくしたちを聖霊によって新たに生かしたいのです。

実はわたくしたちは、それぞれに何かを真理として生きています。他の人が見てそれが偽りとして見えても、当人がよって立っているのが、その人にとっての真理です。主イエスが語っているのも、そのように何かしらを真理としている人に対してです。ここでユダヤ人が主イエスの語る真理を受け入れず信じないのは、その真理によって自分の存在が脅かされるからです。

わたくしたちもそういうところがあります。わたくしたちは自分の存在が脅かされるのであれば、届けられた真理を受け入れようとはしません。たとえその真理がどれだけ確かなものであったとしても、今の自分を失ってしまうような真理であれば、そこに立とうとはしません。わたくしたちは自分の存在を覆されるような真理であれば、信じたくないのです。

けれども、そのわたくしたちが否応なく存在を脅かされる状況に陥ったとすれば、どうでしょうか。自分の存在が絶望へと向かうのでなく、希望へと進みたいと願うでしょう。たとえば、わたくしたちは自分の命がいつか死ぬということを誰も否定できませんが、その死においてわたくしたちの存在は避けられない危機を迎えます。しかしそこで、わたくしたちの存在が希望へと覆されるのなら。希望の道が真理としてあるのなら、そこに行きたいと願うのではないでしょうか。

その希望の道がある。あなたがよりどころとして良い真理がここにある、と言って主イエス・キリストがわたくしたちのところにやって来られました。わたくしたちがこの方をよりどころとして生かされるべく、天の神さまは礼拝へと招いておられます。わたくしたちを迎え、教会を通して、御言葉の説教と聖餐をとおして、主イエス・キリストをわたくしたちに差し出し、死を越える命の希望へとわたくしたちを救おうとしておられるのです。

2014年9月21日日曜日

「無から有を造る神」ヨハネによる福音書 8:21-30

主イエスは天の父なる神さまを指して言いました。「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである(29)」。主イエスが行うことは、いつも父なる神さまの御心に適って、この方を喜ばせている。

主イエスがいつもしていること、それは、神さまがお造りになった一人一人を主イエスのもとに招き、神さまの御前に立つ者として新たに生かすことです。このわたくしたちのために主イエスはいつも祈っておられます。

主イエスはわたくしたち一人一人を、天地創造の神の御業に与らせたいのです。神さまは無から有をお造りになるお方です。そのようにして天と地とそこに満ちるものは造られました。また、わたくしたちの命が造られました。そしてこの造り主なる神さまがわたくしたちの命を保ち、わたくしたちに再創造をおこして、わたくしたちを永遠の命に生かそうとしておられる。この父なる神さまと共にあって主イエスはわたくしたちの世に遣わされ、わたくしたちを迎え入れてくださっているのです。

わたくしたちは初めての人と会うとき、緊張します。この相手が自分を受け入れてくれるだろうか、自分はこの相手を受け入れられるだろうか、と。相手が集団ならなおさらです。行ったことのない集会。知らない人たちとの食事会。そこに自分が受け入れてもらえるだろうか。入れるだろうか、居てもいいのだろうか。不安を覚えます。

主イエスは言いました。「わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行う」。わたくしたちを招いて、そう言います。わたくしたちが主イエスによって導かれ、神さまの御前に立つことを、天の父なる神さまは喜んでおられるからです。その御心を主イエスは知っておられるのです。

父なる神さまは御子イエスを十字架の死から復活させて、十字架の死さえも、父であるご自身と御子イエスとを引き離すことが出来なかったことを証しました。陰府に降られた主イエスをも父なる神さまは御手の中においておられたのです。この、死をもってしても分かたれることのない関係へと主イエスはわたくしたちを招きます。たとえどのようにわたくしたちが死んだとしても、天の父なる神さまは御子イエスの十字架の死のゆえに、わたくしたちを神の国に受け入れ、永遠の命に生かしてくださる。これはわたくしたちに差し出された大きな約束です。

2014年9月14日日曜日

「開かれた新しい道」ヨハネによる福音書 8:1-11

主イエスが神殿の境内で人々に教えておられると、律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕えられた女を連れてきました。彼らは主イエスに問います。「こういう女は石で打ち殺せと律法で命じられている。あなたはこの女に何と言うのか」。

彼らは主イエスを裁き人として立たせ、この女にどう判断を下すのか問うたのです。律法に反する行動について主イエスが容赦するようなことがこれ以上あれば、それは彼らにとって認められませんでした。もし彼女を石で打ち殺すな、と主イエスが言うなら、いよいよ今度は主イエスを捕えて裁きにかけようというのです。
主イエスは沈黙されます。そしてしつこく問う彼らに対し主イエスは「まず、罪のない者がこの女に石を投げるように」と言いました。

すると年長者から一人また一人と、その場を立ち去り、主イエスとその女だけがそこに残りました。主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言い、女に新しい道を進ませます。

その道は、主イエスが十字架の死をもってささげた命によって世に開かれた、永遠の命の道です。主イエスは何か世にあって人を罪の内につなぎ止めるために天からやって来られたのではなく、十字架の死に自らを差し出して、その命によって人を罪から取り戻そうとされるのです。このため、ご自身が命をささげて開かれた新しい命の道をこの女に歩ませます。それは、恥じ入ってその場を立ち去った人々に対してもそうです。彼らは主イエスに出会ったことで、自分が罪ある者だということを改めて知りました。しかし主イエスはその彼らを罪の内に留まらせるのではなく、ご自身によって開かれた道を歩ませるのです。

主イエス・キリストを信じるということは、この方をわたしの裁き人として受け入れることであり、この方が十字架で死んでささげた命によって、このわたしが新しい命の道を行かせて頂くことです。わたくしたち一人一人に、永遠の命を与えるために、神さまは主イエスを十字架の死から復活させました。そこに新しい道を開かれました。この方がわたくしたちの裁き主であるからには、わたくしたちは罪の中から解き放たれ、もはやわたくしたちの罪も死も、わたくしたちをつなぎ止めません。罪なきこの方が十字架の死において、わたくしたちの罪を負いきったからです。この主イエス・キリストにおいてわたくしたちは、新しい命の道を行かせて頂けるのです。



2014年8月31日日曜日

「生きた水の源泉」ヨハネによる福音書 7:35-52

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」。そう言って主イエスはわたくしたちを招いておられます。主イエスはわたくしたちに天から聖霊を注ぎたいのです。十字架の死から復活された主イエスは、弟子たちに顕われて言いました。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る(20:22)」。また、主イエスはサマリアの女に出会い、彼女の渇きを満たすのはメシア(油注がれた者)であるご自身だと明らかにしました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(4:14)」。主イエスは渇けるわたくしたちにご自身を差し出して、永遠の命で満たそうとするのです。

ですが、「渇いている者は」と言われて、「わたしがそうだ」という人がどれだけいるでしょうか。わたくしたちはむしろ、渇いている自分を人に知られたくありません。渇いていない自分でいたいのです。渇いている自分に出会わなくてもよいように、何かしらのごまかしに逃げているところがあるのです。そのための便利な道具は日々市場に出回り、わたくしたちを満たしてくれるかのような気にさせます。もはや主イエスに関わってもらってもらうことなど、望んではいない。

それは主イエスの歩まれた当時もそうでした。自分が渇いていると認めたくない者たち、メシアを期待しながらも自分の渇いているところには来てほしくない者たち。その彼らのところに、主イエスはやって来られました。そしてこの者たちに対して、主イエスは渇きました。自分の渇きを見ようとしないわたくしたちのために、主イエスが渇き尽くして、十字架で死んでゆかれたのです(19:28)。

主イエスが見ているわたくしたちの渇きとは、命の問題です。自分の命を造った神との生ける交わりを欠いてしまい、この命の造り主の意に添って生きられずにいることです。滅びに向かってゆくことから逃れられず、うめいていることです。生きるをも死ぬをも支配する神を受け入れられないでいることです。そのわたくしたちの渇きを満たすため、主イエスは十字架の死をもって、ご自身の命を神にささげられました。そして主イエスは「聖霊を受けなさい」とご自身の復活を示して、永遠の命をわたくしたちに注いでおられます。この方を源とするとき、わたくしたちからも生きた水が川となって流れ出るのです。

2014年8月17日日曜日

「人を生かす天からの教え」ヨハネによる福音書 7:10-24

主イエスは、ご自身を天から遣わした父なる神さまを指して言いました。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」。これはわたくしたちへの呼び掛けです。「さあ、あなたも一緒に、神さまの御心に生きよう。死からの復活を与え、永遠の命に生かす神さまを信じて歩もう」。そう主イエスはわたくしたちに呼び掛けるのです。

このとき主イエスは、エルサレムの神殿で人々に教えていたのですが、人々は驚きました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。それだけ、主イエスの教えと聖書の言葉が合致していたというのでしょう。けれどもこの方は、書かれた文字からこの教えを学ばれたのではなくて、天の父なる神さまから、教えを学びました。主イエスを地上にお遣わしになった神さまが、その御自身の意志を行わせ、語らせるために、ここで教えている。

しかし主イエスの教えが、本当に天からの教えなのでしょうか。神から出たものなのでしょうか。この問いに対して主イエスは、「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と答えます。分かるとすれば、それはあなたが天の父なる神さまの御心を行おうと望んでいるからだ。あなたは、御心を行おうと望んでいるのか。さあこれから、わたしと一緒にあなたも、神さまの御心に生きよう。そうわたくしたちに呼び掛けるのです。

主イエスの教えは神さまから出たものです。その神さまとは、わたくしたちに命を与えた造り主です。わたくしたちの命を造った神さまの御心にわたくしたちが生きるかどうか。造り主の意に反して、へそ曲がりの歩みをしていたわたくしたちです。虚無に伏すしかなかったわたくしたちです。そのわたくしたちを、造り主なる神さまは死を越えて永遠の命に生かそうと望んでおられます。その御心を神さまは、十字架で死んだ主イエス・キリストを死者の中から復活させることによって、わたくしたちに明らかにしてくださいました。キリストの復活は、人間が作り出した教えでもなく、キリストが作り出したものでもなく、神さまから出たものです。わたくしたちに受け入れられるべく、神の御心が差し出されました。御手を大きく拡げてわたくしたちを受け止めておられる天の父なる神さま、わたくしたちの造り主がおられるのです。

2014年8月10日日曜日

「外にある正義」ヨハネによる福音書 7:1-9

主イエスは言いました。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」。あなたがたと言われている相手は、主イエスの兄弟たちです。ガリラヤのカナで婚礼があったとき、主イエスは水をぶどう酒に変えるというしるしをなさいました。それに立ち会い、他にも主イエスのなさったしるしや教えを見聞きしてきた者たちです。

主イエスは、「あなたがたの時はいつも備えられている」とおっしゃり、彼らが主イエスを信じるべき時は準備万端もう出来上がっていると言います。決断すべき時はもう来ている。ですが兄弟たちは他の人々が主イエスを信じなかったように、この方が永遠の命を得させるために天から降ってきた神の聖者だとは信じませんでした。

「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」。主イエスの時とは、主イエスが栄光をお受けになる時です。それは十字架の死を遂げられる時です。主イエスは十字架で自らの命をささげます。その死によって、天の父なる神さまは信じる者に永遠の命をお与えになる。この初穂として神さまは十字架で死んだ主イエスを復活させました。そして主イエスが受けたその栄光をわたくしたちにも受けさせるべく、神さまは主イエスの時をわたくしたちにもたらしてくださいます。主イエスがおっしゃった「わたしの時」とは主イエスが十字架の死において神さまから栄光を受ける時であり、その十字架の死がわたくしたちに命をもたらす時です。この方を神の子メシアだとわたくしたちが信じ、命を得る時であるのです。

ヨハネによる福音書が書かれた当時、主イエスの兄弟たちは教会の指導者となっていました。この福音書において彼らは、自分たちがかつて「見ても信じない」者であったことを告白します。そして、その自分たちに神さまが「主イエスの時」をもたらしてくださった、と告白するのです。主イエス・キリストを復活させた神さまが、天から聖霊を与えてくださり、彼らを信じる者として新たに生かしました。

主イエスはわたくしたちがいよいよ信じるようにと、ご自身の復活を証し、わたくしたちに仕えておられます。主イエスは十字架の死において神さまの栄光を受け、ご自身の栄光の時を迎えられました。天の父なる神さまは、主イエスに与えられた栄光をわたくしたちに授けるために、永遠の命を得させる主イエスの時をわたくしたちにも来らせてくださるのです。

2014年8月3日日曜日

「命を与える言葉」 ヨハネによる福音書 6:60-71

主イエスの教えを聞いて人々が離れ去る中、十二弟子の一人ペトロは言いました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」。主イエスを信じる信仰をペトロが告白するのに対して、主イエスは言われました。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか」。

自分が何を信じているか、と自らに問うとき、わたくしたちはしばしば、自分で選び取った対象について、「それをわたしは信じる」と受け止めていることがあります。「これについては信じるに値する。信じることで益がある。間違いのない根拠がある」、と自分で調べて確かめた上で、「わたしはこれを信じる」と選び取るのです。

けれども主イエスは、何かわたくしたちがこの方を選び取ってこちら側に連ならせることよりも、むしろ、主イエスがわたくしたちを選んだということへとわたくしたちが信頼を置く信仰をわたくしたちに求めます。生きるにも死ぬにも、逆境のときも順境のときも、主イエスがわたくしたちを選んだということは変わりません。永遠の命を得るようにとの、天の父なる神の御心のもとに、わたくしたちは生を与えられています。神の側にある御心にわたくしたちは信頼してよいのです。

幼子が自分の親を親であると信頼することから歩み始めているように、わたくしたちも主イエスに選ばれた者として生を受けたことを信頼して、主イエス・キリストを信じて歩むことを、天の父なる神さまは望んでおられます。天の父なる神さまに造られたものとしてわたくしたちが生かされるところに、わたくしたちのあるべき姿があります。どんな絵画でも、その描き手の思いがあってこそです。わたくしたちも造り主なる神さまの思いが込められた、輝かしい命の作品なのです。

そしてさらにわたくしたちが、死から復活させられた方の選びの下に生を与えられているというのであれば、この主イエスとわたくしたちとの結びつき、関係は、死で終わりません。永遠の命を得させるという天の父なる神さまのわたくしたちへの御意志は、わたくしたちが死んでも損なわれるものではない。むしろ死を越える希望にわたくしたちはなお立つ者とされているのです。主イエスは終わりの日にわたくしたちを復活させるため、ご自身に結び合わせるべくわたくしたちを迎えておられます。

2014年7月27日日曜日

「永遠の命の食べ物」ヨハネによる福音書 6:51-59

わたくしたちが発する言葉の背後には、わたくしたちの思いがあります。わざわざ考えることもなく口から出る言葉もありますが、それも自分の心にある思いが言葉として出たのでしょう。そしてわたくしたちが言葉を発するからには、その背後にある自分の思いを相手に知ってもらいたいものです。そうすることでこちらの言葉をより正しく受け取ってもらえるだろうからです。

わたくしたちがお弁当を作るときもそうではないでしょうか。食べてもらう相手の顔を思い浮かべながら作ったお弁当は、作ってもらった者にとって格別のものになります。食べる相手があまりよく分からなかったら、せっかく上等の素材を使ってもその持ち味が十分に届きにくいのではないかと思われます。これは食べる側もそうでしょう。わたくしたちは作ってくれた人の顔を思い浮かべながら、その人の気持ちや自分への思いを、お弁当を食べることで受け取っているに違いないのです。素材の持ち味はいよいよ豊かに、食べる者へ届くでしょう。

主イエスはご自身が「天から降って来た生きたパンである」と言います。そして「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と約束します。聞いていたユダヤ人たちはどうしてそんなことが出来るのか、と互いに議論しますが、主イエスは十字架の死にご自身をささげることを通して、主イエスのもとに集められた者たちに「永遠の命を得させる」と約束したのです。そして死から復活された主イエスは、ご自身を弟子たちに顕わされ、わたくしたちには復活の告知である御言葉と聖餐を通して、聖霊を降すことによってこの約束に与らせます。

主イエスは神の言葉です。主イエスの復活の知らせは天の父なる神さまにさかのぼるものです。神さまは主イエスを死者の中から復活させることによって、造り主である神さまの思いを明らかにされました。その、造られたわたくしたちへの思いを、届けようと願っておられます。

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだ」と主イエスは言います。そしてまことにその神さまの思いをわたくしたちが信じるために、主イエスはわたくしたちに御言葉と聖餐とをもって、ご自身を差し出しておられます。まことの信仰をもってわたくしたちがこの神さまの思いを受け取り、永遠の命に生きるよう、天から降ってきたパンをわたくしたちに食べさせてくださるのです。

2014年7月20日日曜日

「復活へと招く神」ヨハネによる福音書 6:41-50

わたくしたちの命はどこからやって来てどこへと向かうのでしょうか。主イエスは、天の父なる神さまがわたくしたちの命をお造りになったと御覧です。またこの命を、死を越えて永遠の命に生かすことへと神さまが導いておられると御覧です。主イエスはその眼差しへとわたくしたちの心を引き上げ、天にあるわたくしたちの命へと目を向けさせます。

主イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言ったとき、これを聞いたユダヤ人は信じられず、つぶやきはじめました。彼らは主イエスの父も母も知っており、どのような生い立ちであるかも知っていましたから、主イエスが天に属するという主張は受け入れられなかったのです。

わたくしたちは、地上のものにしか目が行き届かないとき、「自分には何もない」とつぶやきます。朽ちるものしか見ないで、その背後にある神さまの御心が見えないからです。主イエスの教えを聞いていた彼らの先祖たちもかつて、荒れ野で天からのパンを神さまから頂きながら、つぶやきました。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない(民数記11:4-6)」。

朽ちるものにしか向かないわたくしたちの心を主イエスは永遠なるものへと向けさせます。神さまのもとにある、永遠の命へと向けさせるのです。主イエスはわたくしたちのつぶやきを信仰へと変えます。そのため、十字架の死にご自身を明け渡されました。天の父なる神さまの御心へとご自身を差し出されました。

主イエスが十字架で死なれたということは、誰にとっても明らかな事実でした。変わることのない出来事でした。けれどもこの死んだ主イエスが復活されたとき、そこに人々は新しい事実を突き付けられました。朽ちるわたくしたちを永遠の命に生かす神がおられる。主イエスの復活を彼らは主イエスの家系によって納得したのではありません。命の造り主なる神さまが復活させたという「神からの教え」へと彼らは引き上げられたのです。

この主イエスの復活の知らせがわたくしたちの元に届けられました。天の父なる神さまはわたくしたちを教会の礼拝に招き、ご自身のもとにある永遠の命を得ることへと引き寄せておられます。わたくしたちも信じる者とならせ、死を越えて復活させる日へと招いておられるのです。

2014年7月13日日曜日

「終わりの日の復活」ヨハネによる福音書 6:34-40

わたくしたちの命は、天と地とそこに満ちるものを無からお造りになった神さまがお造りになりました。神さまは造られたわたくしたちの命を保ち、生きるをも死ぬをも支配しておられます。そしてわたくしたちを、死を越えて永遠の命に生かすことを願っておられます。この神さまの願い、神さまの御心を、わたくしたちに告げ、いよいよわたくしたちのこの身に成し遂げるために、主イエスは天から降られました。

主イエスはご自分のもとに来る者たちに、この神さまの御心を信じるよう求めます。そしてこの、神さまの御心を信じるということと、主イエスを信じることを同じこととして、主イエスはわたくしたちに求めます。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」。

主イエスはそして、わたくしたちが主イエスを信じるために、十字架で死んでゆかれるのです。神さまのわたくしたちへの御心を信じるということは、死んだわたくしたちを復活させ永遠の命を得させるということを信じることであり、その神さまに信頼する態度を主イエスは十字架の死において全うしてくださいました。

はじめ、主イエスの十字架の死を、そのように受け止める者は誰もいませんでした。弟子たちもそうでした。けれども復活された主イエスと出会った弟子たちは、主イエスの十字架の死が、永遠の命を得させる神さまの御心を信じる態度の極みであったことを、知らされました。十字架の死を通して主イエスが神さまへの信頼に生き抜いたということを、知ったのです。そして、主イエスを信じる者へと変えられました。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。そう宣言してくださった主イエスの言葉を、主イエスの復活の光によって照らされ、この主イエスの言葉が、神の御心が、この身に成し遂げられると信頼することへと変えられたのです。新たに生かされたのです。

今や神さまはわたくしたちを礼拝へと招き、主イエスのもとに迎え入れておられます。主イエスを信じる者とならせ、わたくしたちをこの方と一つとし、この方にあらわされた永遠の命にわたくしたちを生かしておられます。わたくしたちもまた神さまの御心が成し遂げられる者としてここから新たに生かされる。この身を復活させられる日が来るのです。

2014年6月29日日曜日

「この身を輝かす神」ヨハネによる福音書 6:16-21

夕方を過ぎて辺りが暗くなっている中、弟子たちは湖の向こう岸へと舟をこぎ出しました。これからどんどん暗くなり、弟子たちは闇に向かって進んでゆくようなものです。

それでも弟子たちはうろたえませんでした。強い風が吹いて来るのも、夜のこの湖ではよくあることです。湖が荒れても、自分たちなら何とかなると思いました。彼らは、この湖を仕事場とする漁師なのですから。しかし、自分たちの当たり前が覆される出来事が起こりました。主イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、弟子たちは恐れました。

わたくしたちは、自分の当たり前がそうではなくなったとき、足元を揺るがされます。自分の常識が通じなくなることを恐れます。そのときわたくしたちは光の中にあっても闇の中にいるのと同じです。通じていた言葉が通じなくなる。出来ていたことが出来なくなる。あってはならぬことが起こっているから、揺るがされるのです。

その中にあって、主イエスはわたくしたちと共におられ、「わたしだ。恐れることはない」「わたしがいる」と宣言しておられます。たとえわたくしたちの側から否もうとも、この方はなお共におられ、わたくしたちを揺るがない土台の上においてくださる。主イエスは死を越えてわたくしたちと共におられ、目指す地へと到らせてくださいます。

主イエスの十字架の死は、何としてでもこの方を神から引き離そうとする、人間が招いた結果です。人々は主イエスが父なる神の御子であることを否定し、そこから引きずり降ろそうとしたのです(19:7)。けれども十字架で死んだその主イエスを、神さまは復活させました。十字架の死さえも、父である神さまのもとからこの御子を引き離すことは出来ませんでした。主イエスの十字架の死からの復活はこの父と子の絆が死を越えるものであったことを証しているのです。

この十字架で主イエスがご自身の命をささげられたことによって、天の父なる神さまはわたくしたちの命を神の子として買い取ってくださいました。わたくしたちもまた、父の手もとにある。死によってさえも引き離されることのない父と子の結びつきにおかれ、揺らぐことのない土台をわたくしたちは据えられているのです。

夕方から暗闇へと進みゆくわたくしたちは何も孤独に知らないところへ向かうのではありません。死から復活された主イエスが、目指す地へたどり着かせるべく、わたくしたちと共におられるからです。

2014年6月15日日曜日

「私をいかす神の喜び」ヨハネによる福音書 6:1-15

神さまが喜んでおられるのは、わたくしたちを永遠の命に生かすことです。わたくしたちの命をお造りになった神さまは、この命を喜んでおられ、死を越えて永遠の命に生かすことを願っておられる。

そのように神さまがわたくしたちを御覧になっていることへとわたくしたちの目を引き上げようと主イエスはフィリポに問いかけました。神さまがわたくしたちをどれほど豊かに用いようとしておられるのか、ここで示そうとされるのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。

フィリポの見積もりは、人々の目におかしなものではありませんでした。主イエスと共にそこに座った男たちはおよそ五千人でした。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。

もう一人の弟子アンデレは、役に立たないと見えた少年をこの議論にわざわざ登場させて、価値のないものと見積もります。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。

アンデレの話の進め方はともかくとして、これらの見積もりはわたくしたちの地上の価値判断として特別なものではありません。また、そのような地上の判断をわたくしたちが常日頃行っていることを、主イエスも非難していません。主イエスは、わたくしたちの地上の見積もりをはるかに越えて、わたくしたちが神の国で永遠の命に生かされることを教えたいのです。ここでなさったしるしは、神の国を先取りして人々に映し出しました。

主イエスは少年が持っていたパンと魚を、座っている人々に分け与えられました。彼らが満たされたとき、残ったパンの屑を集めると、十二の籠がいっぱいになりました。地上の見積もりの通りとはならず、少年が持っていたパン五つと魚二匹は、五千人を満たして、溢れ出て、さらに余りあるものとなったのです。

天の父なる神さまは、そのようにわたくしたちが神の国で豊かに用いられるべく地上の命を与えられていると御覧です。たとえ自らに価値を見出せなくても、足りない者だと見えたとしても、そのわたくしたちを、神の国において、わたくしたちの見積もりをはるかに越えて活かしてくださるのです。永遠の命に生かされるわたくしたちは、神さまの喜びに万人が与るために用いられます。この喜びの場へと主イエスはわたくしたちを引き出しておられるのです。

2014年6月8日日曜日

「失って得る神からの恵み」ヨハネによる福音書 16:1-15

主イエスが都エルサレムで弟子たちと夕食をとっておられたときのことです。十字架につけられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の席で、主イエスは弟子たちに話しかけ、これからの弟子たちの歩みを励ましました。

あなたがたは「イエスの弟子である、僕(しもべ)である」ということで、世から憎まれるかもしれない。けれども世はその前にわたしイエスを憎んでいたのだ。そしてわたしは世の支配者に裁かれ、十字架で死ぬ。わたしはあなたがたと一緒にいなくなり、去って行く。
弟子たちはこれを聞き、悲しくて仕方がありませんでした。

続けて主イエスは言いました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る(7)」。

弟子たちは聞いて解ったわけではありません。けれどもこうおっしゃったのです。そして、主イエスが弟子たちのもとを去って行くことが、弟子たちのためになるという。
これまで弟子たちは、目で見える姿で、手で触れられるところに、主イエスがいるのが当たり前でした。主イエスが十字架で死んでゆかれ、彼らは当たり前のことを失います。それは己に死ぬということです。けれども主イエスはそれが彼らのためになると言う。

弟子たちはこれから、自分を何者だと言うのでしょうか。主イエスが去った後も、主イエスの弟子であり僕であると告白するなら、それは独りでその状況に向き合うことになります。主イエスはもうそこにいないからです。

けれどもその告白において、「弁護者」が側に来ておられることを知る、と主イエスは言います。そしてこの弁護者がわたくしたちに立つべきところを得させる。迫害され立場を失っても、なお立つべきところがある。それは、十字架で死んだ主イエスを復活させた神さまがお与えになる、永遠の命です。死を越えて与えられる永遠の命にわたくしたちも生かされるのです。

これまで弟子たちは主イエスの側にいながらも、ただ外から眺めていたに過ぎませんでした。主イエスの十字架の死もそうです。けれどもこれが自分を救うための死であったことを、主イエスの復活を証しする真理の霊がわたくしたちに悟らせます。そして、主イエスを復活させた神さまが死んだわたくしたちをも復活させ、永遠の命を与えてくださると告白することにおいて、わたくしたちもいよいよ命の道を進ませて頂けるのです。

2014年5月25日日曜日

「その声を聞く者は生きる」ヨハネによる福音書 5:19-30


主イエスは、ご自身の十字架の死と死からの復活をわたくしたちに知らせることによって、わたくしたちを生かそうとします。主イエスはご自身をわたくしたちに証します。

そのわたくしたちとは、死へと向かう生を生きていた者たちです。過去から現在、そして将来と進みゆくその先にあるのは、わたくしたちの死であり、無で終わるということです。

しかし主イエスの証しは、わたくしたちが死を越えて命を得る、ということをわたくしたちに知らせます。わたくしたちはこれまで、自分たちが死ぬことへ向かうと考えていたかもしれません。けれども、死を越えて生きることへと今や向かわしめられている、と主イエスは言うのです。「父が死者を復活させて命をお与えになる」と。

そうしますと、わたくしたちに永遠の命を得させる父なる神さまの御支配は、将来から現在のわたくしたちへと向かって来ているのであり、さらに過去へと向かうことになります。もしわたくしたちの終わりが虚無ではなく、永遠の命であるならば、今あるわたくしたちはそこへと向かう者とされているのであり、それに値する意味ある生とされているのです。さらには、主イエスを知らずにいたわたくしたちの過去もまた、わたくしたちが得る永遠の命へと向かうものであったということになります。これはわたくしたちの思いをはるかに越えています。

この迫り来る将来とは「あなたは生きる」「わたしはあなたを生かす」とおっしゃる父なる神さまの言葉が響き渡る世界です。実現する世界です。その神さまの声が、主イエスの十字架の死からの復活によって産声を上げました。そしてわたくしたちのところにまで届けられました。

この声をわたくしたちの内に響かせるために、主イエスはわたくしたちを礼拝へと招いてくださいました。迎えられたわたくしたちは、復活された主イエスの御言葉によって、父なる神さまの声を聞くのです。わたくしたちの命の造り主の声を聞くのです。

死へとただ向かう他なかったわたくしたちの生が変えられました。死を越えてわたくしたちを生かす、父なる神さまの声の響く世界へと、主イエスはわたくしたちを引き出しておられます。将来から御手を伸ばし、今のわたくしたちへと及ぼしている神さまは、わたくしたちを遡って、わたくしたちの過去にも、父祖の代にまでも御声を響かせます。この知らせを知ることのなかった、既に墓に眠る者の先駆けとして、わたくしたちは礼拝に迎えられたのです。


2014年5月11日日曜日

「新しい世界に生きる」ヨハネによる福音書 4:43-54

わたくしたちが何かを信じるということはまるで、その信じる対象が奏でる楽曲に包まれて生きるようなものです。わたくしたちが生きる世界にはどのような音が響いているでしょうか。どのような声が響いているでしょうか。わたくしたちが意識していたとしても、していなかったとしても、わたくしたちは何かしら信じているものの声が響き渡る世界に生きている。そこに何が響き渡っているのか。

カファルナウムにいた王の役人は、この時までどのような声が響き渡る世界に生きていたでしょう。この役人を取り巻いていたのは、「もうだめだ」という声です。自分が愛する息子が死にかかっている。そのなかで、誰に聞いても「もうだめだ」というような声を聞くのです。あきらめろと言われているのです。それがこの役人を包んでいた声でした。そのような世界に生きなければなりませんでした。しかしそう簡単にあきらめることなどできるでしょうか。一度はあきらめようとしたとしても、なおあきらめられない自分というものもそこに見出すのではないでしょうか。

この役人はすべてを投げ打って主イエスのもとにやって来ました。カファルナウムの町から、主イエスがいるカナの町まで、およそ二六キロメートル。それは役人にとって、その日のうちにつくことの出来ない距離でした。死にかかっている息子をおいて、いわば大ばくちをうって、主イエスに行っていやしてもらえるよう願いに来たのです。

この願い出に対して主イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言い、あなたの注文通りの奇跡など起こらない、と答えました。そして「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と続けて言われました。主イエスはこの役人を、「あなたの息子は生きる」という声の響き渡る世界に新たに生かしたのです。その言葉が満ちる世界へと彼を引き出したのです。

わたくしたちの命の造り主である神さまは、十字架で死んだ主イエスを死人の中から復活させることによって、死を越えてなお意味を持つ言葉をわたくしたちの世界に新たに響かせられました。それは「あなたは生きる」という神の言葉です。この「あなたは生きる」という神の言葉を、わたくしたちの死を越えてすべての者に届けられるべく神さまは響かせておられます。その神の言葉が響く世界へと主イエス・キリストはわたくしたちを引き出して、わたくしたちを新たに生かしておられるのです。

2014年5月4日日曜日

「刈り入れの喜び」ヨハネによる福音書 4:27-38

わたくしたちの世界や、わたくしたち自身の歩みは、滅びで終わってしまうのでしょうか。それとも、いつか終わったとしても、尽きることのない繁栄をもたらされるのでしょうか。

わたくしたちが知っている命は、やがて終わるものです。そしてこれが滅びで終わるからには、わたくしたちが出来ることと言えば、現状を維持することが精一杯でしょう。進みゆく時間は、わたくしたちに結果として負をもたらすことへと進められます。そのわたくしたちがなぜなおも生きるのか。わたくしたちの命の意味は無によって飲み込まれてしまいかねません。

けれども、わたくしたちの終わりが、本当の終わりが、尽きることのない繁栄であるのなら、わたくしたちの今はそこへと向かわしめられる今となります。たしかに、この歩みが衰えて行くなかでわたくしたちは労苦するかもしれません。そうであっても、この今が、尽きることのない繁栄へと、永遠の命へと至るのであれば。わたくしたちの今は永遠の命との関わりにおいて何らかの意味を持つはずです。豊かにわたくしたちを生かす、意味を持つはずです。

主イエスは言いました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである(34)」。「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである(6:38-40)」。永遠の命をわたくしたちに知らせ、得させることが主イエスの食べ物だと言います。主イエスは、ご自身が持っているこの食べ物をわたくしたちに与えたい。わたくしたちの今が永遠の命を得るべく与えられた今であることを、共に喜びたい。そう願ってわたくしたちを礼拝へと招き、わたくしたちに語り掛けます。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35)」。

主イエス・キリストが復活されました。わたくしたちの命の造り主である神さまが、十字架で死んだ主イエスを死者の中から復活させました。そこにおいて神さまは、死で終わるのではない、たとえ死んでも、尽きることのない永遠の命があることを、わたくしたちのこの身に得させることを、わたくしたちに宣言しておられます。もう信じてよいものとして、わたくしたちは招かれ、永遠の命の道を得る道を新たに生かされているのです。

2014年4月27日日曜日

「世の救い主を知る喜び」ヨハネによる福音書 4:16-30, 39-42

わたくしたちは、礼拝を献げる対象が本物であることを求めます。偽物の神など、拝んでも仕方がないですし、期待も出来ません。わたくしたちは本物の神さまを知ることによってまことの礼拝を献げたいと願うのです。

主イエスがサマリアを訪れた当時、サマリア人はゲリジム山で礼拝しました。かつてここには神殿があり、そこにおいて主なる神を礼拝する歩みが続けられて来ました。

一方、ユダヤ人はエルサレムに神殿を建て、主なる神を礼拝しました。この両者は、もとは同じヤコブ(イスラエル)の家系でしたが、ユダヤ人はエルサレムに神殿を建てると、サマリア人を神殿から斥けました。かつてサマリアは大国アッシリアの支配下で、移住して来た異教徒と混じり合ってしまった。サマリア人は純潔を失ったとユダヤ人には見えたのです。それでサマリア人はゲリジム山に神殿を建て、主なる神を礼拝しました。

どこで礼拝することがまことの礼拝なのか。女の問いに対し主イエスはしかし、ご自身によって明らかにされた父なる神さまを礼拝することを求めます。主イエスは、世の罪を取り除くための神の子羊としてやって来られ、十字架の死を遂げてくださいました。神さまはご自身の独り子を十字架の死に差し出してまで、世を救おうとされた。その主なる神さまの御意志を、神さまは死者の中から主イエスを復活させて明らかにされた。この主イエスが女の前に、ここに来ている。

主イエスは「今がその時である」と女に告げ、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時」が来ていると言います。そこで問われるのは、「礼拝するあなたは何者なのか」です。女は主イエスに自らのありのままを告げました。自分の真実が隠されたまま神を礼拝するのではないのです。神の前に、主イエスの前に、わたくしたちの全ては知られています。わたくしたちが知らないことも、知りたくないことも、知らなかった振りをしていることも、全てをご存知です。その上で神さまは、主イエスを十字架の死に引き渡されたのです。

わたくしたちの命の造り主なる神さまが、わたくしたちの命を受け入れてくださっています。女は主イエスのもとに水がめを置いたまま、町に行きました。わたくしたちは礼拝において、自分の真実を主イエスのもとに置かせていただくのです。この方のもとに招かれ、わたくしたちも重荷を降ろさせて頂きます。そこに、渇くことのない命があるのです。

2014年4月20日日曜日

「イエスを復活させた神」ヨハネによる福音書 20:1-18

何者かがわたしの主を取り去ってしまった。悲しみのうちに立ち尽くすマリアに、復活された主イエスは語り掛けました。原文を見ると、マリアへの呼び掛けはここで特別に「マリアム」とあります。彼女の母国語での呼び掛けです。福音書は、彼女の心の奥底にまで届く言葉をもって主イエスがここでマリアに語り掛けたことを伝えるのです。

振り向いてそれが主イエスだと分かると、彼女は喜びのうちに主イエスにすがりつきます。けれどもマリアに主イエスは言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい」。

マリアは、生前の主イエスとの関係が再び与えられたのだと思いました。そして、この関係を手放してなるものかと必死にしがみついていた。けれども主イエスはこれを退けます。それはマリアがこのとき、主イエスの復活を単にラザロの蘇生(第11章)のように、やがて死ぬことになる生に生き返ったのだと受け止めていたからです。

しかし主イエスはもう死ぬことのない、死の支配を受けない、死に勝利した方として死から復活されました。天の父なる神さまのもとへ上る方として死者の中から復活させられたのです。天の父なる神さまは、何か人間の欲や求めによってつなぎ止めることが出来るような偶像となるべくして主イエスを復活させたのではありません。反対に、わたくしたちがこの方につなぎ止められるべく復活させられました。この方につなぎ止められ、この方によって神のもとへとわたくしたちを引き上げるために(17)。

そうなるべく、主イエスはマリアに語り掛け、御自身を顕わし、マリアを新たに生かします。それゆえマリアはもう、空の墓にとどまることはありません。マリアは主イエスの命令に従って、主イエスの言葉を告げに弟子たちのところへ行きます。無から命を創造する神、天の父なる神さまのもとに引き上げてくださる主イエスに、しっかりとつなぎ止められていることを知ったからです。主イエスは言いました、「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない(16:22)」。

死すべきわたくしたちが、しかし死をへても永遠の命に復活させられるべく、主イエス・キリストにつながれています。その主イエスの語り掛けを、わたくしたちも礼拝において聞くのです。わたくしたちを新たに生かす主イエス・キリストを神さまは復活させられました。

2014年4月13日日曜日

「永遠の命に至る水」ヨハネによる福音書 4:1-15

「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。その願いは、わたくしたちにも共通します。わたくしたちも、からからに渇いたこの心を何とかしたいと願い、しかし何とも出来ない負の現実に打ちのめされ、言葉を失う。そこでもし、渇くことがないようになるなら。その水を願うのです。

女の渇きは、彼女の事情によります。五人の男と結婚・離婚を繰り返し、今共に暮らす相手は、正式の夫ではない(18)。当時の水汲みは主に女性の仕事でした。ですがこの女は町中の井戸で水を汲めません。他の女たちに「否」を突き付けられているからです。町外れのヤコブの井戸も、他の女たちが汲みに来る時間は避けて、あつく太陽が照りつける真昼にしか、この女は水を汲みに来ることが出来なかった。

わたくしたちが自らに「否」を突き付けられるのは、何も自分がしたことばかりによるわけではありません。不治の病や先天的な病を負っていることを知った時、わたくしたちは少なからず、自分という存在に対して「否」を突き付けられた思いになるのではないでしょうか。また自らの行いと関係がない分、かえって納得できない不条理な「否」として突き付けられます。

女は「渇くことがない水」を求めましたが、主イエスは「また渇く」と言われました。女が願うようなものは、すぐまた渇く。そのようなうたい文句の代物は、世に数知れません。しかしそれによって満たされるのは、一時でしかない。自らに「否」を突き付けられ、渇きを覚えながらも、どうしようもなく立ち尽くしているのが、この女であり、わたくしたちなのです。

その女に、主イエスは「水を飲ませてください」と頼みました。この女に「永遠の命に至る水がわき出る」はずだからです。そんなものを自分に与えられているとは、女は思いません。わたくしたちもそうでしょう。しかしそれほどまでに、わたくしたちの命の向かう方向が、見失われている。その生きた水を、わたくしたちに得させるため、主イエスは十字架で死なねばなりませんでした。わたくしたちの命を、神さまのもとに買い戻し、永遠の命に至るものとするために。

その主イエスを、神さまは死人の中から復活させて、永遠の命をわたくしたちに与える御意志を明らかにされました。それは造り主による、造られたわたくしたちへの「然り」「良し」を告げるものです。そしてキリストに結ばれてわたくしたちの命が、永遠の命に至ることを、礼拝においてわたくしたちに宣言しておられるのです。